「雨あがる」 1999年 日本
監督 小泉堯史
出演 寺尾聰 宮崎美子 三船史郎
吉岡秀隆 原田美枝子 檀ふみ
井川比佐志 加藤隆之 松村達雄
仲代達矢
ストーリー
亨保時代。武芸の達人でありながら、人の好さが災いして仕官がかなわない武士・三沢伊兵衛とその妻・たよ。
旅の途中のふたりは、長い大雨で河を渡ることが出来ず、ある宿場町に足止めされていた。
ふたりが投宿する安宿には、同じように雨が上がるのを鬱々として待つ貧しい人々がいた。
そんな彼らの心を和ませようと、伊兵衛は禁じられている賭試合で儲けた金で、酒や食べ物を彼らに振る舞う。
翌日、長かった雨もようやくあがり、気分転換に表へ出かけた伊兵衛は若侍同士の果たし合いに遭遇する。
危険を顧みず仲裁に入る伊兵衛。
そんな彼の行いに感心した藩の城主・永井和泉守重明は、伊兵衛に剣術指南番の話を持ちかけた。
ところが、頭の固い城の家老たちは猛反対。
ひとまず御前試合で判断を下すことになるが、そこで伊兵衛は、自ら相手をすると申し出た重明を池に落とすという大失態をしてしまう。
それから数日後、伊兵衛の元にやってきた家老は、賭試合を理由に彼の仕官の話を断った。
だが、たよは夫が何のために賭試合をしたかも分からずに判断を下した彼らを木偶の坊と非難し、仕官の話を辞退するのだった。
そして、再び旅に出る伊兵衛とたよ。
ところがその後方には、ふたりを追って馬を駆る重明の姿があった…。
寸評
往年の黒澤明の写真が映し出され、この作品を黒澤明に捧げるとテロップされる。
脚本はその黒澤明であり、監督は黒澤の助監督として活躍した小泉堯史で、彼のデビュー作である。
時代劇の浪人物だが「用心棒」や「椿三十郎」のような派手さはない。
主演の寺尾聡が静かなら、その妻を演じる宮崎美子も静かなたたずまいを見せる。
登場人物は道場主以外はすべていい人ばかりで、庶民の中での人のあたたかさをえがいている。
せめて映画だけでも潔い日本人を見たいという監督の意思が働いているのかもしれない。
撮影は黒澤とも一緒したことがある上田正治があたり、撮影協力としても斎藤孝雄が参加しているので映画的なシーンを作り出している。
主人公はすこぶる善良な浪人であるが剣の腕は相当なものがある。
賭け試合をして金を得てきているので、そのことは証明されているのだが、それを描き出すのが主人公がひとり剣の素振り行う場面だ。
黒澤は背景の雰囲気を出すのに霧を使うのが好きだったが、ここでも森の中に霧が立ち込めている。
主人公がその中を静かに歩いてきて剣を抜き素振りを行う。
カメラが切り替わり正面から捉えると微光が差してきて主人公がわずかの光の中で浮かび上がる。
美しいカメラワークだった。
主人公、三沢伊兵衛は「刀は人を斬るためのものではない。刀は馬鹿な自分の心を斬るためにあるものだ」と諭すが、本当に強い者はどこにいても恨みを買ってしまうので、彼れは仕官してもその職を失ってしまっている。
出る杭は打たれることを皮肉っているのかもしれない。
彼は優しい人物だが、その優しさが人を傷つけてしまうことに気がつかず失職しているのかもしれない。
殿様は「勝った者の優しい言葉は負けた者の心を傷つける。優しくされると見下されているような気になって腹が立つ」という。
その気持ちは御前試合で最初に負けた藩士も持ったことだろう。
かつて横綱の北の湖が、土俵下に落ちた力士に手を貸さないことを「ふてぶてしい態度」と非難された時に、殿様と同じような事を言っていたことを思い出した。
日本にやってきた宣教師が、「人々は貧しく、汚れた着物を着、家もみすぼらしい。しかし、皆笑顔が絶えず、子供は楽しく走り回り、老人は皆に見守られながら暮らしている。世界中でこんなに幸福に満ち溢れた国は見たことがない」と感心したと聞く。
この映画で描かれる人々の様子を見ると、我々は物質的な豊かさと引き換えにどれだけの物を失ったのかと訴えられているようでもある。
なんだかホッとする映画である。
黒澤とは名コンビだった三船敏郎の子息である三船史郎が殿様役で出ている。
脇役ではない重要な役でもあるのだが、鼻につくのがこの三船史郎の大根役者ぶりである。
黒澤組の再結集という意味合いもあったのだろうが、このキャスティングだけはいただけない。
風貌も声音も親父さんを彷彿させたが、演技力のなさはどうすることも出来ずこの映画の良さをすべて壊してしまっている。
もっといい作品にできたと思うので惜しい。
監督 小泉堯史
出演 寺尾聰 宮崎美子 三船史郎
吉岡秀隆 原田美枝子 檀ふみ
井川比佐志 加藤隆之 松村達雄
仲代達矢
ストーリー
亨保時代。武芸の達人でありながら、人の好さが災いして仕官がかなわない武士・三沢伊兵衛とその妻・たよ。
旅の途中のふたりは、長い大雨で河を渡ることが出来ず、ある宿場町に足止めされていた。
ふたりが投宿する安宿には、同じように雨が上がるのを鬱々として待つ貧しい人々がいた。
そんな彼らの心を和ませようと、伊兵衛は禁じられている賭試合で儲けた金で、酒や食べ物を彼らに振る舞う。
翌日、長かった雨もようやくあがり、気分転換に表へ出かけた伊兵衛は若侍同士の果たし合いに遭遇する。
危険を顧みず仲裁に入る伊兵衛。
そんな彼の行いに感心した藩の城主・永井和泉守重明は、伊兵衛に剣術指南番の話を持ちかけた。
ところが、頭の固い城の家老たちは猛反対。
ひとまず御前試合で判断を下すことになるが、そこで伊兵衛は、自ら相手をすると申し出た重明を池に落とすという大失態をしてしまう。
それから数日後、伊兵衛の元にやってきた家老は、賭試合を理由に彼の仕官の話を断った。
だが、たよは夫が何のために賭試合をしたかも分からずに判断を下した彼らを木偶の坊と非難し、仕官の話を辞退するのだった。
そして、再び旅に出る伊兵衛とたよ。
ところがその後方には、ふたりを追って馬を駆る重明の姿があった…。
寸評
往年の黒澤明の写真が映し出され、この作品を黒澤明に捧げるとテロップされる。
脚本はその黒澤明であり、監督は黒澤の助監督として活躍した小泉堯史で、彼のデビュー作である。
時代劇の浪人物だが「用心棒」や「椿三十郎」のような派手さはない。
主演の寺尾聡が静かなら、その妻を演じる宮崎美子も静かなたたずまいを見せる。
登場人物は道場主以外はすべていい人ばかりで、庶民の中での人のあたたかさをえがいている。
せめて映画だけでも潔い日本人を見たいという監督の意思が働いているのかもしれない。
撮影は黒澤とも一緒したことがある上田正治があたり、撮影協力としても斎藤孝雄が参加しているので映画的なシーンを作り出している。
主人公はすこぶる善良な浪人であるが剣の腕は相当なものがある。
賭け試合をして金を得てきているので、そのことは証明されているのだが、それを描き出すのが主人公がひとり剣の素振り行う場面だ。
黒澤は背景の雰囲気を出すのに霧を使うのが好きだったが、ここでも森の中に霧が立ち込めている。
主人公がその中を静かに歩いてきて剣を抜き素振りを行う。
カメラが切り替わり正面から捉えると微光が差してきて主人公がわずかの光の中で浮かび上がる。
美しいカメラワークだった。
主人公、三沢伊兵衛は「刀は人を斬るためのものではない。刀は馬鹿な自分の心を斬るためにあるものだ」と諭すが、本当に強い者はどこにいても恨みを買ってしまうので、彼れは仕官してもその職を失ってしまっている。
出る杭は打たれることを皮肉っているのかもしれない。
彼は優しい人物だが、その優しさが人を傷つけてしまうことに気がつかず失職しているのかもしれない。
殿様は「勝った者の優しい言葉は負けた者の心を傷つける。優しくされると見下されているような気になって腹が立つ」という。
その気持ちは御前試合で最初に負けた藩士も持ったことだろう。
かつて横綱の北の湖が、土俵下に落ちた力士に手を貸さないことを「ふてぶてしい態度」と非難された時に、殿様と同じような事を言っていたことを思い出した。
日本にやってきた宣教師が、「人々は貧しく、汚れた着物を着、家もみすぼらしい。しかし、皆笑顔が絶えず、子供は楽しく走り回り、老人は皆に見守られながら暮らしている。世界中でこんなに幸福に満ち溢れた国は見たことがない」と感心したと聞く。
この映画で描かれる人々の様子を見ると、我々は物質的な豊かさと引き換えにどれだけの物を失ったのかと訴えられているようでもある。
なんだかホッとする映画である。
黒澤とは名コンビだった三船敏郎の子息である三船史郎が殿様役で出ている。
脇役ではない重要な役でもあるのだが、鼻につくのがこの三船史郎の大根役者ぶりである。
黒澤組の再結集という意味合いもあったのだろうが、このキャスティングだけはいただけない。
風貌も声音も親父さんを彷彿させたが、演技力のなさはどうすることも出来ずこの映画の良さをすべて壊してしまっている。
もっといい作品にできたと思うので惜しい。
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