「団塊シニア」さんとはよほど相性が良いのか、不思議と馬が合う。問題意識が似ていることもあるのだろう。独りぽつねんとパソコンに向かいあっているモノローグの世界では、ブログのネタは何一つ浮かんでこないが、「団塊シニア」さんのブログ(「団塊シニアのひとりごと」)を覗くと、私の頭の中で自然にダイアローグが動きはじめる。
きょうの「団塊シニア」さんの話題は、深刻なものだった。
「人工呼吸器をつけた人には痰がつまらないように数時間ごとに痰を吸引するが、意識のない人ですら苦しさに体を震わせる。動いて管を引き抜いてしまわないよう、手にはミントがはめられ縛り付けられてる、11年前に亡くなった父の晩年がそうだった。」
ご自身の体験談だそうである。「団塊シニア」さんは、お父上の苦しむ姿を見ながら、それでも延命治療を選択した。それを後悔する気持ちからいまだに逃れられないという。
「治療中止を希望したら見殺しにした気分に苛まれると思い、延命治療を選択したが、今だに後悔している。」
このように書く「団塊シニア」さんは、(延命治療にあたる医師と同じく)「生命(いのち)には、他の何にも優る絶対の価値がある」という価値観にとらわれているに違いない。
今、このように書きながら、私は、「長生きは幸福なのか?」という問いを思い起こし、この問いをめぐって本ブログで何度か考察を重ねたことを思い出した。(2020b/5/14《長生きは幸福なのか、という問いをめぐって》、2021/5/21《長生きは幸福なのか、という問いをもう一度》)
一般に「長生きは幸福だ」と考えられているが、この考え方は、私が先に指摘した価値観(「生命(いのち)には、他の何にも優る絶対の価値がある」という価値観)を前提にしている。しかし私は、「ホントにそうなのだろうか?」と疑問に思えてならないのである。
長生きができたとしても、その人が苦痛に苛まれていたとしたら、どうなのだろう?激しい苦痛にとりつかれた長い人生は、ホントに幸福な人生だと言えるのだろうか?
言えないのではないか、と私は思っているが、たぶん「団塊シニア」さんの中にも同じ思いがあるのだろう。だから「団塊シニア」さんは、父親の延命治療を選択した11年前の自分を思い出し、いまだに後悔の念にとらわれるのだろう。
とはいえ私の場合は、問題の価値観(「生命(いのち)には、他の何にも優る絶対の価値がある」という価値観)を、何の留保もなく「いや、違う!」と否定できない自分がいることも事実である。それは、この私自身が「生きたい!できるだけ長く生きたい!」と願っているからに他ならない。
「団塊シニア」さんは、きょうのブログ記事に《穏やかな最期とは家族の問題でもある》というタイトルを付けている。このタイトルとの関連で言えば、私の妻はこれまで何度も私のリビング・ウィルを確かめようとしてきた。「延命治療が必要になったら、あなたはどうしてもらいたいの?」
苦痛の伴う延命を選ぶのか、それとも苦痛の伴わない尊厳死を選ぶのか?自分では判断がつかないから私に訊くのだろうが、そんなこと、この俺にだって判らないよ・・・。
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