ささやんの週刊X曜日

世にはばかる名言をまな板にのせて、迷言を吐くエッセイ風のブログです。

プーチンが敗ける理由 政治哲学の観点から

2022-06-05 10:01:50 | 日記



プーチンが仕掛けたウクライナとの戦争。この戦争においてプーチンは「すでに敗けている」と歴史学者のユヴァル・ノア・ハラリ氏が述べていることについては、きのうの本ブログで取りあげた。

ハラリ氏はなぜそう考えるのか。ハラリ氏は言う。「一国を征服するのは簡単でも、支配し続けるのははるかに難しい」。ウクライナの国家を今後ずっと支配し続けることができなければ、プーチンはこの戦争の勝者とはいえないとハラリ氏は言うのである。

では、「一国を征服するのは簡単でも、支配し続けるのははるかに難しい」と彼が主張する、その根拠は一体何なのか。
ハラリ氏はしかし、この「さらなる根拠」については何も語っていない。「これまでの人類の歴史を見れば、それは明らかである」というのが、この歴史学者の答えなのだろう。

しかしながら、この答えに満足できない私は、さらに「さらなる根拠」を知りたくなる。「一国を征服するのは簡単でも、支配し続けるのははるかに難しい」と主張できる根拠は、一体何なのか。この主張は、なにゆえに正しいのか。

しかし、この問いは、もはや歴史学者の関知するところではないと言うべきだろう。これは歴史学者にとっては畑違いの問題であり、あえて言うなら、これは政治哲学が関わるべき問題である。

では、政治哲学の領域には、この問いに対して、どういう答えがあり得るのか。
たとえば、次のような見解がある。ちょっと長いが、お付き合い願いたい。

「どんな国家も、自己を維持するためには政治権力の行使を必要とする。国内の秩序を保つために、国家は法を犯した者に対しては刑罰を科し、国民を法に従わせるよう図らねばならない。その限りでは、国家統治者と国民との間に存在するのは支配と服従の関係である。
マックス・ウェーバーは次のように書いている。『国家も、歴史的にそれに先行する政治団体も、正当な(ーー正当なものとみなされている、という意味でのーー)暴力行使という手段に支えられた、人間の人間に対する支配関係である。』(『職業としての政治』)
ウェーバーがここで、国家統治の手段を単なる暴力行使とは見ずに、『正当な(ーー正当なものとみなされている、という意味でのーー)暴力行使』としている点に注意しなければならない。どんな国家における支配関係でも、それが持続的であるためには『内的な正当化の根拠』を欠かすことができない、というのが、このウェーバーの言葉の背後にある見解である。ただ威嚇の手段だけによったのでは、統治者は長期の支配関係を維持することはできない。持続的な支配ー服従関係は、被治者の側に服従への意思がなければ保たれえず、被治者が服従への意思を持つのは、彼/彼女がこの支配ー服従関係を正当とみなす限りでのことなのである。
支配関係の継続には被治者の服従への意思が欠かせない。そうである以上、統治者はそれを喚起するために、自己が正当であることの根拠をたえず被治者に示してみせなければならない。」
(『〈権利〉の選択』ちくま学芸文庫版184頁)

この見解は、先の問いに対する答えとして、なかなか説得力のある見解だと私は思うのだが、いかがだろうか。


コメント
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