ささやんの天邪鬼 座右の迷言

世にはばかる名言をまな板にのせて、迷言を吐くエッセイ風のブログです。

そろそろデイサに

2022-05-26 11:16:48 | 日記


そろそろリハビリ・デイサに復帰しようか、と考え始めている。最近、腰痛に悩まされるようになったのは、終日自室に引きこもり、椅子に座ってばかり、という自堕落な生活習慣の所為ではないか。それが体力の衰えの原因であることは、あまりにも明白だった。

リハビリ・デイサに復帰すべきかどうか、ーーこの問題を考えるとき、大きいのは、妖怪コロナの動静である。私は、我が○▲市の新規感染者数が一桁になったら、デイサに復帰しようと考えていた。だが、ニュースを見る限り、我が○▲市の新規感染者数は一進一退を繰り返しながら、一日30人前後をキープし、一向に減る気配を見せない。

こんな具合では、コロナの新規感染者数が一桁台に戻るのはずっと先のことで、その日を待っていたのでは、私はそれこそヨボヨボのジジイになってしまうのではないか、――そんな気がしてきた。

考え直すきっかけになったのは、ケアマネさんの交代である。新しく私の担当になったケアマネさんは、「デイサービス▲▲」の所属だった。この「デイサービス▲▲」という介護施設は、脳神経外科医のドクター▲▲が開設の中心メンバーだったことから、利用者の大方は脳卒中の後遺症をかかえた人たちだという。

利用者の大半が私と同病のお仲間だと聞いて、思わず食指が動いた。それまで私が通っていたデイサ■■は、認知症で要支援や要介護に認定されたお年寄りがほとんどだった。言動はおかしくても、歩行能力は健常者と同じ、といった人たちの中で、(歩行能力を損ねている)私は、少なからず違和感を懐いてきた。

コロナ禍を理由に、私がデイサ■■に行かなくなってからかれこれ5ヶ月がたつ。デイサ■■から私を遠ざけたのは、妖怪コロナであり、それ以上にこのどうしようもない違和感だったと私は思う。

同病相憐む、ではないが、自分と同じ症状をかかえた人たちが利用者の大半だというのなら、そういう違和感を感じることもないのではないか。

もっとも、新天地に期待する気持ちは、今の私にはない。歳をとると臆病になるらしい。この先どんな人と出会うことになるのか、それが楽しみでもあり、不安でもある。

とりあえずデイサービス▲▲を見学してみたい、と、私は新しいケアマネさんに申し出た。都合のよい日が決まったら、連絡をしてくれるという。

ああ、なんとなく落ち着かないこの頃である。



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ロートル・ブロガーRさんは今

2022-05-25 11:30:12 | 日記


腰を痛めた。ちょっと動くだけでギクッ!とくる。こんな状態でキーボードを叩いたら、よけいに腰痛を悪化させてしまうのではないか。

そんなことを案じながら、「でも、Rさんはどうしたのだろう。元気なのだろうか?」と気になっている。ロートル・ブロガーのRさんは、もう2週間以上もブログを更新していないのだ。

これが若い人だったら、「どこか海外にでも旅行に行っているのだろう」と思うだけで、さして気にもならなかっただろうが、ロートルのRさんの場合は、事情が事情だった。

毎日、息苦しさがひどくなる一方なので、病院で検査をしたら、心不全との診断が出され、肺にも水が溜まっていると言われたとか。自分はそう長くはないと悟ったのか、Rさんはお墓の手配をするとともに、終活支援業者と契約も交わしたという。直近のブログでは、「起き上がり、着替え、寝乱れた布団を整えるのは、今や重労働です」と書いていた。

これは他人事ではない。私の場合も、けさは腰の激痛に耐え、やっとの思いでベッドから起き上がった。ただRさんの場合は、ひどい息苦しさがある分だけ、死に神の間近にいるということなのだろう。

筆まめだったRさんのこと、入院したとか、あの世に行ったとかでなければ、きっとブログを更新するはずだ。私は毎朝、Rさんのブログをのぞき、「ああ、きょうも更新無しかぁ・・・」とがっかりしている。



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希望の水素の、その後

2022-05-24 13:53:22 | 日記


けさ届いた日経のメルマガに、次のような記事が載っていた。

「欧州鉄鋼大手SSABは近く、『水素還元製鉄』と呼ばれる製造法でつくり、二酸化炭素(CO2)排出量を大幅に抑えた鋼材の供給を日本で始める。石炭の代わりに水素を使った製鉄法で、脱炭素の将来的な切り札とされる。物流や原材料などを含めたサプライチェーン(供給網)全体で大部分を占める製造時でのCO2排出をゼロ近くに抑えた。」

この記事を見て、私は、だいぶ前に自分が書いたブログ記事を思い出し、本ブログの過去ログを探してみた。こんな記事が見つかった。

「NHKのニュースは次のように伝えている。
『太陽の光を当てることで水を水素と酸素に分解する『光触媒』の働きを活用し、100平方メートルの規模で純度の高い水素を安全に取り出す実験に、東京大学などの研究チームが成功しました。広範囲での実験は過去に例がないということで、次世代のエネルギーとして注目される水素を大量かつ低コストで作る技術につながる成果として期待されます。』」
(NHK NEWSWEB 10月17日配信)」
(2021/10/20 《希望の水素》)

ここでNHKのニュースが伝えたとされる画期的な水素製造の技術ーー「光触媒」の働きを活用した新技術は、(けさの日経のメルマガが伝える)「水素還元製鉄」と呼ばれる製造法と、何らかの関係があるのだろうか。

関係があるのかどうか、技術畑に門外漢の私には判るはずもないが、もし関係があるとすれば、半年ほど前に日本の大学研究室で考案された新技術が、半年という時間の経過を経て、ヨーロッパの企業によりやっと実用化されたことになる。

日本の企業ではなく、ヨーロッパの企業が開発を行い、しかもこの技術によって作られた製品の鋼材を発売する、そのビジネスの舞台が日本の市場だというのも皮肉な話だが、自国発のアイデアを実用化できないのは、今の日本産業の衰退ぶりを象徴している気がする。

なんとも情けない気がして、憂国ジジイの私としては、愚痴をこぼさないわけにはいかなかった。



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夢は曠野を

2022-05-23 11:38:41 | 日記



けさのネットの散歩で、ステキな言葉に出会った。

「いかに自分で自分を楽しませるかが人生の基本だ。」

小森のオバチャマ、映画評論家の小森和子氏が残した言葉だそうで、
それを「団塊シニア」さんがきょうのブログで紹介していた。

この言葉を紹介した上で、「団塊シニア」さんは次のようにコメントしている。

「人はいつか去っていく、どんなに心残りでも、誰でもその時がやってくる、だから人の目に映る自分など気にしないで、とにかく自分を楽しませる、このことこそ人生の基本であることは間違いない。」

自分を楽しませることが、自分の人生に意味を与えることにつながる。そう「団塊シニア」さんは考えているのだろう。

私は「人生の意味」などと大袈裟なことは考えない。考えず、なかば無意識のうちに自分を楽しませようと動いている。

たとえば今、私はキーボードを叩いているが、こうしてキーボードを叩き、(今の私に唯一十全に残された機能である)右手の機能を最大限に発揮させるとき、私はささやかな悦びを感じるのである。

自分を楽しませる。この言葉で私がイメージするのは、ニーチェが描いたツァラトゥストラの姿である。幼子のように無心に、軽やかにステップを踏み、スキップしながら舞い踊るツァラトゥストラ。

きょうのブログで「団塊シニア」さんが書くように、歳をとると、今まで出来たことができなくなり、体調が日替わりであちこち悪くなったりすることが多くなる。ツァラトゥストラのように軽やかに舞い踊ることなど、夢のまた夢になる。

だが、生きている以上、なんらかの機能は残されている。それを最大限に発揮させようとすればよい。

旅に病んで夢は枯野をかけめぐる

歳をとり、病を得て寝たきりになっても、想像の翼を羽ばたかせれば、我々は空想の曠野をかけめぐることができる。それを楽しむかどうかは、ひとえに考え方の問題である。


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ウクライナ 正義の根拠は

2022-05-22 10:45:51 | 日記


ああ、やっちまったなぁ。それが「言わずもがな」だとわかっていながら、私はつい、言ってしまった。

でも、仕方がない。これが私の性分なのだ。わかっちゃいるけど、止められない。

「言わずもがな」だとわかっていたこと、にもかかわらず、私がつい言ってしまったこと、それは、私がきのう本ブログに書いた次の文章である。

「『ウクライナは正義、ロシアは悪』という(だれもが疑わない)この国際世論の常識が、(ウクライナの『インターネット・アーミー』によって)作られた作為の結果だということを、我々はもっと肝に銘じる必要があるのではないだろうか。」

ああ、こんなことを言うべきではなかった、書くべきではなかった、と、今現在、私は忸怩たる思いで猛省している。というのも、「ウクライナは正義でない、ロシアは悪ではない」などと私は思っていないし、この文章を書いたときにも、そんなふうには露ほども思っていなかったからである。

大体、「ロシアは悪ではない」ことをどうやって示したらいいのか、その方途が私にはわからない。私が確実に言えるのは、テレビの映像を見て、「ウクライナの人たちは可哀相だ、ロシアは非道いことをするなぁ」と私が思ったということ、それだけである。

「それで充分ではないか。『ロシアは悪だ』と言うためには、それで充分ではないか」と言う人がいるかもしれない。仮にそうだとしても、これだけでは「ウクライナは正義だ」ということにはならない。積極的に「ウクライナは正義だ」と主張できる根拠は、一体どこにあるのだろうか。

考えてみれば、国際社会は〈正義〉と〈正義〉とがぶつかり合うコンフリクトと闘争の舞台である。一方の〈正義〉の主張だけを、疑ってみることもせず、盲目的に受け入れてしまう姿勢は陥穽に陥りがちだ、ーー私はそう言いたかったのである。

一般論としては適切に思えても、具体的なケースに当てはめると「それはどうかなあ」と思えてくることは間々ある。「総論賛成、各論反対」などもそのバリアントだろう。
「ウクライナの〈正義〉」の場合もそうなのだろうか。
やれやれ。


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