ささやんの天邪鬼 座右の迷言

世にはばかる名言をまな板にのせて、迷言を吐くエッセイ風のブログです。

政教分離 大嘗祭発言をうけて

2018-12-04 15:14:48 | 日記
きょうの朝日新聞は、「大嘗祭発言と政教分離」のタイトルの下、3人の論者の見方を紹介している。作家・半藤一利氏の見解には、「前例を踏襲 怠った議論」の見出しが付けられ、放送大学教授・原武史氏の見解には、「『平成流』継承 強い意識」なる見出しが付けられている。もう一人の論者は宗教学者の山折哲雄氏、彼の見解には「天皇制に近代化の試練」という見出しが付けられている。

秋篠宮の大嘗祭発言については、先日、本ブログで取り上げたこともあり、識者それぞれの見解を興味深く読んだ。半藤氏と原氏の見解は、私の見方と大差がないためか、よく理解することができた。私の見方と大きく違っていたのは、山折氏の見解である。

山折氏の見解は、何が言いたいのか、よく理解できないところがあるが、私なりにまとめれば、ほぼ以下の通りである。

1.象徴天皇制の特徴は、「権威」としての天皇と、政治の実権を持つ「権力」とが併存する二元構造にある。

2.宗教的権威と政治的権力がそれぞれ国民の支持によって安定的に存続し、相互補完的である限り、この二元構造は安定性を持つ。いずれか一方が国民の支持を失い、動揺するとき、この二元構造は不安定化する。

3.天皇の権威を支える要素の一つは「宗教的なカリスマ性」であり、このカリスマ性を演出する舞台装置が大嘗祭にほかならない。近代的民主主義の下、政教分離の原則を持ちだし、大嘗祭の盛大化を問題視する(秋篠宮の)発言は、象徴天皇制の二元構造を不安定化させる動きの一つと見るべきである。


いかがだろうか。以上が山折氏の見解に対する私なりの解釈である。上に述べたように、氏の見解にはよく理解できないところがあり、思わぬ誤解・曲解をはたらいているかも知れない。そうであれば、これは私の意図するところではないので、以下、読者の正しい理解の参考になればと、原文(のコピペ)を付け加える。私の見るかぎり、山折氏は、「象徴天皇制は近代化の流れによって崩壊する」という分析的観点と、「そうであって欲しくない、そうならないで欲しい」という願望の観点と、その2つの相反する観点の板挟みになった自分の窮地を、曖昧な言説で自己韜晦(とうかい)しているだけのように思える。

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■天皇制に近代化の試練 山折哲雄さん(宗教学者)

 伝統ある天皇制が近代化の深まりに伴って新たな試練に立たされ、皇室サイドが対応を余儀なくされている。秋篠宮発言はそうした苦悩の現状を映したものに見えました。

 大嘗祭は「身の丈に合った儀式」であるべきだという発言の奥には、国民に及ぼす様々な負担を軽減したいという思いも含まれているように感じられます。実は一昨年の天皇退位の「おことば」の中でも、「天皇の終焉(しゅうえん)」に伴う重い行事の負担を減らしたいとの意向が示されていました。

 背景の一つには、国民の経済的負担を意識せずにはいられなくなった状況があるのでしょう。国民主権と民主主義が根付いた社会では、「国民に受け入れられる皇室」でない限り、天皇制は安定的に存続しえない。憲法も皇室典範も、主権者が変えようと思えば変えられるからです。

 近代的な民主社会で伝統的な王室をどう安定的に機能させるかという試みは、世界各地で進められています。

 日本では平成期に、象徴天皇制と戦後民主主義の関係が調和に向かったと私は見ます。ただ、平成は皇室の危機が深まる時代でもありました。近代化がより深く社会に浸透し、個人を大事にする意識が広まったことで、近代的な価値と皇室の伝統との間の緊張が強まったのです。その表れが、皇太子ご一家に対して世論の一部から冷ややかな視線が送られた現象です。

 皇室とは、公的な「象徴家族」としての性格と、私的な「近代家族」の性格を併せ持つ存在です。血統に基づき宮中祭祀の役割を受け継いでいく前者の面と、個人として自らの考えで家族や人生を形作っていく後者の面です。

 冷ややかな声が上がったのは、皇太子ご夫妻の言動に近代家族への傾斜を感じ取ったからでしょう。5年前に私が雑誌で「皇太子退位」を提案したのは、このままでは国民と皇室の関係に危機が訪れ、ご一家のためにもならないと考えたからです。皇室の「公と私」は、今後も問い直され続ける可能性があります。

 象徴天皇制の特徴は、「権威」としての天皇と、政治の実権を持つ「権力」とが併存する二元構造にあるでしょう。天皇は権力を持たず、権力側は皇室の権威に触れることをタブー視する、相互補完・相互牽制(けんせい)的な関係です。

 安定的に見えるこの構造ですが、扱いを間違えれば不安定化しかねません。たとえば今回、大嘗祭を「宗教色が強い」ものとみなす発言が皇室内部から出てきました。近代社会では政教分離の原則が重視されますが、天皇の権威を支える要素の一つは、まさに「宗教的なカリスマ性」なのではないでしょうか。

 近代と伝統をどうすれば両立させられるのか。主権者の議論が求められています。
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