どうも!ゆるちょです!
というわけで、今日の夕方夜向けの記事は、何を書きますかねー。
いやあ、京大の二次試験の内容が、ネット流出というか、ネットを利用して解答を得ていた、
という問題ですか、それについて、やはり書いておかないといけないでしょうねー。
まあ、どうやってやったか、とか、それでどうなったか、とか、僕は特に興味はありません。
それより、僕が言いたいのは、
「この日本で、そういう卑怯な手を使うと、必ず社会から、数倍のしっぺ返しをくらいますよ」
ということですかね。
まあ、京大の文系の数学でしょ、これ?
これくらいの問題が、解けなくて、京大でやっていけるはずないでしょう。
それに、まあ、大学受験で利用した知識ってのは、もう、大学入ったら、使えないからね。
それはすでに知識でなくて、常識レベルになるから。
大学に入ったら、アカデミックな知恵を獲得するための手段としての知識の獲得が、新たに必要だからね?
というか、大学に入ってからの勉強が、それこそ勉強と言えるものであって、知識の質が求められるからねー。
まあ、それも膨大なものだし、実際、人間は、知恵を獲得するために、ステップアップしていくわけ。
大学に入ったら、今度は大学生としてふさわしい思考能力を獲得することが、大学に行くことの使命だからねー。
だから、安易に、
「大学受験レベルの知識を獲得した、だから、カンニングしてでも、大学に入っちゃえばこっちのもの」
と社会的経験も知識のない脳で考えても、
「そりゃ、甘い!」
って人生的に、リジェクトされるのが、落ちなんだよねー。
高校生までの育成システムと、大学以降では、まったく責任の所在が違うからね。
大学以降では、本人のがんばりだけだから、そこに責任は存在する。
もちろん、ゼミとかに所属すれば、ゼミの先生達は、なにかと相談に乗ってくれるけど、最後に責任をとるのは、本人だから。
まあ、こんなことは社会人になれば、当たり前のことなんだけど、大学生くらいだと、そこらへん甘く考えていて、結局、人生を棒に振るひとを見てきたからねー。
まあ、この事件、質問を送ったキャリアーのアドレスは、ログ見りゃ、すぐ解析できるでしょ?
もう、すぐわかっちゃうんじゃないの?
「僕は他のひととは、違って、人生楽に生きたいんだ」
と、誰だって思っていると思います。
でも、人生を生きてくると、人生ってのは、結局、自分がやったことが、自分に利するだけだってことが、わかってきます。
「情けはひとのためならず」
でも、ないですけど、社会に対して、自分が何をやったかが、問われます。
それによって、自分の社会的価値が決まっていく。
つまり、やらないで、パスなんて、できないんですよ。
「自分は特別な方法を知っているから、他人を出しぬいてうまく生きられるんだ」
なんて、思惑で、瞬間的には、他人を出し抜いたように見えても、
「天網恢恢疎にして漏らさず」
であって、長い目で見て、自分より物の見える人間にしっかりと悪行を見抜かれて、結局、その悪行の責任はとらなきゃならなくなる、というのが、人生の哲理です。
具体的な話をしましょう。
僕がマスター2年生の時の話です。僕は、東京の小金井市にある、国立の中堅理系大学の情報工学科の出身です。って、隠す必要あんのか?
まあ、いいや。僕はコンピューターとロボットが研究テーマでしたけど、まあ、できない君でしたね。壮絶に。
それでも、マスター行ったんですけどね。自分なりに答えは出しておきたかったんでねー。
まあ、それで、僕が晴れて卒業する時に、大学にいやな噂が流れました。
「誰かの卒論をコピーをして、自分の卒論を作った奴がいるらしい!(細かい表現は変えてるらしいけど!)」
まあ、卒論ってのは、その大学を卒業するパスポートですからね。
集大成と言っていい。研究室に一年間所属し、その一年の研究結果を学生が教官達と一緒につくり上げる尊い文書なんですよね。
それを他人のコピーで済ませた奴がいるってことは、大学にとって、大問題になるわけです。
大学の教育システムを、根底から否定したことになるからです。
まあ、うちの大学の教官先生方は、超激怒してましたねー。
うちの先生は、大学に残って研究生活を送りながら教授になったひとは、少なくて、IBMや日立やら、そういう一流企業や国の研究施設から
教授になったひとが多かったですから、肌で社会を知っている、仕事のものすごくできる人たちなわけです。もう、海千山千の強者達ですから、
そういう不正な匂いに敏感だったわけですよ。というより、社会にちょっと出てれば、二つの文書がコピーされたものかどうかなんて、
すぐわかるでしょう。
まあ、そういう疑いのかけられた人間を、仮名牛河くんとでも、しましょうか。この名前、村上春樹さんが「1Q84」内で作り上げたネガティブ要素キャラですからね。
さて、うちの教授たちは、自ら、この牛河くんが4年間に提出したレポート、テストなどの資料を全部集め、さらに同学年の人間たちの資料と照らし合わせ、
彼がこの4年間、レポートについては、友人のコピーをずっとしてきたこと、テストについても、カンニングとおぼしき証拠を掴み出したそうです。
つまり、牛河くんは、4年間、大学の教育システムを利用せず、というより、まったく勉強せず、卒論に到るまで他人のコピーで、済まそうとしていたのです。
まあ、これ、大学の否定ですからね。そりゃ教官達は、大激怒ですよ。当たり前ですよ。これは。
というわけで、この牛河くん、大学の卒業式前日に退学になっていました。
まあ、確か、浪人して入学したという話ですから、5年間、その間、仕送りしてきた両親のがんばりも無に帰したわけです。
当人は、4月から、一流企業への入社が決まっていましたが、これも、すべてパー。
失ったものは、甚だ大きいと思いますね。
なにより、人からの信頼を失ったことが、大きいと思います。
ここから、復帰するのは、これまで送ってきた生活に対するエネルギーの何倍もの力が必要でしょうから、まあ、普通に真面目に生きていた方が、
全然楽だった、ということになるんですね。
まあ、僕だって、レポートを提出するのに、友人の力を借りたことは、たくさんあります。
いや、それをしなければ、突破できないくらい、うちの大学は厳しかったです。
週5本のレポート提出なんて、ざらでしたからね。
まあ、それだけ鍛えられましたけどね。
まあ、そういう日があったから、今の僕があるのだと思いますけど、シビアにしごかれましたよ。
だから、レポート書くのも大変でね。わかんなくて、友人に聞いたり、説明受けたりしましたよ。
でも、自分の言葉で、一生懸命、レポートを書きました。
それに、先生達もわかりますよ。
「こいつの実力で、この文章は・・・ああ、まあ、あいつに教えてもらったんだろ・・・でも、まあ、彼なりにがんばっているからな」
それくらいわかっているのが、先生ってもんですよ。社会の一線でバリバリ働いてきた人間は、それくらい軽く見通せるもんです。
やっぱり、そういう先生方は、その生徒の人間性を見るでしょう。
「まあ、これくらいは、多めに見よう」
という感情だってあるんですよ。考えてみれば、自分がたどってきた道を今歩いて行こうとしている人間達を指導しているわけですから、
自分の若い頃を考えて、
「ああ、こいつも、こういう状況なのか・・・俺にもあったなあ、こういう時期は」
って、見てくれますよ。
それが、人間ってもんじゃないですか?
そういう温情にすがりながら、一生懸命、自分を研鑽していく。
目的に向かって歩いて行く。それが、若者の特権ですよ。
しかし、牛河くんは、そうじゃなかった。
言わば、先輩たちを馬鹿にした。
だから、強烈なしっぺ返しをくらったんです。
だから、教授達が、大人気なく、あれほど、怒ったんでしょうねー。
なにしろ、卒業生(マスターと四年生)への送別会があったんですけど、普通になごやかに、楽しくなる会だったんですけど、
先生方激怒していて、スピーチもその話でしたからねー。僕らに、おめでとうの一言くらい、言って欲しかったってのがあったんですけどね(笑)。
だから、よく覚えているわけです。
牛河くんは、自分のために、一生懸命仕送りをしてくれた、両親になんて言って謝るんでしょうねー。
亡くした信頼が、一番大きな価値だったと思いますよねー。
結局、途中でやめるわけには、いかなくなったんでしょう。カンニングやコピー。
それをやらなければ、自分の本当の実力がわかってしまう。
だから、最初にコピーに手を出した時点で、終わっていたのかもしれません。
いや、途中からなら、勉強すれば、よかったんですよ。そうすれば、実力はついたはずだ。
そうすれば、教授達も、見逃してくれたに違いない。
できないなりに、がんばった・・・そういう評価になったでしょう。
僕なんかは、そっちでしたよ。
よく怒られました。先輩とかにも、よく言われましたよ。
でも、それは、叱咤激励であって、怒っているわけじゃない。
そういうのは、ね、社会に出ればわかるもんです。
怒ってくれるひとほど、ありがたいもんです。
自分が間違った道にいかないように、リスクを負いながらわざわざ助言してくれるひとたちだからですよ。
人生、本気で、怒ってくれるひとを、いつまでも大切にしなければ、いけませんねー。
社会は甘くありません。自分より実力があるひとが、自分のことを見ています。
天網恢恢疎にして漏らさずとは、そういうことだと思います。
だから、人生を甘く見ると、結局、人生を無にしてしまいかねない。
牛河くんのその後は、誰も知りません。
大学に行っていたことは、無かったことになってしまったわけですからね。
全ての努力が無駄になってしまった。それは、人生にとって、大きなハンデでしょうね。
普通にがんばっていれば、そうはならなかったはずなんです。
目先のちょっとした楽をするために、大きなモノを失ってしまったんですねー。
だから、僕は、目先の楽なんぞ考えず、大きな目標に向かって歩いています。
過去、周りでいろいろなことがありました。そして、いろいろなモノを見てきました。
僕はその経験をすべて、自分の人生に生かして生きています。
これに類することはたくさん見てきましたし、逆に、自分も見習いたいと思った人間にもたくさん会ってきました。
そういう経験を踏まえて、僕は、自分の人生を生きているんです。
目先の楽より、人生の大きな目標のために、生きる。
それが大事なことだと、思いますね。
結局、そっちの方が、大きな喜びを感じられると思いますよ。
人生真摯に生きなきゃ!
それが、僕の結論ですね。
それが、一番、価値のある生き方だと、僕は思います!
ではではー。
というわけで、今日の夕方夜向けの記事は、何を書きますかねー。
いやあ、京大の二次試験の内容が、ネット流出というか、ネットを利用して解答を得ていた、
という問題ですか、それについて、やはり書いておかないといけないでしょうねー。
まあ、どうやってやったか、とか、それでどうなったか、とか、僕は特に興味はありません。
それより、僕が言いたいのは、
「この日本で、そういう卑怯な手を使うと、必ず社会から、数倍のしっぺ返しをくらいますよ」
ということですかね。
まあ、京大の文系の数学でしょ、これ?
これくらいの問題が、解けなくて、京大でやっていけるはずないでしょう。
それに、まあ、大学受験で利用した知識ってのは、もう、大学入ったら、使えないからね。
それはすでに知識でなくて、常識レベルになるから。
大学に入ったら、アカデミックな知恵を獲得するための手段としての知識の獲得が、新たに必要だからね?
というか、大学に入ってからの勉強が、それこそ勉強と言えるものであって、知識の質が求められるからねー。
まあ、それも膨大なものだし、実際、人間は、知恵を獲得するために、ステップアップしていくわけ。
大学に入ったら、今度は大学生としてふさわしい思考能力を獲得することが、大学に行くことの使命だからねー。
だから、安易に、
「大学受験レベルの知識を獲得した、だから、カンニングしてでも、大学に入っちゃえばこっちのもの」
と社会的経験も知識のない脳で考えても、
「そりゃ、甘い!」
って人生的に、リジェクトされるのが、落ちなんだよねー。
高校生までの育成システムと、大学以降では、まったく責任の所在が違うからね。
大学以降では、本人のがんばりだけだから、そこに責任は存在する。
もちろん、ゼミとかに所属すれば、ゼミの先生達は、なにかと相談に乗ってくれるけど、最後に責任をとるのは、本人だから。
まあ、こんなことは社会人になれば、当たり前のことなんだけど、大学生くらいだと、そこらへん甘く考えていて、結局、人生を棒に振るひとを見てきたからねー。
まあ、この事件、質問を送ったキャリアーのアドレスは、ログ見りゃ、すぐ解析できるでしょ?
もう、すぐわかっちゃうんじゃないの?
「僕は他のひととは、違って、人生楽に生きたいんだ」
と、誰だって思っていると思います。
でも、人生を生きてくると、人生ってのは、結局、自分がやったことが、自分に利するだけだってことが、わかってきます。
「情けはひとのためならず」
でも、ないですけど、社会に対して、自分が何をやったかが、問われます。
それによって、自分の社会的価値が決まっていく。
つまり、やらないで、パスなんて、できないんですよ。
「自分は特別な方法を知っているから、他人を出しぬいてうまく生きられるんだ」
なんて、思惑で、瞬間的には、他人を出し抜いたように見えても、
「天網恢恢疎にして漏らさず」
であって、長い目で見て、自分より物の見える人間にしっかりと悪行を見抜かれて、結局、その悪行の責任はとらなきゃならなくなる、というのが、人生の哲理です。
具体的な話をしましょう。
僕がマスター2年生の時の話です。僕は、東京の小金井市にある、国立の中堅理系大学の情報工学科の出身です。って、隠す必要あんのか?
まあ、いいや。僕はコンピューターとロボットが研究テーマでしたけど、まあ、できない君でしたね。壮絶に。
それでも、マスター行ったんですけどね。自分なりに答えは出しておきたかったんでねー。
まあ、それで、僕が晴れて卒業する時に、大学にいやな噂が流れました。
「誰かの卒論をコピーをして、自分の卒論を作った奴がいるらしい!(細かい表現は変えてるらしいけど!)」
まあ、卒論ってのは、その大学を卒業するパスポートですからね。
集大成と言っていい。研究室に一年間所属し、その一年の研究結果を学生が教官達と一緒につくり上げる尊い文書なんですよね。
それを他人のコピーで済ませた奴がいるってことは、大学にとって、大問題になるわけです。
大学の教育システムを、根底から否定したことになるからです。
まあ、うちの大学の教官先生方は、超激怒してましたねー。
うちの先生は、大学に残って研究生活を送りながら教授になったひとは、少なくて、IBMや日立やら、そういう一流企業や国の研究施設から
教授になったひとが多かったですから、肌で社会を知っている、仕事のものすごくできる人たちなわけです。もう、海千山千の強者達ですから、
そういう不正な匂いに敏感だったわけですよ。というより、社会にちょっと出てれば、二つの文書がコピーされたものかどうかなんて、
すぐわかるでしょう。
まあ、そういう疑いのかけられた人間を、仮名牛河くんとでも、しましょうか。この名前、村上春樹さんが「1Q84」内で作り上げたネガティブ要素キャラですからね。
さて、うちの教授たちは、自ら、この牛河くんが4年間に提出したレポート、テストなどの資料を全部集め、さらに同学年の人間たちの資料と照らし合わせ、
彼がこの4年間、レポートについては、友人のコピーをずっとしてきたこと、テストについても、カンニングとおぼしき証拠を掴み出したそうです。
つまり、牛河くんは、4年間、大学の教育システムを利用せず、というより、まったく勉強せず、卒論に到るまで他人のコピーで、済まそうとしていたのです。
まあ、これ、大学の否定ですからね。そりゃ教官達は、大激怒ですよ。当たり前ですよ。これは。
というわけで、この牛河くん、大学の卒業式前日に退学になっていました。
まあ、確か、浪人して入学したという話ですから、5年間、その間、仕送りしてきた両親のがんばりも無に帰したわけです。
当人は、4月から、一流企業への入社が決まっていましたが、これも、すべてパー。
失ったものは、甚だ大きいと思いますね。
なにより、人からの信頼を失ったことが、大きいと思います。
ここから、復帰するのは、これまで送ってきた生活に対するエネルギーの何倍もの力が必要でしょうから、まあ、普通に真面目に生きていた方が、
全然楽だった、ということになるんですね。
まあ、僕だって、レポートを提出するのに、友人の力を借りたことは、たくさんあります。
いや、それをしなければ、突破できないくらい、うちの大学は厳しかったです。
週5本のレポート提出なんて、ざらでしたからね。
まあ、それだけ鍛えられましたけどね。
まあ、そういう日があったから、今の僕があるのだと思いますけど、シビアにしごかれましたよ。
だから、レポート書くのも大変でね。わかんなくて、友人に聞いたり、説明受けたりしましたよ。
でも、自分の言葉で、一生懸命、レポートを書きました。
それに、先生達もわかりますよ。
「こいつの実力で、この文章は・・・ああ、まあ、あいつに教えてもらったんだろ・・・でも、まあ、彼なりにがんばっているからな」
それくらいわかっているのが、先生ってもんですよ。社会の一線でバリバリ働いてきた人間は、それくらい軽く見通せるもんです。
やっぱり、そういう先生方は、その生徒の人間性を見るでしょう。
「まあ、これくらいは、多めに見よう」
という感情だってあるんですよ。考えてみれば、自分がたどってきた道を今歩いて行こうとしている人間達を指導しているわけですから、
自分の若い頃を考えて、
「ああ、こいつも、こういう状況なのか・・・俺にもあったなあ、こういう時期は」
って、見てくれますよ。
それが、人間ってもんじゃないですか?
そういう温情にすがりながら、一生懸命、自分を研鑽していく。
目的に向かって歩いて行く。それが、若者の特権ですよ。
しかし、牛河くんは、そうじゃなかった。
言わば、先輩たちを馬鹿にした。
だから、強烈なしっぺ返しをくらったんです。
だから、教授達が、大人気なく、あれほど、怒ったんでしょうねー。
なにしろ、卒業生(マスターと四年生)への送別会があったんですけど、普通になごやかに、楽しくなる会だったんですけど、
先生方激怒していて、スピーチもその話でしたからねー。僕らに、おめでとうの一言くらい、言って欲しかったってのがあったんですけどね(笑)。
だから、よく覚えているわけです。
牛河くんは、自分のために、一生懸命仕送りをしてくれた、両親になんて言って謝るんでしょうねー。
亡くした信頼が、一番大きな価値だったと思いますよねー。
結局、途中でやめるわけには、いかなくなったんでしょう。カンニングやコピー。
それをやらなければ、自分の本当の実力がわかってしまう。
だから、最初にコピーに手を出した時点で、終わっていたのかもしれません。
いや、途中からなら、勉強すれば、よかったんですよ。そうすれば、実力はついたはずだ。
そうすれば、教授達も、見逃してくれたに違いない。
できないなりに、がんばった・・・そういう評価になったでしょう。
僕なんかは、そっちでしたよ。
よく怒られました。先輩とかにも、よく言われましたよ。
でも、それは、叱咤激励であって、怒っているわけじゃない。
そういうのは、ね、社会に出ればわかるもんです。
怒ってくれるひとほど、ありがたいもんです。
自分が間違った道にいかないように、リスクを負いながらわざわざ助言してくれるひとたちだからですよ。
人生、本気で、怒ってくれるひとを、いつまでも大切にしなければ、いけませんねー。
社会は甘くありません。自分より実力があるひとが、自分のことを見ています。
天網恢恢疎にして漏らさずとは、そういうことだと思います。
だから、人生を甘く見ると、結局、人生を無にしてしまいかねない。
牛河くんのその後は、誰も知りません。
大学に行っていたことは、無かったことになってしまったわけですからね。
全ての努力が無駄になってしまった。それは、人生にとって、大きなハンデでしょうね。
普通にがんばっていれば、そうはならなかったはずなんです。
目先のちょっとした楽をするために、大きなモノを失ってしまったんですねー。
だから、僕は、目先の楽なんぞ考えず、大きな目標に向かって歩いています。
過去、周りでいろいろなことがありました。そして、いろいろなモノを見てきました。
僕はその経験をすべて、自分の人生に生かして生きています。
これに類することはたくさん見てきましたし、逆に、自分も見習いたいと思った人間にもたくさん会ってきました。
そういう経験を踏まえて、僕は、自分の人生を生きているんです。
目先の楽より、人生の大きな目標のために、生きる。
それが大事なことだと、思いますね。
結局、そっちの方が、大きな喜びを感じられると思いますよ。
人生真摯に生きなきゃ!
それが、僕の結論ですね。
それが、一番、価値のある生き方だと、僕は思います!
ではではー。