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ささやんの天邪鬼 ほぼ隔日刊

世にはばかる名言をまな板にのせて、迷言を吐くエッセイ風のブログです。

トランプの復権と革命 その意味を問う(その2)

2025-05-27 08:41:38 | 日記
(承前)
トランプの2回目の当選は、階級闘争がもたらした「革命」の成果だった。
革命の主体、それは(職を失って路頭に迷った)ブルーカラーの労働者たちである。

トランプ再選の意味をこう考えると、大統領に返り咲いたトランプが、真っ先に(乱暴な!)関税政策に走った理由がよく理解できる。

大統領に返り咲いたトランプは、何よりも先に(おちぶれた)ブルーカラーの労働者たちを復活させなければならないと考えたのだ。

彼らが職を失ったのは、(自動車産業に代表される)アメリカの製造業が没落したからだが、没落の原因は、日本や中国から輸入された自動車などの安価な製品が、アメリカの市場を席巻したことにある。
だから、日本や中国から輸入される自動車などの製品が関税措置によって安価を維持できなくなれば、アメリカの製造業は息を吹き返し、彼ら労働者も息を吹き返すはずだ、ーートランプはそう考えたに違いないのである。
別の言い方をすれば、関税措置によってアメリカに富をもたらし、「アメリカを再びグレイトにする(メイク・アメリカ・グレイト・アゲイン)」ことが、支持層であるブルーカラー階級の腹を満たすことにつながる、ーーそう考えたと言ってもよい。

このトランプの目論見はしかし、完全に当てがはずれた。日本や中国から輸入される製品は関税措置によってたしかに高価になったが、それによって(ブルーカラー階級を中心とする)低所得層がダメージを受けるという、何とも皮肉な事態が生じたからである。

トランプの関税政策の失敗は、明らかにこの老人の短絡的思考に由来する。これに懲りたトランプは、自分の熱狂的な支持者たち、ブルーカラー階級の労働者たちの、その腹を肥やそうとして、次はどういう手を繰り出すのだろうか。
お手並み拝見と行きたいが、手詰まりになったこの半ボケ短絡老人が極端な冒険に走らないか、ちょっぴり心配ではある。


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トランプの復権と革命 その意味を問う(その1)

2025-05-24 13:38:04 | 日記
唯我独尊。夜郎自大。そんな言葉がぴったりの暴走老人ドナルド・トランプ。こういう人物がなぜアメリカの大統領になったのか、私は常々不思議に思ってきた。こんなアブナイ老人を大統領に選んだアメリカ国民の「民度」に問題はないのか、ーーそんな疑問をいだいたりもした。

だが、朝日新聞の次の見出しの記事を読んで、私は「ああ、そういうことだったのか」と溜飲を下げたのである。

(帝国の幻影 壊れゆく世界秩序)第1章 失敗した米のエリート層 副大統領ブレーン、米教授に聞く
(朝日新聞5月20日)

このインタビュー記事の中で、バンス副大統領のブレーン、米ノートルダム大学教授のパトリック・デニーン氏は、「トランプ氏の2回目の当選は『革命』に近い」と指摘している。

その部分を読んだとき、はじめ私は「え?革命だって?」と訝しく思ったものだ。
「革命」とは、普通の理解では、「国家の権力をある勢力から別の勢力に移行させること」を意味する。たしかにトランプの当選によって国家権力は「民主党」勢力から「共和党」勢力へと移行することになった。
しかし、しかしである。階級闘争を伴わないこうした穏健な政権の移行を、「革命」などと呼ぶことができるのだろうか・・・。

はじめはそう訝った私だったが、よく考えてみて、「うん、あの大統領選はたしかに階級闘争の一種だったのだ」と思い直すようになった。

振り返れば、トランプが最初に大統領になった2016年の大統領選がそうだった。ヒラリー民主党政権からトランプ共和党への政権移行をもたらしたのは、(製造業の不振のために)職を失ったラストベルトの労働者階級、ブルーカラー階級だった。

トランプは次の2020年の大統領選に敗れ、再選を阻まれるが、トランプの再選を阻んだのは、民主党を支持するホワイトカラー階級の反撃の巻き返しだったといえるだろう。
ホワイトカラー階級の巻き返しにより階級闘争に敗れたブルーカラー階級の怒りの激しさは、敗北直後の米議会乱入事件が如実に示している。

ブルーカラー階級のこの怒りは、2024年の大統領選でのトランプの復権となって実を結ぶが、こうした事実が示すように、アメリカの大統領選は、ブルーカラー階級とホワイトカラー階級とが切り結ぶ熾烈な闘争の舞台だったのだ。
(つづく)

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トランプと国家の要塞化 ハラリの警鐘を聞く(その2)

2025-05-22 09:07:57 | 日記
(承前)
要塞化した2つの国家ーートランプのアメリカと、プーチンのロシアーーはいずれ必ず衝突し、この衝突は戦争へと発展する。これが「知の巨人」ハラリ氏の見立てである。
この戦争ではかなりの高確率で核兵器が使われ、人類は滅亡の危機に立たされるかもしれない・・・。

そんな絶望的な予測を聞かされるとき、私はつくづく思うのだが、人は希望がないと生きていけない弱い存在なのかもしれない。絶望の中でこそ人は希望を持ちたがるものだ、と言えるだろう。
私もその一人として、ハラリ氏の言説の中に何か希望につながる展望はないものかと、オプチミスティックな展望を探そうとした。
案の定、それはすぐに見つかった。以下の言葉を、我々はだがオプティミストの安易な展望の提示と見るべきではあるまい。ハラリ氏自身が希望を渇望する一人の人間として、希望のよすがとなる兆候を、人類の歴史の中に必死に探したはずだ。ハラリ氏は次のように述べている。

人類の長い歴史から学ぶべきことは、信頼を築くという人間の驚くべき能力です。
10万年前、人類は、数十人の小さな集団で暮らし、外の人間を信頼できませんでした。今日では、数百万人が互いに信頼し合う国家のような巨大なネットワークが構築されています。過去には多くの戦争や犯罪などの問題があったにもかかわらず、互いによりよく信頼を築く方法を学んできたのです。
私たちの食べ物、技術、発想のほとんどは、10年前、1000年前、あるいは5000年前に外から来たものです。もしある国が『外から何も欲しくない、国内にあるものだけを使う』と言うなら、誰もこれまでのように生きることはできません。自分の外にあるものを、まるで空気のように信頼しなければなりません。

(同前)

人と人との間の「信頼」のネットワーク。このネットワークは国境の壁を越え、交易の拡大とともに、グローバルな規模へ広がっていく。ジコチュー(自己中)のトランプがこのネットワークをどれだけ分断しようとしても、このネットワークはしょせん国家権力の及ぶところではない。
絶望の中で、希望をつなごうとする我々。我々はこの「信頼のネットワーク」にこそ信頼を寄せるべきなのかもしれない。

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トランプと国家の要塞化 ハラリの警鐘を聞く(その1)

2025-05-20 09:06:39 | 日記
虎の威を借りるつもりはない。「知の巨人」と言われる人が警鐘を鳴らしていると聞いたので、その発言に耳を傾けたい、率直にそう思ったまでである。
一昨日(5月18日)の深夜に放送されたNHKのインタビュー番組

トランプ時代への警鐘〜歴史家コヴァル・ノア・ハラリ〜

を見た。

コヴァル・ノア・ハラリ氏は、世界的なベストセラーとなった『サピエンス全史』の著者として名高い。
彼はトランプ米大統領ーー自国第一主義を掲げ、世界中に関税を課して、ディール(取り引き)を求めるあのトランプ米大統領の、その所行を国家の「要塞化」であるとして、次のように述べている。

トランプ大統領のような政治家は自国の利益だけを考え、自国をすべての国から隔離された一種の要塞として想像しています。そのため、貿易や思想、外国人に対して壁や関税を築いているのです。
問題はこれらの要塞がどのように関係を管理し、紛争を解決するかです。なぜなら、必然的にすべての要塞は、近隣諸国を犠牲にしてより多くの領土、より多くの安全、より多くの繁栄を望むからです。
したがって、2つの要塞が衝突した場合、国際法も普遍的な価値観もないので、戦争以外で要塞間の関係を管理する方法はありません。

(NHK NEWS WEB 5月16日配信)

ハラリ氏が「2つの要塞が衝突した場合」ということで想定しているのは、アメリカと、もう一つの要塞化した国家・ロシアとが衝突するケースである。
ハラリ氏の想定にしたがえば、2つの要塞化国家ーートランプのアメリカと、プーチンのロシアーーはいずれ必ず衝突し、この衝突は必然的に戦争へと発展することになる。

ハラリ氏が差し出す人類の将来は限りなく暗いが、
では、我々はこの絶望的な未来に対して、どう対処すべきだとハラリ氏は言うのだろうか。
(つづく)

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ああ認知症 その闇の底から

2025-05-18 09:03:46 | 日記
人生も七十路(ななそじ)を越えると、嫌でも老いを自覚することになる。きのうできたことがきょうはできなくなり、「できること」がどんどん失われていく。

もし認知症になったら・・・、と私は考えた。きのう認知できたことがきょうは認知できなくなり、「認知できること」の範囲がどんどん狭まっていくのだろう。

「認知できること」の範囲が究極まで狭まったとき、そこにあるのは絶望なのか、それともあっけらかんとした能天気の明るさなのか、それはわからない。
わからないながらも、その未知の領域は私の好奇心を呼び覚ます。

こんな愚にもつかないことに思いをめぐらせたのは、数日前(5月13日)、テレビドラマ「対岸の家事」(「対岸の火事」ではない)を見たせいだろう。
毎週火曜日に放送されるこのドラマは、「家事」にまつわるさまざまな問題を独特の切り口でクローズアップして見せてくれるので、
私は毎週、おもしろくこれを見ている。

この日は「もし認知症になったら」というのがテーマだった。
ヒロイン・詩穂の近所に住む親しい年上の主婦・坂上が認知症を発症し、万引き騒ぎを起こして、(離れて暮らす)一人娘の里美を巻き込むことになる。
「お母さん、大丈夫? 私、これからはなるべくこの家に帰ってくるようにするから」
と気遣う里美に対して、
母親の坂上はこう答える。
「私を独りにして頂戴。私はこれからどんどん物忘れがひどくなり、自分が自分でなくなって、人に迷惑をかけるだけの存在になる。里美の人生の邪魔をする。私はそれが一番、嫌なの」

坂上はまだ、「我が子に迷惑をかけたくない」と配慮するだけの認知能力は持っている。だが、やがてはそうした認知能力も失われ、ただ「存在」するだけの「もの」になっていくのだろう。

私は、自分がそうなったときのことを想像した。

数日前に見たこのドラマは決して明るい話ではなかった。深刻な、といったほうがいい。

だが、この深刻な、暗い光景の先にはどんな光景が顔を覗かせるのか。

もっと別の光景が現れるのでないか。そう思うのは、ドストエフスキーの言葉が心に残っているからである。

私はこのところデイサのスキマ時間に『絶望名言』(NHKラジオ深夜便)を読んでいる。このぶ厚い文庫本を読んでいたら、ドストエフスキーのこんな言葉に出会ったのである。

もしどこかの山のてっぺんの岩の上に、
ただ二本の足をやっと乗せることしかできない
狭い場所で生きなければならなくなったとしても
ーーしかもその周囲は底知れぬ深淵、
広漠とした大洋、永遠の暗闇、
永遠の孤独と永遠の嵐だとしてもーー
そしてこの方一メートルにも足らぬ空間に、
一生涯、千年万年、いや永久にそのまま
とどまっていなければならないことになったとしても
ーーそれでもいますぐに死ぬよりは、
そうしてでも生きているほうがまだましだ!
生きて、生きて、ただ生きていられさえすれば!
たとえどんな生き方でもーー
ただ生きていられさえすればいい!・・・。
なんという真実だ!
ああ、まったくなんという真実だろう!

ひたすら「生きたい!」と願うその望みが叶うとすれば、
それは「希望」の光明がさしている状態といえるだろう。
絶望と希望は背中合わせなのかもしれない。

*「はてなブログ」に移住しました。しかし引っ越しは難しい。この身ひとつは移住できたものの、馴染んだ家財道具を一緒に移すことはできませんでした。
まあ、仕方がない。単身でまた一から始めることにしようか。
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