「時計じかけのオレンジ」 1971年 イギリス / アメリカ
監督 スタンリー・キューブリック
出演 マルコム・マクダウェル
パトリック・マギー
エイドリアン・コリ
マイケル・ベイツ
スティーヴン・バーコフ
ストーリー
近未来のロンドンの秩序は乱れ、治安状態は悪化し、性道徳は退廃の極にあった。
そして町には夜な夜な少年ギャングの群れが横行していた。
15歳のアレックスを首領とするディムとジョージーの一味は、その夜も街で暴れ廻っていた。
暴虐の限りをつくして爽快になったアレックスたちは、別の獲物を求めて去ってゆく。
やがて郊外の邸宅にやってきた彼らは、覆面をつけて、ずかずかと押し入り、暴力活動を開始した。
主人の作家アレクサンダーの眼の前で奥さんの衣服を切り裂き、凌辱に及んだ。
こうして一晩は終わり、アレックスは大好きなベートーベンの第九交響曲を聴きながら幸福な眠りにつく。
そんなある日、ささいなことから部下のディムとジョージーが反抗した。
彼らは、猫をいっぱい飼っている老婆の家に押し入った時、アレックスを裏切り警察に売ってしまった。
刑務所でのアレックスは、聖書を読む模範囚であった。
その頃、政府は凶悪な犯罪者の人格を人工的に改造する治療法を行なうことになっていた。
アレックスはその第1号に選ばれたのだ。
それは特殊な覚醒剤を注射した上で衝撃的なフィルムを見せ、そのショックから生理的に暴力やセックスが耐えられないような肉体に改造するといった方法だった。
そして、連日にわたる治療の結果を公開実験するショウの日がやってきた・・・。
寸評
「暴力」とは何なのか。
冒頭の老人に対する暴力は冷酷としか言いようがないもので、時たま報道される不良少年によるホームレス襲撃事件を髣髴させるものがある。
暴力にはヘドが出る思いだが、暴力をふるうと言う行為は人間にとって最高の快楽なのかもしれない。
アレックスがいるのはアンチ・ユートピアの世界で、暴力と性犯罪が蔓延している。
ところがこの映画で描かれるそれらのシーンは美しいと感じさせられるものがある。
老人の襲撃シーンに続く劇場での対立グループとの格闘は本当にに美しくて、音楽が鳴り響いてまるでバレエのようで、これはミュージカル映画なのかとさえ思えてくる。
作家の家でのレイプシーンでは体にはりついた赤い服のバストの部分を鋏で切ると丸い穴があき、そこに乳房が丸い穴を押し広げるようにしてはみ出してくる。
女性は被害者で同情すべきなのに、男の僕はアレックス頑張れと思ってしまう(不謹慎)。
退廃した街を表すためでもあるのだろうが性的な描写は多くて、室内セットは異次元空間を思わせ、置かれているオブジェが性を意識させるものとして数多く登場するのも特徴の一つとなっている。
アレックス達の仲間4人の関係も力で支配されていて、その頂点にいるのがアレックスなのだが、それを良しとしない者が現れだす。
それを感じ取ったアレックスがテムズ川沿いを歩きながら三人と戦うシーンもいい。
スローモーションが美しく、その美しさを損なわないためにアレックスがナイフを抜いたところで終わっている。
後日、二人によって仕返しをされるが、この時の暴力は美しくはない。
作家は利用しようとしたアレックスが妻を自殺に追い込んだ犯人だと思っていなかったが、やがてその事に気が付き復讐を決意する。
その時の凶器となるのがベートーヴェンの第九で、この映画では音楽が実に効果的に用いられている。
「雨に唄えば」を口ずさみながら老人を蹴とばすなどはその最たるものだ。
アレックスは当初ベートーヴェンのファンだったが、治療を受けたことで第九を聞くと自殺願望が起きるようになってしまっている。
音楽が物語の重要なファクターになっているのが面白い。
権力闘争は彼等だけにあるのではない。
先の作家は現政権に不満を持っており、アレックスを利用して政権打倒を目指している。
現政権側も、アレックスに強制治療を命じた大臣が彼を利用して政権維持を図ろうとしている。
この大臣が訪問する前に、精神科医からの質問に答えるアレックスを見ていると病状回復しているように思えていたのだが、大臣との対面時には自分は完全に回復しているのだと叫べるくらいになっている。
アレックスが元通りに回復すると言うことは、同時に彼の持つ潜在的な暴力体質も元に戻っていっると言うことで、最後の微笑は不気味なものがある。
その雰囲気を醸し出したマルコム・マクダウェルのルックスと演技は特筆もので、僕に強烈な印象を残した。
広いレコードショップに「2001年宇宙の旅」のサントラアルバムがあると言うお遊びもあった。
監督 スタンリー・キューブリック
出演 マルコム・マクダウェル
パトリック・マギー
エイドリアン・コリ
マイケル・ベイツ
スティーヴン・バーコフ
ストーリー
近未来のロンドンの秩序は乱れ、治安状態は悪化し、性道徳は退廃の極にあった。
そして町には夜な夜な少年ギャングの群れが横行していた。
15歳のアレックスを首領とするディムとジョージーの一味は、その夜も街で暴れ廻っていた。
暴虐の限りをつくして爽快になったアレックスたちは、別の獲物を求めて去ってゆく。
やがて郊外の邸宅にやってきた彼らは、覆面をつけて、ずかずかと押し入り、暴力活動を開始した。
主人の作家アレクサンダーの眼の前で奥さんの衣服を切り裂き、凌辱に及んだ。
こうして一晩は終わり、アレックスは大好きなベートーベンの第九交響曲を聴きながら幸福な眠りにつく。
そんなある日、ささいなことから部下のディムとジョージーが反抗した。
彼らは、猫をいっぱい飼っている老婆の家に押し入った時、アレックスを裏切り警察に売ってしまった。
刑務所でのアレックスは、聖書を読む模範囚であった。
その頃、政府は凶悪な犯罪者の人格を人工的に改造する治療法を行なうことになっていた。
アレックスはその第1号に選ばれたのだ。
それは特殊な覚醒剤を注射した上で衝撃的なフィルムを見せ、そのショックから生理的に暴力やセックスが耐えられないような肉体に改造するといった方法だった。
そして、連日にわたる治療の結果を公開実験するショウの日がやってきた・・・。
寸評
「暴力」とは何なのか。
冒頭の老人に対する暴力は冷酷としか言いようがないもので、時たま報道される不良少年によるホームレス襲撃事件を髣髴させるものがある。
暴力にはヘドが出る思いだが、暴力をふるうと言う行為は人間にとって最高の快楽なのかもしれない。
アレックスがいるのはアンチ・ユートピアの世界で、暴力と性犯罪が蔓延している。
ところがこの映画で描かれるそれらのシーンは美しいと感じさせられるものがある。
老人の襲撃シーンに続く劇場での対立グループとの格闘は本当にに美しくて、音楽が鳴り響いてまるでバレエのようで、これはミュージカル映画なのかとさえ思えてくる。
作家の家でのレイプシーンでは体にはりついた赤い服のバストの部分を鋏で切ると丸い穴があき、そこに乳房が丸い穴を押し広げるようにしてはみ出してくる。
女性は被害者で同情すべきなのに、男の僕はアレックス頑張れと思ってしまう(不謹慎)。
退廃した街を表すためでもあるのだろうが性的な描写は多くて、室内セットは異次元空間を思わせ、置かれているオブジェが性を意識させるものとして数多く登場するのも特徴の一つとなっている。
アレックス達の仲間4人の関係も力で支配されていて、その頂点にいるのがアレックスなのだが、それを良しとしない者が現れだす。
それを感じ取ったアレックスがテムズ川沿いを歩きながら三人と戦うシーンもいい。
スローモーションが美しく、その美しさを損なわないためにアレックスがナイフを抜いたところで終わっている。
後日、二人によって仕返しをされるが、この時の暴力は美しくはない。
作家は利用しようとしたアレックスが妻を自殺に追い込んだ犯人だと思っていなかったが、やがてその事に気が付き復讐を決意する。
その時の凶器となるのがベートーヴェンの第九で、この映画では音楽が実に効果的に用いられている。
「雨に唄えば」を口ずさみながら老人を蹴とばすなどはその最たるものだ。
アレックスは当初ベートーヴェンのファンだったが、治療を受けたことで第九を聞くと自殺願望が起きるようになってしまっている。
音楽が物語の重要なファクターになっているのが面白い。
権力闘争は彼等だけにあるのではない。
先の作家は現政権に不満を持っており、アレックスを利用して政権打倒を目指している。
現政権側も、アレックスに強制治療を命じた大臣が彼を利用して政権維持を図ろうとしている。
この大臣が訪問する前に、精神科医からの質問に答えるアレックスを見ていると病状回復しているように思えていたのだが、大臣との対面時には自分は完全に回復しているのだと叫べるくらいになっている。
アレックスが元通りに回復すると言うことは、同時に彼の持つ潜在的な暴力体質も元に戻っていっると言うことで、最後の微笑は不気味なものがある。
その雰囲気を醸し出したマルコム・マクダウェルのルックスと演技は特筆もので、僕に強烈な印象を残した。
広いレコードショップに「2001年宇宙の旅」のサントラアルバムがあると言うお遊びもあった。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます