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ささやんの天邪鬼 ほぼ隔日刊

世にはばかる名言をまな板にのせて、迷言を吐くエッセイ風のブログです。

小泉農政をめぐるデマゴギー(その2)

2025-06-17 08:58:00 | 日記
(承前)
たけしがパクったと思われるブログがある。このブログのタイトルは、だが、明かさないことにしよう。
このブログの内容について、もし私が何らかのケチをつければ、私はこのブログの書き手を個人攻撃していると取られかねない。だが私には、そんな意図は毛頭ないからである。あくまでも問題なのは、ブログの内容である。

それにしても、このブログのタイトルはとても絶妙なもので、紹介しないのはもったいない気もする。
たとえば、コメ価格が高騰して、国民が音をあげる中、「コメは買ったことがない。支援者の方々がたくさんコメを下さるので」などと(国民感情を逆なでするような)無神経な発言をし、総スカンを食らって農相を更迭されたボケナス・江藤拓がいる。このボケナスをおちょくるのに、「コメ屋になれなかったタクちゃん」などと揶揄するのと同類の面白さが、このブログのタイトルにはあるのだ。
だから、まあ、このブログのタイトルの一端をほんのちょっとだけ明かせば、「**屋の**ちゃん」ということになるのだが、本文にはこう書かれている。

「**ちゃんは農水大臣として、『農協(JA)解体』をやりたいのです。(中略)その狙いは、JAバンクが抱える60兆円もの資産にアメリカの金融機関が割り込みやすいようにすること、アメリカの農業、酪農製品、資材関係が日本市場に割り込みやすくさせたいこと、さらにJAを協同組合から株式会社に組織替えして、政府が口出しがしやすいものに改組したいこと、この3つです。農業関係者は、油断してはいけません。」

こう書いたあとでこのブログの書き手は、こう述べている。
「**ちゃん」は「アメリカの産学共同体の利益代弁者」であり、「ジャパン・ハンドラー(対日調教師たち)」の手のひらで踊らされているのだ、と。

さらには「**ちゃん」の父について、このブログの主は次のように書いている。きっとたけしはこの部分を丸ごとパクったのだろう。

「賢明な皆さんは、思い出すでしょう。**ちゃんの父、小泉純一郎首相が、そうでした。『官より民へ』、『聖域なき構造改革』と称して、国営郵便事業を郵便、銀行、保険の3分割し、民営化にしました。当時、貯金と簡保資産は総額350兆円に上り、”世界最大級の銀行”といわれていたのです。その巨額のカネにアメリカは目をつけていた。その圧力に応えたというもの。
その後、保険事業には思惑通りアメリカの大手保険会社、アヒルのマークのアフラックが参入にしています。全国の郵便局を活用して保険事業を展開しています。小泉首相の国営郵便事業解体の動きは、アメリカ側からの構造協議や年次改革要望書の線に沿ったものだという見方が、いまも根強くあります。」

純一郎氏の「郵政民営化」の思惑について述べたこの部分の、その論理展開に、さほどの飛躍はない。一応、「お説、ごもっとも」と肯かざるを得ない、それなりの説得力を持っている。

だが私は、このブログの見解に「いいね!」と拍手を送る気にはなれなかった。後味が悪いのである。なぜか。
(つづく)

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小泉農政をめぐるデマゴギー(その1)

2025-06-14 16:03:22 | 日記
こんな意見を聞いた。あの人らしい「いかにも」な意見である。

タレントのビートたけし(78)が8日放送のテレビ朝日系『ビートたけしのTVタックル』(日曜正午)に出演し、小泉進次郎農相(44)が目指す農政改革について言及した。
番組では、小泉農相が2015年から自民党農林部会長を務めるも思ったような農政改革は達成できなかったと紹介。また農政改革は父・小泉純一郎元首相から2代に渡っての悲願であることも伝えた。

たけしは『もう完全に郵政民営化と同じだもん。日本の農業をアメリカに売り渡すという。お父さんは郵政民営化、こっちは農業民営化』とコメント(・・・)。

(スポニチAnnex6月10日配信)

小泉進次郎といえば、農相に就任早々、高止まりしたコメの価格を一気に引き下げ、音を上げていた国民の、その切実な要望に応えて人気急上昇中のイケメン系若手政治家だが、彼のめざす「農政改革」の底意は、な、なんと「日本の農業をアメリカに売り渡す」ことだというのである。
なんとも突飛な見解だが、この突飛さがいかにも「たけし」らしい。その論拠はといえば、これがほぼ皆無なのだ。
父親の純一郎が「郵政民営化」をやったから、だから後継者の進次郎も「農業民営化」を企てているに違いない、というのがたけしの見立てだが、(2つの命題を「だから」でつなぐ)この論理の飛躍ぶりは、「お笑い界のレジェンド・たけし」だからこそ許される「過激な冗談=噴飯物」以外の何ものでもない。

だが、この「たけし」の陰謀論じみた奇矯な見解を、私は「おいおい、冗談もほどほどにしてくれ!」と切って捨てる気にはなれなかった。これと同様の見解を、私は数日前にあるブログで読んでいたからである。そのブログはそれなりの説得力を持っていた。その論述は無理な飛躍もなく、独特の陰謀論を筋道立てて論じていたのである。
(つづく)


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人文学の意義をめぐって(その3)

2025-06-12 08:57:15 | 日記
(承前)
人文学は無価値なのだろうか。
「社会生活に役立たない」学問は、ホントに無価値なのだろうか。
社会通念と異なった価値観をいだかせる学問は、ホントに有害なのだろうか。
目下はこの問題を考えている。

最近、NHKの朝ドラ「あんぱん」を見ながら、つくづく思うことがある。
このドラマの(このところの)舞台は、日本の海軍が真珠湾攻撃を行い、アメリカと戦端をきった頃の日本である。国内は「それいけどんどん」の一色に染まり、赤紙で招集された若者に対して、「お国のために死を恐れず、立派にご奉公してこい!」の声がかまびすしい。
とりわけ国防婦人会のおばさんたちが目をつり上げ、ヒステリックに「お国のためにご奉公を!」と叫んでいる。

戦後生まれの私は、アメリカとの無謀な戦争に突き進んだ日本が、激戦の末に敗北を喫し、無残な状況に陥ったことを知っている。
だからこそ思うのだが、この無謀な戦争をくい止めることはできなかったのだろうか。

この戦争に邁進した責任は、東條英機首相など、当時の日本の統治者側にあるとされるのが通例だが、「いけいけどんどん」と煽り立てた臣民=国民の側にも、責任の一端はあったのではないか。

そして私は思うのである。当時の国民の多くが人文的な教養を身に着けていれば、事情は多少とも違ったのではないか。

ヒロインの「のぶ」は女子師範学校を卒業して小学校の教師になり、小学生の子どもたちに「立派な軍人さんになって、お国のためにご奉公をするのですよ!」と、愛国教師ぶりを発揮するが、もし「のぶ」が師範学校で(なぎなたの訓練などではなく!)人文的な教養を身に着ける訓練を受けていたら、彼女はあれほど単純素朴な愛国教師にはならなかったに違いない。

どうやら私は、こんなふうに言おうとしているらしい。
「人文学も長い目で見れば、大局的な展望から、社会を健全なものにするなどして、役に立つのだ」と。

だが、それだけではない。人文学は個々人の精神を豊かにする点でも「役に立つ」と言えるのではないか。

言うまでもなく社会は、個々人から成り立っている。その個々人を豊かにーーとりわけ精神的に豊かにーーせずして、社会に何の意味があるというのか。
たしかに、「社会生活に役立つ」とされる「実学」には、それなりの意義がある。
だが、個々人を経済的・物質的に豊かにするだけが個々人にとって「有意義なこと」ではない。
個々人を精神的に豊かにすることができてこそ、学問は本来の意味で「社会生活に役立つ」と言えるのではないか。

私はそう思うのだが、いかがだろうか。

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人文学の意義をめぐって(その2)

2025-06-10 08:52:27 | 日記
(承前)
人文系の学問はなぜ若者たちに人気がないのか。
それは、彼らが「そんな学問を身に着けても、就職には役に立たない」と考えるからだろう。

では、若者たちはなぜそう考えるのか。
それは、採用側の企業の面接担当者がこう考えるからである。
「そんな学問を身に着けた学生は役立たずで、我が社の発展に貢献しないに決まっている。そんな学生は我が社には必要ない。というより、そんな頭でっかちの学生は、我が社の社風になじまず、文句ばかり言うに違いないから、願い下げだ。」
つまり、人文系の学問は「社会生活には役立たない。むしろ有害だ」と考えられているのである。

ここで思い起こされるのは、「倫理学の開祖」と目される、あの古代ギリシアの論客・ソクラテスである。
言い伝えによれば、ソクラテスは
「アテナイの国家が信じる神々とは異なる神々を信じ、若者を堕落させた」
という罪状で公開裁判にかけられ、死刑の判決を受けたという。
ソクラテスは社会通念と違った価値観をいだき、既存の体制に批判の矢を向けて周囲に悪影響を及ぼした人物なのだ。
ソクラテスは自分が住まうアテナイの国家を「馬」にたとえ、自分をその馬にまとわりつく「アブ」にたとえている。
ソクラテスは社会の中での自分のポジショニングをよく知っていたといえるが、今、人文系の学問は、このソクラテスと同様の危うさを持った学問と見なされていることになる。

企業の人事担当者と同類のそういう認識から、かの筑波大学の経営陣が
「それなら、人文系の学部は思い切って縮小しよう」
と決定したのは、経営陣のお偉方がそもそも人文系の学問に何の価値もおいていないからである。

だが、ホントにそうなのだろうか。「社会生活に役立たない」学問は、ホントに無価値なのだろうか。社会通念と異なった価値観をいだかせる学問は、ホントに有害なのだろうか。
(つづく)

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人文学の意義をめぐって(その1)

2025-06-08 10:50:25 | 日記
「実学」なるものの意味について考えてみたい。
とはいえ私は、なにも小難しいことを考えようとしているわけではない。
Wikipedia で「実学」を調べると、アリストテレスや福沢諭吉といった名前が出てくるが、私が今「実学」という言葉で思い浮かべているのは、そういう大仰なものではなく、ごく普通の意味の学問、つまり「社会生活に実際に役立つ学問」のことである。

日本の大学では、理科系と文科系で扱う学問分野が異なるが、理系は人文・社会科学を含まないために概ね全て実学とされている。逆に文系の中でも法学や経済学などは実学とされる。

Wikipedia はこう解説するが、この釈義に従えば、「哲学」や「倫理学」や「文学」や「美学」、つまり、総じて「人文学」は「実学ではない」とされることになる。

では人文学は、どういう意味を持つのか。「社会生活に役立たない」学問だから、人文学は無意味だ、ナンセンスだ、ということになるのだろうか。それとも、社会生活に役立たなくても、人文学はそれなりの意義を持つのだろうか。

なぜ私はこんなことにこだわるようになったのか。それは先日、次のような記事を目にしたからである。

筑波大が人文系組織を統合・再編する計画を進めていることについて、阿部俊子文部科学相は6日の閣議後記者会見で『具体的に相談を受けていない。今後大学から相談があった場合、内容に応じて適切に対応する』と述べた。
(毎日新聞6月6日配信)

どういうことか。

筑波大の改組計画について、毎日新聞はこう伝えている。

筑波大が、三つある人文系の学類(学科)を2029年度に統合し、その上部組織である学群(学部)も改組する方針であることが、関係者への取材で判明した。中央教育審議会(文部科学相の諮問機関)は、少子化を理由に大学など高等教育機関の再編・統合が必要とする答申を2月にまとめており、国立大における先駆けになる可能性がある。
(同前)

どうやらこういうことであるらしい。
少子化の影響で、今や多くの私立大学が定員割れを起こしている。
たとえば「京都ノートルダム女子大学」では、国際言語文化学部の定員充足率が51.1%、現代人間学部の定員充足率は56.4%と、定員に充たなかった。そのためこの大学は学生募集停止に追い込まれたという。
「国際言語文化学部’」といい「現代人間学部」といい、人文学系の学部を今風に化粧直しした学部のようだが、それでも今どきの若者には人気がなく、定員割れ起こしてしまうのだ。

筑波大学の経営陣は、おそらくこうした風潮を知って危機感をいだき、「我が筑波大学も、人文系の学群(学部)はいずれ定員割れを起こす可能性がある。いや、それは必至だ」と考え、そうならないように、一刻も早く縮小の方向で改組・再編したほうが良い、と前のめりの判断をしたのだろう。

でも、人文系の学問はなぜ若者たちに人気がないのか。
(つづく)

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