おはようございます!藤井です。
今、お布団の中で急に「そうかー!!!」と気付きが降りて来たので、慌てて書くことにします。
ここ何年か、自分が何で苦しんでるか、その根っこはどこか、それに急に合点がいきました。
「他人との共有が出来てないんです」
これに尽きる。
で、その根っこは、、、
私は長女で第一子なんですけど、自分には記憶がないけど、初孫でもあって、まー随分可愛がられたそうです。その上、お産もツルリンと出て来て、言うことも聞くし、健康だし、とても育てやすい子だったらしいのです。
ところが、下に弟が生まれました。
その辺も覚えてないけど、そこで親の愛が一気に弟に注がれ、弟はその上さらに可愛らしく心も優しく、そして腸重積という病気になったことがあって、死ぬか生きるか?ってことで、親としては「生きてさえいてくれれば」ってね。
だから「期待」とかより愛だね。
そこで、私は自分に今まで注がれてたモノが来なくなり、それが何故だか分からず、、、そこから聞き分けのない子になっていきます。
そんな聞き分けのない子は「あんたは悪い子だ!!」ってレッテルを貼られていきます。
でも初孫を愛でるばあちゃんの可愛がりは変わらない。とはいえ、これは親の愛とは違ってたんでしょうね。
母とは大人になってから、お互いにその頃どんな心情だったかを話すことが出来たので、今ではとても仲良しです。
で、
「悪い子」のレッテルは自分にくっ付いてますけど、でも小さい頃の私は体力も根性も、そして案外アタマも良かったのか?幼稚園の頃からおそらくその思考回路はほぼ今と一緒で(って、今が幼稚園児レベルってことか笑)、スーパーではないけど、そこそこなんでも出来ましたな。
そうすると、「できる」という部分は認められ始めました。
だからきっと、そこに自分の生きる道を見出したのだな。
「できれば認めてもらえる」
だから、とにかく人より出来ること。
今思い返せば、ちったー小器用で運動もまあそこそこ出来て、音楽も勉強も美術もそこそこ出来たけど、「スーパー」じゃない。
その世代にしてはちょっとなんでも出来る、ってレベルであって、全体的にはかなりのポンコツ野郎。
宿題で「お家で教科書を音読してくる」なんてやつ、絶対やりませんでした。そんなの親に聞かれたくないしね。「まあ〜、いいじゃない!」とか「よく出来たわね!」なんて言われる気が微塵もしませんでした。
これ以上のポンコツっぷりを親に見られて存在否定されたら死ぬねって感じかなぁ。
これはあくまで自分の中でそう思ってたってだけで、親は本当はそんな風に思ったりしてなかったと今は思います。音読したら褒めてくれただろうし。
でも自分の中では、そういう認識だったんです。
この「自分はそう思ってた」ってところ、これ、きっと重要です。
今の子どもたちも、「そう思い込んで」なにかに突き動かされたり、何も出来なくなったり、絶対あると思います。実際の親や周りの大人の思いは違ってたとしても、「自分がそう思ってた」ら、その子にとってはそれが「事実」になっちゃう。
その後、父の転勤で佐渡へ行きました。
ここでも、ちょっぴり都会から来た私はちょっぴりいろいろ出来たけど、やっぱり恐ろしくポンコツなところもあって、その「ポンコツ」なところを出来るようにする楽しみよりも、ポンコツであってはならないということに恐怖や怒りを感じてた気がします。
でも、ここでの体験がなかったら、きっとさらにねじ曲がったことになってたかもしれない。それとも一周回ってねじ曲がりすぎて、めっちゃ出来た人間になれただろうか(〃ω〃)
中学で佐渡から元いた新潟に戻って来ました。
今度は学校が恐ろしく荒れてました。授業にならないくらい。消火器とかブワーっと撒かれたり、窓ガラスは月だったか100枚破れる的な?!
そんな中ではむしろ「まわりと共有しない」ことで、イジメやなんかがあっても全く傷付くことなく、至極客観的な認識で周りを見て、相手が権力であっても、自分の論理を突き通す、ということが出来ちゃうようになりました。
んー、その辺で人格形成終了した気がする。
学校が荒れすぎてて、大切なことを私は見つけませんでした。生きる力が身に付いたわけでもない。そうじゃなくて、周りの心理は分析できるけど、「気持ちの機微」みたいなのを感じることなく、それで平静を保ってたんだろうか?!
何とか「出来る」っていう鎧をまとって、それだけで自分を守って生きてくクセが付いたんだな。
その後は偶然、常に何かが「出来ちゃって」、そのお陰で自分の「生きてる価値」を感じて、生きていることができました。
それがここに来て、ポンコツだらけの自分に直面してるわけだ。
そこに立ち向かう勇気と気力が、頭は「頑張れ頑張れ!!」と言ってるけど、魂が「ポンコツ生きる価値なし」と言ってて、その本当の力が出ない。
めっちゃ頑張ってるんだけど、めっちゃ闘ってるんだけど、「自分の目指す何か」に向かってるというよりは、「生きる価値なし」の声から逃れたいだけ。
でも、人間の生きる価値ってのは、「優れている」から価値があるわけじゃない。
生きてるだけで価値がある。周りの役に立ったり、共感することができたり、力を合わせることや心を合わせること、まあ一緒に笑うだけでもいい、、、、
いろんな苦しい気持ちの中で、あれこれ探していくと、生きるってのはそんなことなんだな、、、ってことが、少しずつ「アタマ」では分かってきた。
常に「出来なくてはいけない」という強迫観念に苛まれて、それでも出来ないことがあると「恐怖」と「劣等感」に恐ろしく心身共に傷付く。カラダにも力が入る。
自分の「ガラスの価値観」にしがみついて、自分がポンコツになりそうなシチュエーションに恐怖を感じ、恐怖を感じるからそれが怒りになったり。
でも、その状況から逃げてはいけない、とはずっと思って来た。何とかギリギリしがみついてきた。
昨日、みんなで美味しい焼肉を食べて、みんなで悶絶し、ゲームをして悔しがったりする中で、「楽しいな」って少し心が開いてきた。
なにせ、今はゲームだって、別に勝っても負けても、嬉しさとか悔しさとかがあんまり来てない。んー、そのくらい心のセンサーを切ってるんだよね、多分。何でも感じてたら、きっと死んじゃうって思ってんだよね。
だから、ときどき「あ!!これが『楽しい』だ!」とか、「あ!!これが『一緒に盛り上がる』だ!!」って、小さな発見が分単位で現れ始め、それがとても嬉しい。
はてさて、、、、
たんまりと自分のことを書いて来たけど、まずどうしてこんな気付きがあったのかっていうと、
またまたNHKの「奇跡のレッスン」なんだけど、イタリア人の芸術を教えてくれた先生が、「子どもには考える時間を与えないと根のない人間になる」という言葉と、ちょっと言葉は忘れたんだけど、「子どものうちに一緒に何かをする、共有する経験を積んでおかないと、協調性のない人間になってしまう」って。
「うまい」とか「上手」とかって声かけは良くないってのは、心理学なんかを勉強してて、知ってはいたし、自分も出来るだけ気を付けてる。
「上手いこと」「できること」に注目してしまうと、そこが価値になってしまう。
「努力」や「過程」を褒める。そしたら、またチャレンジしよう!と思える。
こういうことは、知識だった。
でも、このイタリア人先生の言葉で、私の頭の中をグルグル回り出した。
協調性。。。
そして、グルグルが今朝、私の頭の中で自分の過去とガシッと繋がった。
そうか。。。
この「奇跡のレッスン」見てると、外国人のいろんなスーパーコーチの言葉の中にいろんな忘れてたけど、本当に人間にとって大切じゃないか!!と思える言葉がキラリと現れる。
「楽しいことなら頑張れる」
「頑張った記憶は、将来にきっと役に立つ」
「観察して、自分の頭で考える」
「考える時間を持つ」
「将来、どんな人間になってほしいか」
「もっと楽しもう。結果じゃない」
どうも今の日本では、
「成果」
「技術」
「効率」
なんかが凄く求められてる気がする。自分でレッスンしてても、教えに行く先々でも、すぐに成果が出ることが求められてる気がするし、実際コンクールなんかはそういう方向な気がするわけ。
勉強も、「勉強してること」を楽しんでるよりは、「成績」重視。
だからじっくり考えたり、内容に疑問持ったり、調べたり確かめたりする時間とか余裕とか与えないし、価値も感じられてない。
「出来ること」こそ、価値がある。
そんな風潮。
どうしても、この風潮が人を不幸にする気がして、未来のある子どもたちにはそういうことじゃ無い、もっと本当の人間の生きる価値や幸せを感じてほしい、、、
それをいつも思って来た。
でも、自分にそういう経験が乏しいから、そこへビュンと背中を押してあげることが出来ないことに、私自身が自己嫌悪に陥ったり、無力感に苛まれることも本当に多い。
んで、どうしてこんなにも「出来る」ことに価値を見出す世の中や、親や、子どもたち本人に抵抗を感じるのか、と言ったら、自分の過去から現在に端を発してるのか!!と。
子どもの頃は良くても、絶対にそんな価値観では辛くなるよ、って声を大にして言ってあげたいのだ。
共有や共感こそ、生きてる幸せを感じさせてくれるぞー!!
特にある程度年取ってから笑
でも、今やニートとかそういう心情じゃないか?と思うから、若くてももう出てるかな。。。
そういう側面がめっちゃ目に入って来ちゃうんだね、経験上。
そういうことが、ついに脳内では繋がって来た。
これは凄く価値がある。もしかしたら、この気付きのための今日までだったかも知れん。
自分のことは、これから何とか向かっていこうと思う。
どうか世の中のお父さんお母さん、あなた達の大事な子どもさんたちに「本当に大切なこと」を学ばせてやって。
人より「出来る」ことなんかを価値にして教えたらダメだよ。
私はもういわゆるお父さんお母さん世代よりは上だと思うから、その世代がもうこういう気分で生きてるんだとしたら、もう第3世代くらいがそういうループに入ってくるかもしれないんだから、本気で立ち返って教育ってのしていかないと、ヤバイ時代が来るな、、、
どうか、みんなで頑張ろう!!!
そんな気持ちで朝から書いてみました。
それでは、よい一日を!!!(^^)
今、お布団の中で急に「そうかー!!!」と気付きが降りて来たので、慌てて書くことにします。
ここ何年か、自分が何で苦しんでるか、その根っこはどこか、それに急に合点がいきました。
「他人との共有が出来てないんです」
これに尽きる。
で、その根っこは、、、
私は長女で第一子なんですけど、自分には記憶がないけど、初孫でもあって、まー随分可愛がられたそうです。その上、お産もツルリンと出て来て、言うことも聞くし、健康だし、とても育てやすい子だったらしいのです。
ところが、下に弟が生まれました。
その辺も覚えてないけど、そこで親の愛が一気に弟に注がれ、弟はその上さらに可愛らしく心も優しく、そして腸重積という病気になったことがあって、死ぬか生きるか?ってことで、親としては「生きてさえいてくれれば」ってね。
だから「期待」とかより愛だね。
そこで、私は自分に今まで注がれてたモノが来なくなり、それが何故だか分からず、、、そこから聞き分けのない子になっていきます。
そんな聞き分けのない子は「あんたは悪い子だ!!」ってレッテルを貼られていきます。
でも初孫を愛でるばあちゃんの可愛がりは変わらない。とはいえ、これは親の愛とは違ってたんでしょうね。
母とは大人になってから、お互いにその頃どんな心情だったかを話すことが出来たので、今ではとても仲良しです。
で、
「悪い子」のレッテルは自分にくっ付いてますけど、でも小さい頃の私は体力も根性も、そして案外アタマも良かったのか?幼稚園の頃からおそらくその思考回路はほぼ今と一緒で(って、今が幼稚園児レベルってことか笑)、スーパーではないけど、そこそこなんでも出来ましたな。
そうすると、「できる」という部分は認められ始めました。
だからきっと、そこに自分の生きる道を見出したのだな。
「できれば認めてもらえる」
だから、とにかく人より出来ること。
今思い返せば、ちったー小器用で運動もまあそこそこ出来て、音楽も勉強も美術もそこそこ出来たけど、「スーパー」じゃない。
その世代にしてはちょっとなんでも出来る、ってレベルであって、全体的にはかなりのポンコツ野郎。
宿題で「お家で教科書を音読してくる」なんてやつ、絶対やりませんでした。そんなの親に聞かれたくないしね。「まあ〜、いいじゃない!」とか「よく出来たわね!」なんて言われる気が微塵もしませんでした。
これ以上のポンコツっぷりを親に見られて存在否定されたら死ぬねって感じかなぁ。
これはあくまで自分の中でそう思ってたってだけで、親は本当はそんな風に思ったりしてなかったと今は思います。音読したら褒めてくれただろうし。
でも自分の中では、そういう認識だったんです。
この「自分はそう思ってた」ってところ、これ、きっと重要です。
今の子どもたちも、「そう思い込んで」なにかに突き動かされたり、何も出来なくなったり、絶対あると思います。実際の親や周りの大人の思いは違ってたとしても、「自分がそう思ってた」ら、その子にとってはそれが「事実」になっちゃう。
その後、父の転勤で佐渡へ行きました。
ここでも、ちょっぴり都会から来た私はちょっぴりいろいろ出来たけど、やっぱり恐ろしくポンコツなところもあって、その「ポンコツ」なところを出来るようにする楽しみよりも、ポンコツであってはならないということに恐怖や怒りを感じてた気がします。
でも、ここでの体験がなかったら、きっとさらにねじ曲がったことになってたかもしれない。それとも一周回ってねじ曲がりすぎて、めっちゃ出来た人間になれただろうか(〃ω〃)
中学で佐渡から元いた新潟に戻って来ました。
今度は学校が恐ろしく荒れてました。授業にならないくらい。消火器とかブワーっと撒かれたり、窓ガラスは月だったか100枚破れる的な?!
そんな中ではむしろ「まわりと共有しない」ことで、イジメやなんかがあっても全く傷付くことなく、至極客観的な認識で周りを見て、相手が権力であっても、自分の論理を突き通す、ということが出来ちゃうようになりました。
んー、その辺で人格形成終了した気がする。
学校が荒れすぎてて、大切なことを私は見つけませんでした。生きる力が身に付いたわけでもない。そうじゃなくて、周りの心理は分析できるけど、「気持ちの機微」みたいなのを感じることなく、それで平静を保ってたんだろうか?!
何とか「出来る」っていう鎧をまとって、それだけで自分を守って生きてくクセが付いたんだな。
その後は偶然、常に何かが「出来ちゃって」、そのお陰で自分の「生きてる価値」を感じて、生きていることができました。
それがここに来て、ポンコツだらけの自分に直面してるわけだ。
そこに立ち向かう勇気と気力が、頭は「頑張れ頑張れ!!」と言ってるけど、魂が「ポンコツ生きる価値なし」と言ってて、その本当の力が出ない。
めっちゃ頑張ってるんだけど、めっちゃ闘ってるんだけど、「自分の目指す何か」に向かってるというよりは、「生きる価値なし」の声から逃れたいだけ。
でも、人間の生きる価値ってのは、「優れている」から価値があるわけじゃない。
生きてるだけで価値がある。周りの役に立ったり、共感することができたり、力を合わせることや心を合わせること、まあ一緒に笑うだけでもいい、、、、
いろんな苦しい気持ちの中で、あれこれ探していくと、生きるってのはそんなことなんだな、、、ってことが、少しずつ「アタマ」では分かってきた。
常に「出来なくてはいけない」という強迫観念に苛まれて、それでも出来ないことがあると「恐怖」と「劣等感」に恐ろしく心身共に傷付く。カラダにも力が入る。
自分の「ガラスの価値観」にしがみついて、自分がポンコツになりそうなシチュエーションに恐怖を感じ、恐怖を感じるからそれが怒りになったり。
でも、その状況から逃げてはいけない、とはずっと思って来た。何とかギリギリしがみついてきた。
昨日、みんなで美味しい焼肉を食べて、みんなで悶絶し、ゲームをして悔しがったりする中で、「楽しいな」って少し心が開いてきた。
なにせ、今はゲームだって、別に勝っても負けても、嬉しさとか悔しさとかがあんまり来てない。んー、そのくらい心のセンサーを切ってるんだよね、多分。何でも感じてたら、きっと死んじゃうって思ってんだよね。
だから、ときどき「あ!!これが『楽しい』だ!」とか、「あ!!これが『一緒に盛り上がる』だ!!」って、小さな発見が分単位で現れ始め、それがとても嬉しい。
はてさて、、、、
たんまりと自分のことを書いて来たけど、まずどうしてこんな気付きがあったのかっていうと、
またまたNHKの「奇跡のレッスン」なんだけど、イタリア人の芸術を教えてくれた先生が、「子どもには考える時間を与えないと根のない人間になる」という言葉と、ちょっと言葉は忘れたんだけど、「子どものうちに一緒に何かをする、共有する経験を積んでおかないと、協調性のない人間になってしまう」って。
「うまい」とか「上手」とかって声かけは良くないってのは、心理学なんかを勉強してて、知ってはいたし、自分も出来るだけ気を付けてる。
「上手いこと」「できること」に注目してしまうと、そこが価値になってしまう。
「努力」や「過程」を褒める。そしたら、またチャレンジしよう!と思える。
こういうことは、知識だった。
でも、このイタリア人先生の言葉で、私の頭の中をグルグル回り出した。
協調性。。。
そして、グルグルが今朝、私の頭の中で自分の過去とガシッと繋がった。
そうか。。。
この「奇跡のレッスン」見てると、外国人のいろんなスーパーコーチの言葉の中にいろんな忘れてたけど、本当に人間にとって大切じゃないか!!と思える言葉がキラリと現れる。
「楽しいことなら頑張れる」
「頑張った記憶は、将来にきっと役に立つ」
「観察して、自分の頭で考える」
「考える時間を持つ」
「将来、どんな人間になってほしいか」
「もっと楽しもう。結果じゃない」
どうも今の日本では、
「成果」
「技術」
「効率」
なんかが凄く求められてる気がする。自分でレッスンしてても、教えに行く先々でも、すぐに成果が出ることが求められてる気がするし、実際コンクールなんかはそういう方向な気がするわけ。
勉強も、「勉強してること」を楽しんでるよりは、「成績」重視。
だからじっくり考えたり、内容に疑問持ったり、調べたり確かめたりする時間とか余裕とか与えないし、価値も感じられてない。
「出来ること」こそ、価値がある。
そんな風潮。
どうしても、この風潮が人を不幸にする気がして、未来のある子どもたちにはそういうことじゃ無い、もっと本当の人間の生きる価値や幸せを感じてほしい、、、
それをいつも思って来た。
でも、自分にそういう経験が乏しいから、そこへビュンと背中を押してあげることが出来ないことに、私自身が自己嫌悪に陥ったり、無力感に苛まれることも本当に多い。
んで、どうしてこんなにも「出来る」ことに価値を見出す世の中や、親や、子どもたち本人に抵抗を感じるのか、と言ったら、自分の過去から現在に端を発してるのか!!と。
子どもの頃は良くても、絶対にそんな価値観では辛くなるよ、って声を大にして言ってあげたいのだ。
共有や共感こそ、生きてる幸せを感じさせてくれるぞー!!
特にある程度年取ってから笑
でも、今やニートとかそういう心情じゃないか?と思うから、若くてももう出てるかな。。。
そういう側面がめっちゃ目に入って来ちゃうんだね、経験上。
そういうことが、ついに脳内では繋がって来た。
これは凄く価値がある。もしかしたら、この気付きのための今日までだったかも知れん。
自分のことは、これから何とか向かっていこうと思う。
どうか世の中のお父さんお母さん、あなた達の大事な子どもさんたちに「本当に大切なこと」を学ばせてやって。
人より「出来る」ことなんかを価値にして教えたらダメだよ。
私はもういわゆるお父さんお母さん世代よりは上だと思うから、その世代がもうこういう気分で生きてるんだとしたら、もう第3世代くらいがそういうループに入ってくるかもしれないんだから、本気で立ち返って教育ってのしていかないと、ヤバイ時代が来るな、、、
どうか、みんなで頑張ろう!!!
そんな気持ちで朝から書いてみました。
それでは、よい一日を!!!(^^)