ささやんの天邪鬼 ほぼ隔日刊

世にはばかる名言をまな板にのせて、迷言を吐くエッセイ風のブログです。

行為としての無為について

2020-04-14 14:28:31 | 日記
無が有へと転化する。難解なヘーゲル弁証法の話ではない。ごく日常的な、今ではだれもが強いられている、ごくありふれた状況の話である。外出をしない。友人とおしゃべりをしない。居酒屋で飲み会をしない、等々。
「緊急事態宣言」によって要請された、そういう諸々の〈ない〉という形の無為が、積極的な行為としての意味を持つということである。

この無為は、ステイホーム(うちにいる、うちでじっとしている)という形をとるが、このことがコロナウイルスの拡散を防止し、(罹患すれば重篤化を免れない)高齢者の命を守ることにつながる。この無為はまた、医療従事者の負担を減らし、日本の医療崩壊を食い止めることにもつながる。

無為が積極的な行為としての意味を持つ場合、それは悪行につながることが多い。たとえば友人がチンピラにカツアゲされている現場を目撃した場合、あなたは見て見ぬふりをして、なにもしないまま、黙ってその場をやり過ごそうとするかも知れない。厄介に巻き込まれたくないと考えるからだ。
この場合、あなたはチンピラの悪行に加担したとみなされても仕方がない。

いわゆる「未必の故意」がここには含まれる。道幅の狭い通学路を、時速100キロのスピードで走行すれば学童を事故に巻き込むかもしれない、と思いながら、ブレーキを踏むことをせずそのまま時速100キロのスピードで走行して、案の定、事故を起こしてしまうといったケースがそれである。

それとは違い、ステイホームという形をとる無為の場合は、コロナウイルスの拡散を防ぎ、他者の命を守るという善行の実践へとつながる稀有な事例である。

ステイホームという無為の形は、これまでにない新しい行為の実行方式を提示する。そのようなものとして、これは、妖怪コロナとの付き合い方に新境地を拓くものになるのではないだろうか。
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