ささやんの天邪鬼 座右の迷言

世にはばかる名言をまな板にのせて、迷言を吐くエッセイ風のブログです。

大嘗祭はどう行うべきか

2018-12-01 11:20:39 | 日記
秋篠宮氏の発言がメディアで物議を醸している。近々皇位継承順位第1位になる立場の人物が、新天皇の即位の儀式である大嘗祭(だいじょうさい)について、「宗教色が強いものを国費でまかなうことが適当かどうか。すっきりしない感じをもっている」と述べたのだから、この発言が波紋を広げないわけはない。

秋篠宮氏の発言が物議を醸す一つの理由は、それが政治的発言、国政に関する発言と見なされるからである。天皇は「国政に関する権能を有しない」と憲法4条に定められている。このため皇族は、天皇に準じて、基本的に政治的な発言を控えるのが習わしになっているのだ。

私はこの発言を、国政に関する発言だとは考えない。大嘗祭(だいじょうさい)を「公的な行事」(国事行為)としてではなく、「身の丈に合った儀式」として、つまり「私的な行事」として慎ましやかに行いたい、とする一種の願望の表明だと考える。そこに社会的な提言が含まれているとすれば、それは大嘗祭を、〈政〉の領域に属する行事としてではなく、〈教〉の領域に属する行事として限定的に行うべきだとする、いわゆる「政教分離」の原則に基づく主張だと見なすべきだろう。「政教分離」の原則の主張を、国政に関する発言だと見なすことはできない。しいて言えば、それは国政に関する〈メタ〉的な発言なのである。

問題は、大嘗祭という(〈教〉の領域に属する)行事を、公的要素が含まれない(純粋に私的な)行事と見なすことができるかどうかである。〈政〉は〈公〉、〈教〉は〈私〉というふうに、二項をはっきりと切り分けることができるかどうかである。

できない、と私は考える。天皇を含む皇族の生活費は、国民の税金から出ている。天皇を含む皇族の存在そのものが「国費(=公金)」によって支えられていると言っても過言ではない。大嘗祭は国費(「宮廷費」)によってではなく、内廷会計で行うべきだ(=天皇家の私的な生計費である「内廷費」によって行うべきだ)と秋篠宮氏は述べたが、この「内廷費」そのものが(国民の税金という)国費から出ていることを忘れるべきではない。

このことを痛いほど感じているのは、ほかならぬ秋篠宮氏ご自身だろう。自分たちの生計費は国民の税金から出ている。だから自分たち一家の私的な宗教的行事は、仰々しい国家的行事としてではなく、慎ましやかに私的・限定的行事として催されるべきだ、ーー秋篠宮氏はそう考えたに違いない。

けれども、である。国家のシンボルである天皇の、その即位の儀式には、国家の威信
( dignity )がかかっている。そして国家の威信を内外に示すには、それなりの大仰な演出も必要になる。ーー菅官房長官はじめ政府の要人は当然そう考えるのだろうが、秋篠宮氏の発言をどう受け止めるかは、ひとえにこの「国家の威信」をどう考えるかにかかっている。そうではないだろうか。
コメント
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