午前3時、小用のためにトイレに立った。起き出すにはまだ早すぎる時間なので、再びベッドに潜り込んだ。しかし眠気はどこへやら。仕方がないので、スマホを取り出し、Tver でテレビドラマ「ユーチューバーに娘はやらん!」を見た。
冒頭は、ヒロイン(佐々木希)の父親(遠藤憲一)が急病で倒れ、病院のベッドに横たわるシーンだった。妻(斉藤由貴)も娘たちも、家族全員が「お父さんはもうすぐ死んでしまうのだ」と思い、皆で嘆き悲しむ見せ場が続く。
その家族の(今では珍しい?)有様を見ながら、私は「ああ、羨ましいなあ」と思い、遥か昔の、新婚当初の頃を思い起こした。そして思った。あの頃、若かった自分はなんて世間知らずだったのだろう、と。
その頃、縁あって妻になったその女性に対して、私はある疑問を懐いていた。自分が死んだとき、この女性(ひと)は嘆き悲しんでくれるのだろうか、と。自分が死んでも、この女(ひと)は案外あっけらかんと生きていくのだろうな、と感じていた。
そんなふうに思っていた自分が、今考えるとなんとも恥ずかしくなる。あの頃、自分は何も解っていなかった。愛情がどういうものか、ちっとも解っていなかった。惚れた腫れたで一緒になったとしても、そんな夢現(うつつ)の酩酊状態の中に〈愛〉はありはしない。年老いた今、私はそう思う。
愛情とは、夫婦が共に同じ時間を過ごし、歳を重ねる中で、自ずとゆっくり育って行くものなのだろう。愛は植物のようなもので、枯れたり萎れたりしながらも、時とともにすくすくと育って行く。すくすくと育ちながらも、思わぬ裏切りによって、突如枯れたり、萎んだりしてしまうこともある。
そういう植物の生育過程の中で、嘆きや悲しみといった喜怒哀楽の情は、自ずと出てくるものなのだろう。
だから今、私は疑っている。自分が死んだとき、この女(ひと)はホントに嘆き悲しむだろうか、と。
嘆きや悲しみの仕種(pose)が、世間に対する見栄(pretension)から出ていることも、間々あったりするのではないか・・・。
そう思いながら外を見ると、空はもうだいぶ白みはじめていた。
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