法事でお経を済ませた後、少し仏教の話をするようにしています。話の内容はそのときどきで様々ですが、このところよく、「功徳を積むということが私たちの第一になすべきことであって、この功徳しか死んだ後に持って行けないんですよ・・」などと話をするのですが、あるときそんな話をした後のお斎の席で、「功徳ということがどういうことなのか分かりませんが・・」との言葉を耳にいたしました。
功徳ある行為が大切だ、善行功徳を積んで下さい、などとよく話すものの、それではいったいその功徳とはどのようなことを意味するのか、ということになるとその説明はそんなに簡単ではないのかもしれません。インドなどでは、功徳を積むということは仏教徒もヒンドゥー教徒も子供のころから教えられて、ごく当たり前のことになっています。大人になって給料をもらうようになれば、そこからいくらかは当然の事として福祉施設やお寺に寄附をしたり、または路上で生活する貧困者や遊行者へ施しをすると聞いています。
そのインドで貧困者などへの施しを盛んに行うというのには理由があって、今の必ずしも恵まれているとは言えない人生、また過酷な気象環境の中で大変な生活を余儀なくされているけれども、誰もが死後再び生まれると信じている来世ではもっと恵まれた良いところに生まれ変わりたい、そのためには今生でせめてもの徳を積んでおくことが何よりも大切なのだということを実感しているからなのだと思います。このことはインドばかりのことではなく、スリランカやネパールなどインド文化圏の国々、それに南方経由で仏教が伝わっていったタイやミャンマー、ラオス、カンボジアなどの国々の共通の認識なのです。
パゴダという仏塔を崇拝供養することを熱心に行うミャンマーの仏教徒の中には、来世のために昼も夜も肉体労働をしてお金を貯めようとする貧しい家族が少なくないと言います。彼らは、貯め込んだお金で楽な生活をしようというのではなく、そのお金で大きな仏塔を造り、高僧を招き盛大な開眼供養をして、来世での安楽を願うのです。この二十一世紀の現代に、そうした来世の幸福のために真剣に生きている人々が、アジアの仏教国には大勢いるのです。
こうした来世観を当然のこととして持っている国々と違い、私たち日本人はそこまでの意識を持たずに成人し、歳を重ねていきます。「それではあなたは死後どうなるとお考えですか」と問われたとしても、自分自身の死後のことなどなるべく考えないで済ませたい、縁起でもないというのが本音ではないでしょうか。特に現代に暮らすほとんどの人が、この人生のことだけにしか関心がないというのが実情のようです。ですが、もっと先のこと次の世のことも含めて責任ある生き方をしようと考えた方がよいのではないかと思うのです。
私たちの仏教は、シルクロードを通り、中国経由で入ってまいりました。それが為にいわゆる仏教徒として当然身につけているべき常識に欠けていると、私の目には映ります。その代表的なものがこの来世観を含む輪廻という生命観だと思います。中国では「積善の家に必ず余慶あり、積不善の家に必ず余殃あり」といい、家単位の善行の報いとして楽果を説きます。が、仏教では、前世、現世、来世の三世にわたる個人単位の因果を説くのです。
いま私たちが不況とは言いながらもまずまずの恵まれた生活が送れるのは、前世を含めて過去の善い行いの結果であり、現在の瞬間瞬間の行いの結果として未来が、また来世があると考えます。そして、今何を見、何を聞き、何を思い、何を願い、何を行うかによって次の自分が造られていく、すべては自分の責任、自業自得だということ。そしてつまりは、私たちは死んでもそれで何もかも終わりとはならないということなのです。身体が物質的に寿命を迎えても、最後の心が次に引き継がれていくのです。
「人々は自分のつくった業にしたがって死んでいく(経集)」「ある人は再び母胎に生まれ、悪をなせる者は地獄に生じ、善をなせる者は天界に生じ、汚れなき者は涅槃に入る(法句経)」などとお経にもあり、その人の人生で行ってきたこと、つまり業によってもたらされる死の瞬間の心に相応しい世界に転生していくと教えられているのです。そうして私たちは、生まれては死に生まれては死んで何回も輪廻転生を繰り返す存在であり、その何度も繰り返す輪廻は苦しみに他ならず、その苦しみの連続から解放されるためにお釈迦様がお説きになられた教えこそが仏教なのであります。
では、よりよい来世を迎えるために、私たちはどうしたらよいとお釈迦様は教えられているのでしょうか。
「花束をもって多くの華鬘を作るがごとく、人として生まれなば多くの善きことをなすべし(法句経)」
「善きことをなせる者は、この世にても喜び、死後にも喜び、何れにても喜ぶ、おのれの行為の浄らかなるを見て喜び楽しむ(法句経)」
「直く、正しく、言葉やさしく、柔和で、思い上がることのない者であらねばならない、他人を欺いてはいけない、どこにあっても他人を軽んじてはならない、怒りの想いをいだいて他人に苦痛を与えてはならない、あたかも母がおのが独り子を命をかけて守るように一切の生きとし生けるものに無量の慈しみの心を起こすべし(経集)」
と、このように、人としてよい来世をもたらすようなよい死に方をしたければ、善いことをしなさい。そうして善いことをしたという満足感、喜びの中で死を迎えるように努力しなさいと教えられているのです。自分がしあわせでありたいと思うのと同じ様に、人の気持ちを尊重し、優しい言葉を語り、自分の出来ることを奉仕して周りの人たち、生きとし生けるものの幸せを願うなど善い行いを心がけねばならないのであり、そのような行為こそが功徳ある行いということになるのです。
随分と回り道をしてきましたが、つまり『功徳とは、自分自身の未来、そして来世によい結果をもたらす善い行いの果報』ということになりましょうか。そして、仏教の教えから紐解きますと、その功徳をもたらす行為は仏教の実践そのものということになります。仏教の実践には、「布施」「戒」「修習」という三つの内容があります。
「布施」は財施ばかりではなく、身体を用いてなされる奉仕行である身施、優しいまなざしや言葉、笑顔を施す心施、精神的な教えを施す法施などがあります。布施は他を直接利益する善行と言えます。
また「戒」は、在家者にあっては、不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語、不飲酒を内容とする五戒ないしは十善戒を実践することです。なぜ戒をたもつことが功徳ある行為となるのでしょうか。それは、悪業を為さないためであり、また正しい生活を送ることで自他によい影響を与え、そうして初めて他を助けるなど善行を施すことが出来るからです。
「修習」は、専門的には止と観を内容とする瞑想行を指し、心を集中統一する止行と、いまの自分の身の動き、感覚、思い、思考、周りのものごとのあり様をありのままに観察する観行があります。ただし、坐って瞑想することばかりを意味するのではなく、日常においても心落ち着き、心静かに穏やかに生活することも含まれます。過去未来に思いをはせ欲や怒りをつのらせるなど、心ここにあらずということなく、自分が今何をし、何を思い、何を考えているのかを知り、常に冷静に自分を観察していることが求められています。
自らの振る舞い、心を知らず取り乱している人は、他の気持ちを忖度し利益することが出来ないからであり、また逆に心落ち着いた人は、それだけで周りを穏やかに治め、安らぎをもたらしてくれるからです。最後に、お寺は福田であると言われます。また袈裟は別名福田衣と申します。この場合の福とは功徳、つまりお寺は功徳を耕す場であり、僧侶は本来功徳を積ませる立場にあるということです。沢山の有縁の人たちがお寺にお越しになり、善行を施し沢山の功徳を持ってお帰りになることを願っています。
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功徳ある行為が大切だ、善行功徳を積んで下さい、などとよく話すものの、それではいったいその功徳とはどのようなことを意味するのか、ということになるとその説明はそんなに簡単ではないのかもしれません。インドなどでは、功徳を積むということは仏教徒もヒンドゥー教徒も子供のころから教えられて、ごく当たり前のことになっています。大人になって給料をもらうようになれば、そこからいくらかは当然の事として福祉施設やお寺に寄附をしたり、または路上で生活する貧困者や遊行者へ施しをすると聞いています。
そのインドで貧困者などへの施しを盛んに行うというのには理由があって、今の必ずしも恵まれているとは言えない人生、また過酷な気象環境の中で大変な生活を余儀なくされているけれども、誰もが死後再び生まれると信じている来世ではもっと恵まれた良いところに生まれ変わりたい、そのためには今生でせめてもの徳を積んでおくことが何よりも大切なのだということを実感しているからなのだと思います。このことはインドばかりのことではなく、スリランカやネパールなどインド文化圏の国々、それに南方経由で仏教が伝わっていったタイやミャンマー、ラオス、カンボジアなどの国々の共通の認識なのです。
パゴダという仏塔を崇拝供養することを熱心に行うミャンマーの仏教徒の中には、来世のために昼も夜も肉体労働をしてお金を貯めようとする貧しい家族が少なくないと言います。彼らは、貯め込んだお金で楽な生活をしようというのではなく、そのお金で大きな仏塔を造り、高僧を招き盛大な開眼供養をして、来世での安楽を願うのです。この二十一世紀の現代に、そうした来世の幸福のために真剣に生きている人々が、アジアの仏教国には大勢いるのです。
こうした来世観を当然のこととして持っている国々と違い、私たち日本人はそこまでの意識を持たずに成人し、歳を重ねていきます。「それではあなたは死後どうなるとお考えですか」と問われたとしても、自分自身の死後のことなどなるべく考えないで済ませたい、縁起でもないというのが本音ではないでしょうか。特に現代に暮らすほとんどの人が、この人生のことだけにしか関心がないというのが実情のようです。ですが、もっと先のこと次の世のことも含めて責任ある生き方をしようと考えた方がよいのではないかと思うのです。
私たちの仏教は、シルクロードを通り、中国経由で入ってまいりました。それが為にいわゆる仏教徒として当然身につけているべき常識に欠けていると、私の目には映ります。その代表的なものがこの来世観を含む輪廻という生命観だと思います。中国では「積善の家に必ず余慶あり、積不善の家に必ず余殃あり」といい、家単位の善行の報いとして楽果を説きます。が、仏教では、前世、現世、来世の三世にわたる個人単位の因果を説くのです。
いま私たちが不況とは言いながらもまずまずの恵まれた生活が送れるのは、前世を含めて過去の善い行いの結果であり、現在の瞬間瞬間の行いの結果として未来が、また来世があると考えます。そして、今何を見、何を聞き、何を思い、何を願い、何を行うかによって次の自分が造られていく、すべては自分の責任、自業自得だということ。そしてつまりは、私たちは死んでもそれで何もかも終わりとはならないということなのです。身体が物質的に寿命を迎えても、最後の心が次に引き継がれていくのです。
「人々は自分のつくった業にしたがって死んでいく(経集)」「ある人は再び母胎に生まれ、悪をなせる者は地獄に生じ、善をなせる者は天界に生じ、汚れなき者は涅槃に入る(法句経)」などとお経にもあり、その人の人生で行ってきたこと、つまり業によってもたらされる死の瞬間の心に相応しい世界に転生していくと教えられているのです。そうして私たちは、生まれては死に生まれては死んで何回も輪廻転生を繰り返す存在であり、その何度も繰り返す輪廻は苦しみに他ならず、その苦しみの連続から解放されるためにお釈迦様がお説きになられた教えこそが仏教なのであります。
では、よりよい来世を迎えるために、私たちはどうしたらよいとお釈迦様は教えられているのでしょうか。
「花束をもって多くの華鬘を作るがごとく、人として生まれなば多くの善きことをなすべし(法句経)」
「善きことをなせる者は、この世にても喜び、死後にも喜び、何れにても喜ぶ、おのれの行為の浄らかなるを見て喜び楽しむ(法句経)」
「直く、正しく、言葉やさしく、柔和で、思い上がることのない者であらねばならない、他人を欺いてはいけない、どこにあっても他人を軽んじてはならない、怒りの想いをいだいて他人に苦痛を与えてはならない、あたかも母がおのが独り子を命をかけて守るように一切の生きとし生けるものに無量の慈しみの心を起こすべし(経集)」
と、このように、人としてよい来世をもたらすようなよい死に方をしたければ、善いことをしなさい。そうして善いことをしたという満足感、喜びの中で死を迎えるように努力しなさいと教えられているのです。自分がしあわせでありたいと思うのと同じ様に、人の気持ちを尊重し、優しい言葉を語り、自分の出来ることを奉仕して周りの人たち、生きとし生けるものの幸せを願うなど善い行いを心がけねばならないのであり、そのような行為こそが功徳ある行いということになるのです。
随分と回り道をしてきましたが、つまり『功徳とは、自分自身の未来、そして来世によい結果をもたらす善い行いの果報』ということになりましょうか。そして、仏教の教えから紐解きますと、その功徳をもたらす行為は仏教の実践そのものということになります。仏教の実践には、「布施」「戒」「修習」という三つの内容があります。
「布施」は財施ばかりではなく、身体を用いてなされる奉仕行である身施、優しいまなざしや言葉、笑顔を施す心施、精神的な教えを施す法施などがあります。布施は他を直接利益する善行と言えます。
また「戒」は、在家者にあっては、不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語、不飲酒を内容とする五戒ないしは十善戒を実践することです。なぜ戒をたもつことが功徳ある行為となるのでしょうか。それは、悪業を為さないためであり、また正しい生活を送ることで自他によい影響を与え、そうして初めて他を助けるなど善行を施すことが出来るからです。
「修習」は、専門的には止と観を内容とする瞑想行を指し、心を集中統一する止行と、いまの自分の身の動き、感覚、思い、思考、周りのものごとのあり様をありのままに観察する観行があります。ただし、坐って瞑想することばかりを意味するのではなく、日常においても心落ち着き、心静かに穏やかに生活することも含まれます。過去未来に思いをはせ欲や怒りをつのらせるなど、心ここにあらずということなく、自分が今何をし、何を思い、何を考えているのかを知り、常に冷静に自分を観察していることが求められています。
自らの振る舞い、心を知らず取り乱している人は、他の気持ちを忖度し利益することが出来ないからであり、また逆に心落ち着いた人は、それだけで周りを穏やかに治め、安らぎをもたらしてくれるからです。最後に、お寺は福田であると言われます。また袈裟は別名福田衣と申します。この場合の福とは功徳、つまりお寺は功徳を耕す場であり、僧侶は本来功徳を積ませる立場にあるということです。沢山の有縁の人たちがお寺にお越しになり、善行を施し沢山の功徳を持ってお帰りになることを願っています。
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目先の利益ばかりを追い掛けていて、なんだか人参をぶら下げられて走っている馬を見ているかのよう。
兎に角『自分が、自分が…』と自分達が得する事ばかり考えている。
新興宗教が乱立しているのは、そんな現代人の心を映している様に思えます。
今の人間達は、人間とは思えない。動物並と言えば、動物に対しても失礼な程に酷い精神状態。
動物達ですら、最低限のルールは守るのです。人間達は、その最低限のルールすら守れていない。ただ本能に振り回されて居るだけ。
ただ地球を荒らす存在に成り下がっている。
『ヒト』と『人間』では、全く別物です。
『人間』というのは、理性でコントロール出来る存在です。それが出来ないのは、人間とは言いません。『ヒト』という生物です。
取り敢えず、言葉は喋れますし、道具も使えます。ある程度の知能も有りますがその程度。精神は人間と呼ぶに程遠い。
多くの人々は、その事に気付いているかどうか。
少なくとも、他者を思い遣る精神があれば、人間と呼ぶに相応しいでしょうけど。
人間とは何たるかという事をそれぞれ考えなくてはならないと思います。
人間が人間らしく在る為に宗教というものが存在している筈なのです。先ずは宗教の本来の役目を考えなくてはならないでしょう。
仏教の専門家としてのご発言は社会の人々に少なからざる影響を与えるものであるかと思います。もしそのご発言が間違ったものであるとしますならば、釈尊と社会の人々に大きな罪を犯されることになるかと思います。それで、原始経典をもう一度素直にお読み下さることを願っております。大変失礼いたしました。
仏教は、苦を超克して救われるために、苦と一切のものを超越した「涅槃」(nibbāna これは後に「空」とも「仏性」とも単に「仏」とも呼ばれます)に到り成ること(=「成仏」)を説くが、このことは難行苦行の末にごく少数の人のみに可能になるといったようなことではなくて、誰もが自らに与えられた一々の生に徹し、誠実に一所懸命に生きることにおいて可能になることとして説かれていると、前回の投稿で申しました。なぜこの現実世界を超越した「涅槃」に到り成ることが、却ってこの現実世界の自らの生に徹することになるのでしょうか?「涅槃」は「悟り」の根本経験において悟られる当のものでありますが、この根本経験において「涅槃」はこの現実世界を離れ越えたどこかに経験されるというものではなく、それと一つに、それを貫き越えているものとして、したがって、それの真相として経験されるものであります(道元禅師の「この山河大地、みな仏性海なり」という言葉もこのような経験を表しています)。したがって、「涅槃」に到り成るためには、この現象世界の何か一つのものに徹し成り切ればよいわけであります。その「道」として釈尊によって説かれているものが「三昧」(samādhi定)です。釈尊は「比丘たちよ、涅槃と涅槃に到る道とを説こう。・・・比丘たちよ、いかなるものが涅槃に到る道であろうか?止、これが、比丘たちよ、涅槃に到る道である。」(「相応部」第4巻 371頁)と説いています。「止」(samatha)とは何かに心を止め定めることであり、「三昧」のことです。仏教では三昧の行として坐禅や読経や称名念仏やその他様々な行が実修されてきましたが、三昧行の対象は何でもよいわけであります。したがって、必死に仏法を問うたバーヒヤに対して、釈尊は「バーヒヤよ、汝はこのように学ぶべきである。見た時にはただ見ただけでいよ、聞いた時にはただ聞いただけでいよ、思った時にはただ思っただけでいよ、知った時にはただ知っただけでいよ。」(「自説経」8頁 前回挙げたものの前にある言葉)と答えたのであります。
仏教をご住職様のように「輪廻説」として理解する理解の仕方や、今日の仏教学のように「縁起説」として理解する理解の仕方がありますが、これらは、釈尊の直接間接の説法の記録である原始経典を読む限り、釈尊の真意とは余りにもかけ離れたものであるように私には思われます。
仏教とは輪廻説であるとはどこにも表記しておりませんし、そのような仏教を矮小化することを文章にした記憶もございません。
輪廻説は仏教の根底にある考え方であり、お書きのようにそこからどう解脱するかが仏教の教えです。輪廻があると考えるから、あるいは信じるから悟りを求め修行し、真理を得て解脱するというお釈迦様の教えが誠に尊いものとなるのです。
パーリ中部経典36大サッチャカ経をご覧下さい。お悟りになられる前にご自身の何万回とたどってきた前世をご覧になったとあります。だからこそその因果、業というものを理解しこの世の真理を悟られたのです。
輪廻を否定なさるのならば、死んだらどうなってしまうとお考えですか。仏教はそんなことは言わないのだとされる方もありますが、そんな無責任なことでお釈迦様の教えを貶めないで下さい。
日本人も他の仏教国の人々同様、江戸時代までは皆輪廻するという考え方を理解していました。だからこそ平安中期以降、地獄に行きたくない、出来れば極楽へと念仏が爆発的に流行したのです。
時空を越えたすべてのことに精通されて教えを説かれたお釈迦様の教えを現代人の悟っていない人たちが理解できないからと捨ててしまうことは止めた方が良いと思います。
経典にあることはそのまま素直に学んで行かれることをお勧めします。
さて、ご住職様は、仏教が輪廻説であるとはどこにも書いていず、そこからどう解脱するかが仏教の教えであると言われました。しかし、2012年9月12日「仏教小話」;「『ブッディストという生き方』出版記念講話」の中で、「輪廻は・・・お釈迦様がそこに業というものによる輪廻転生する生命のありかたを発見されたと分かる。仏教の教えの根幹をなす思想である・・。」と言われておりますし、その他のご法話でも仏教の中心的な教えであるかの如くに語っておられるように私には思われました。「そこからどう解脱するかが仏教の教えです」と言われておりますが、私が「仏教小話」十数篇を拝読させて頂きました限りでは、輪廻からどう解脱するかについての仏教の教えはほとんど触れておられないように思われます。
ところで、輪廻説には、身体は滅びるけれども心は滅びず常住であるという考えも含まれているかと思います。ご住職様もしばしばそういうことを言われております。例えば、上掲「仏教小話」でも、「私たちはからだと心一つにあわさり生きている、五蘊という言葉があるように心と体は別のもの、身体の寿命が終えると遺体から心が抜け出る。死んでも終わりではない。心は消滅せず・・・」と言われております。ご住職様は、仏教は、身体は滅びるけれども心は滅びず常住であるということも説くものであると理解されているように思われます。
しかし、原始経典は、その多くの箇所で、「色」が無常であることと同時に、「受」、「想」、「行」、「識」、すなわち心が無常であることも説いているのではないでしょうか?また、道元禅師も「(心は)この身滅するとき、もぬけてかしこにうまるるゆえに・・・ながく滅せずして常住なり」というこのような「見」を「心常相滅の邪見」とし、「仏法にあらず」と強く否定しておられる(『正法眼蔵』「弁道話」等)のではないでしょうか?
「輪廻を否定なさるならば、死んだらどうなってしまうとお考えですか」とのことでありますが、道元禅師が「この生死は、即ち仏の御いのち也」(同「生死」)と言われましたように、仏教は、その根本経験によって、生も死もその他のものも全て仏であると見るのではないでしょうか?せいぜい百年の寿命の心と体は永遠のいのちの海の一波浪のごときものと見るのではないでしょうか?したがって、死んだら心と体とを去って完全に涅槃(仏)だけになる、或いは、完全に涅槃に還る(「完全涅槃する(parinibbāti)」)と見るのではないでしょうか?
「一切のものは仏である」―これが仏教の根本説であると私は理解しております。釈尊の「四聖諦」(四つの聖なる真理)の説法は、まさにこのことを説いているものであると私は解しております。この説法で釈尊は、例えば、「比丘たちよ、四つの聖なる真理がある。いかなる四つのものが、であろうか。苦という聖なる真理が、苦の起因という聖なる真理が、苦の滅という聖なる真理が、苦の滅に至る道という聖なる真理が、である。」(「相応部」第5巻「真理相応」)と説いております。ここで、釈尊は、苦、苦の起因(=無明)、苦の滅、苦の滅に至る道の四つのものは「聖なる真理」であると言っています。しかるに、今証拠を挙げて言うことはできませんが、苦、苦の起因、苦の滅、苦の滅に至る道の四つのものは一切のものの代表であります。したがって、この説法は「一切のものは聖なる真理(=涅槃、空、仏)である」という仏教の根本説を説くものであると思います。
最後に、申し上げたいことは、原始経典は約二万五千経から成り、その大部分は釈尊の直接の説法の記録ではなく、その大部分のものは直接に説法されたことに後生いろいろなものが付加されているものであると考えられます。その付加されたいろいろなものとは、例えば、釈尊をいわば〝神格化〟するための前生物語や当時のインドで広く信じられていた輪廻説等であると私は考えております。パーリ語原始経典「五部」の中で比較的釈尊の直接の説法の記録に近いものは、八千経近く存在する「相応部経典」であると言われております。
長くなってしまいましたので、これで終わらせて頂きます。いろいろと失礼なことを申したと思いますが、どうかお許し下さいますように。
私が18で会社に勤めた先の社長がよくそのことを言われていました。人ではなく人間として物事を考えなくてはいけないと。
生きるとは何か、何のために私たちは生きているのかと問うことがなくなって、ただ経済的繁栄が人生の目的のようになってしまいました。
おっしゃるように、動物が餌を採る以下の、溜め込んで、自分の懐の肥えるためだけに生きている人も多いようですね。
日本仏教は、とても幅広く総合的な教えである仏教を、この教えだけが最高のものであると言い、その中でも、この行だけで良いとしてきました。そのことに慣れてしまった私たちは未だにそのアプローチの間違いを踏襲しています。
イヤイヤ人間は元々悟っているのだとさえ言い、そのことをただ自覚すればよいとも言ってきました。未だに日本仏教はその呪縛から解き放たれていません。
はたしてそれが仏教というものでしょうか。
人が生きること、何を目的にいかに生きるべきか、そのことを万民すべての生き物にも開かれて説かれた教えが仏教です。
三界の衆生すべてを対象に説かれたものとも言えましょう。何を最高の理想とし、いかにそのことを実現していくのかを説いた教えです。
お釈迦様は、一部の人たちにとって適当な行を万民すべてに向かって、これだけで良いともおっしゃらないし、ただ認識するだけですべてオッケーです、などとおっしゃるはずもありません。
悟るというのはそんなに簡単なことではありません。
私たちが溜め込んでいる業はそんなことで無くなるものではない。業がある限り私たちの因果はなくならないのです。三世にわたる業がある限り輪廻も終わることはないでしょう。
どうか経典を自己流に解釈するのではなく、世界の仏教徒の考え、つまり世界基準の仏教常識をご理解下さい。
輪廻について目障りのようにお考えなのは、現在の日本仏教が明治以降に捨て去った考えをあえてその欠を埋めるために何度も文章化していることに違和感をもたれるからだと思います。根幹をなすと書いているのであって、それが中心の教えであることを意味しているものではありません。
無我という言葉の解釈は、無くなるということではありません。そのものだけで存立するものではないということでしょう。すべてのものは縁起するものであるが故にということですから。常住とは書いておらないと思います。一瞬一瞬変化しとどまらないものですから。無くならないけれども変化する、それを生滅と見ることも出来ますが、心はそのまま存続すると考えます。
>仏教は、その根本経験によって、生も死もその他のものも全て仏であると見るのではないでしょうか?せいぜい百年の寿命の心と体は永遠のいのちの海の一波浪のごときものと見るのではないでしょうか?したがって、死んだら心と体とを去って完全に涅槃(仏)だけになる、或いは、完全に涅槃に還る(「完全涅槃する(parinibbāti)」)と見るのではないでしょうか?
パーリ経典のどこにそんなことが書かれているでしょうか。死んだら涅槃に入るとどこに書かれていますか。もしそうなら、仏教の教えも修行も必要ありませんね。何故お釈迦様は6年間も苦行され命を懸けて修行なされたのでしょうか。
四聖諦の解釈は認識論であり、実践論ですから、そこでいかに生きるべきかを説いたものと解釈すべきでしょう。これも伝統的な解釈がありますから、参考にされた方が良いと思います。一切のものは仏であるなどという解釈の仕方はないと思います。
四聖諦は仏教の根本的な教えですが、一切のものは仏であるとする解釈は仏教の根本説ではありません。独善的な解釈を交えた日本仏教と初期仏教を混濁してはいけないように思います。特に、初期仏教から日本仏教を理解することは大切ですが、日本仏教の考え方から初期仏教を解釈するのは本末転倒です。
原始経典、パーリ経典は、ほぼ現在の内容でお釈迦様入滅後になされた第一回の仏典結集でまとめられたとスリランカなどでは理解されています。多少の増幅、編集はなされているはずですが、私も同様に考えております。インド人、南方の仏教徒の比丘がたと接してきて、それだけの熱意と力量というのか才能が結集してきたからこそ今も立派な仏教が残されているのだと確信しております。
どうぞ、世界の仏教徒と交流されまして、新たに仏教を再認識なされることを願っております。仏教は素晴らしい教えですね。どうぞ益々仏教研究が深まりますようお励み下さい。私も精進して参ります。ありがとうございました。