ささやんの週刊X曜日

世にはばかる名言をまな板にのせて、迷言を吐くエッセイ風のブログです。

瘋癲老人日常

2020-11-15 12:15:28 | 日記
老いるとは、きのう出来たことがきょうは出来なくなる、どうしようもない喪失の過程である。きのうまでスムーズに出来たベッドからの起き上がりが、きょうは出来なくなる。美しい女(ひと)に出遭って、心をときめかせた私が、きょうは何も感じなくなる。失ったものをPとすれば、きのうの私は+P(有)、きょうの私は0(ゼロ、無)の状態にある。老いつつある私は、有と無の狭間(はざま)にあって、無へと傾斜していく自分を意識しながら、日々やるせない思いで暮らしているということなのだ。

老子は次のように述べている。
「故有無相生、難易相成、長短相形、高下相傾、音聲相和、前後相隨。」
(書き下し文:「故(まこと)に有と無相(あい)生じ、難と易相成り、長と短相形(あらわ)れ、高と下相傾き、音と声相和し、前と後相随(したが)う。」
現代語訳(意訳):「このようであるから, 有(存在)と非有(非存在)は,連なって生じ,難と易は,相互に成り(補ってあり),長と短は,対比して現れ,高と低とは,相対する位置としてあり,音と声は,調和して響き合い,前と後とは,あい伴う(順序をもつ)。」)

ここには「難と易は相互に成り(補ってあり)」という文言が見られるが、これは先の事例(ベッドからの起き上がり)に即していえば、「難」は起き上がりが困難になること、「易」は起き上がりが容易に出来ることに対応している。美と醜とが、善と悪とが、相互依存的な関係にある相対的なものであるように、ベッドからの起き上がりが困難になることと、起き上がりが容易に出来ることは、相対的なことだと老子は言っている。起き上がりがしんどい(困難だ)と感じるのは、それが容易に出来た(数日前の)自分との対比においてだからである。

要するに、醜あっての美、悪あっての善。若さあっての老い、ということである。

どういうことか。「ああ、自分は老いたなあ」と感じるとき、私は自分の中に(ちょっとだけ)残る若さの感覚と対比してそう感じている。その意味では、私はまだまだ(ちょっとだけ)若いのである。

これに関してはいろいろなことが言えるが、きょうはまあ、これぐらいにしておこう。
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