現在奈良東大寺二月堂では、旧暦二月の法会である修二会が行われている。これは3月1日から14日まで、一日六座、十一人もの練行衆が本尊十一面観音に御供えをし、一切衆生の罪障を懺悔(さんげ)して天下泰平、万民豊楽を祈願する行法で、大仏開眼供養の行われた天平勝宝四年から今日迄1268年も続く大行事である。
12日の夜中に行われる若狭井から汲み上げる閼伽水を本尊に御供えする厳かな儀礼からお水取りとも言われ、また夜の行に入る際に御堂に上がる練行衆の足下を照らす松明を欄干の上からかざして、火の粉を飛ばしながら東西に走るところからお松明とも言われる。
この行は全国すべての神々の名前を唱えたり、東大寺ゆかりの人々の名前を唱え廻向したり、また火を用いた儀礼にも特徴があり、神仏習合や密教の要素も含む独特なる大行法である。が、冒頭に述べたように、本尊十一面観音菩薩に衆生の罪障を懺悔する、その功徳によって天下万民の幸福を願う十一面観音悔過法がこの法会の骨格にある。
そこで、では懺悔はどのように功徳あることなのかと問われねばならないだろう。懺悔文にあるとおり、無始なる過去世より私たちは貪瞋癡の煩悩により身口意の沢山の悪業を蔵しているということにまずは気づく、そうして、そのことの恐ろしさ浅ましさを思い懺悔する、心改まって、二度とそのような罪過を犯さないのだと心に強く決するということになる。それよって、心が生まれ変わったかのような自己変容の体験を持つということが懴悔ということなのではないか。
本来信心といわれるものも同様であって、本当に仏を信じるというのは、単に手を合わせてありがたいと思うことではなくて、そのことによって心が澄んで清らかになって、心改まり生き方生活までが改まるほどの人格の変容をさえ伴うものであるという。元龍谷大学学長であった信楽峻麿先生が『親鸞とその思想』(法蔵館)において熱く語られておられるように、本当の信心には目覚め体験が伴うのであり、それは、まず仏の慈悲について目覚め、その慈悲にてらされておのれの罪業の深さ重さについても目覚めるという、自己の中に心改まるものが生まれてくる体験こそが信心であり、そして、それは懺悔をともなうものでもあるというのである。
であるから、懺悔文を他人事のように唱え、勤行次第の一過程として読み進めることも日常的にされているかもしれないが、本来懴悔とは、自らの生き方の理想であり、人生の目標でもある仏に倣い、これまでの生き方を改めていく、生き方の転換をいうのではないだろうか。勤行次第では、懺悔文の次に三帰三竟十善戒と続く。これはそうして改めて三宝に帰依を表明し、十善という理想的な生き方に則り生きることを仏に宣誓するものであろう。懺悔とはつまり懺悔にとどまらず、仏道に入門し自己の生き方から人生そのものの転換を意味するものであるからこそ甚大なる功徳があるとされてきたのではないだろうか。
お水取りにおいて、練行衆は、一切衆生の罪過を懺悔なさるという。勝手にやってくれているということなく、私たち自身が懺悔することの意味を知り、共に自己を改めていくことを決意する機会と捉えることも必要なのかもしれない。
にほんブログ村
にほんブログ村