ボランティアの翌日、事務補助のバイトから一日は始まった。
事務室に、キーボードを弾く音が響く。
ふと雪が隣の席に目をやる。
先輩が突っ伏して眠っているのだ。
品川さんが「二人共疲れてるみたい」と声を掛けてきた。
雪は笑顔で、昨日ボランティアに行って来たのだと答える。
品川さんが、突っ伏している先輩を見て起こさぬよう静かに言った。
「淳君は四年生で色々忙しいでしょうに、ここにもしょっちゅう顔出してくれるし、二人ラブラブなのね」
雪はハハハと笑い、曖昧な相槌を打つ。
雪は彼を気遣って、
椅子に掛けてあった自分のカーディガンを、先輩の背中にそっと着せかけた。
疲れてるのかな? そういえば昨日先輩は色々大変そうだったな‥
子供達の指導チームに入っていた雪の目から見ても、掃除チームの先輩達は肉体労働で大変そうだった。
加えて他にやることも色々あるだろうに、毎日雪と一緒に無償労働をしてくれている先輩を、雪は気遣った。
雪は一つ息を吐くと、自分も机に顎を付いて休憩した。
雪も昨日は慣れないことや心に積もったわだかまりで、疲れを感じていた。
今朝先輩と顔を合わせた時に漂った気まずい空気を、雪は思い出していた。
どう考えてもこのままでは、心を重く湿らせる靄を取り払うことは出来なさそうだ。
昨日意を決してした質問の答えを聞いても、その靄は濃くなるばかりだった。
告白の理由だって曖昧、むしろ彼は視線を彷徨わせ、動揺していた‥。
けれどもう一度どういう気持ちで付き合おうと言ったのかと聞けるかといったら、その答えはNOだ。
その質問はきっと彼を傷つけてしまう。
雪の脳裏に、天使の羽を付けた先輩のイメージが浮かび上がる。
過ぎたことでとやかく言うのも‥。色々世話にもなってるし‥
先輩エンジェルは白い歯を見せて、爽やかにハハハと笑って両手を広げている。
去年味わった色々な負の感情と同じくらい、今年に入って先輩から貰ったものは数え切れない。
今日もこうして傍にいてくれてるし‥
雪はそう思いながら、そっと彼の隣で目を閉じた。
瞼の裏に、先日聡美と仲直りした時の場面が浮かぶ。
聡美の時もそうだったが、こういう問題は早め早めに解決するのが良いと雪は思っていた。
時間が経てば経つほど、言い出せなくなったり余計こじれたりと、面倒なことになるからだ。
雪は、隣で寝ている先輩を横目で窺い見た。
去年までの先輩後輩の間柄ならば、このまま記憶を沈めて知らないフリをすれば良かったかもしれない。
けれど、今雪は彼と付き合っている身だ。見て見ぬふりは出来なかった。
お互いが心を開いて歩み寄って、解決するべきなのだ‥。
気がつけば、先輩が目を開けて雪の方を見ていた。一体いつから起きていたのだろう。
雪は内心驚きながら、「起きました?」と声を掛けた。
雪は”鉄は熱い内に打て”と自らに言い聞かせ、起き抜けの彼に笑顔を浮かべて言った。
「あの‥明日時間ありますか?今度こそ晩ご飯をご馳走したくって」
淳はそう言って笑顔を浮かべる雪をじっと見ていた。その深く蒼い瞳に、ぎこちない笑顔の雪が映る。
昨日より自分に近づこうとする彼女の意志を、彼はその鋭い感覚で感じ取る。
その後、雪は先輩との夕食の約束を取り付けた。
いつもの目尻の下がった笑顔で了解する先輩の表情を見て、
雪は少し安堵して笑った。
一方こちらは、河村亮の住む下宿である。
暑そうに服を担いで歩く亮に、小太り君達下宿の仲間が声を掛ける。
「河村クン!それスーツじゃないのかん?」
彼らは亮がスーツを持っているのを初めて見たと言い、彼の周りにわちゃわちゃと集った。
男ばかりに囲まれて、暑苦しいと亮が不満を漏らす。
掃除と雑用が主な塾での仕事だが、亮は一階担当だからとスーツを着てくるよう言われたと言う。
暑苦しいったらありゃしねぇと舌打ちする亮だが、下宿の仲間たちは未だに亮がどこで働いているのか聞かされていないため、
その言葉に疑問符を浮かべていた。更に亮は、そろそろ辞めるつもりだけどなと言葉を続けた。
皆不思議そうな顔をする。
「なんで?結構給料良いんじゃなかったのか?」
「講師の一人と色々あってな。それに飽き症だから一箇所で一年以上働けねーんだよ」
それならなんで上京したんだと、仲間の一人が亮に問うた。
苦い記憶の断片が、彼の脳裏を掠める。
そして思い浮かぶ一人の男の姿、そして姉の姿‥。
亮は現状確認したい人たちがいて、その為に上京したんだと言った。
その内の一人‥つまり青田淳には少し復讐でもしてやろうと企んではいたが、
なかなかうまくいくもんじゃないと言って亮は舌打ちした。
小太り君は、亮にはのっぴきならない理由があって上京して来たと思っていたので、
(というか借金滞納or万引きor夜逃げのどれかだと思っていたらしい)若干意外そうな顔をした。
しかし実は小太り君の想像は当たらずとも遠からずで、亮は地方にて社長から踏み倒した借金のことを思い出してブルーになった。
その日暮らしのような生活を続ける亮に、下宿の仲間達は真面目に就活しろと説教する。
しかし亮はそんな彼らを、嘲笑うように見渡して言った。
「就職~?ここで?オレが?何で?オレみたいな高校中退野郎を誰が雇ってくれるってんだ?
少なくとも高卒にはならにゃ誰も耳も貸さねぇってのに」
その亮の言葉に、小太り君は高卒認定試験は受けたのかと聞き、もう一人は自分はバイトしながら勉強してるぞと苦々しく言った。
亮はお前らには関係ないだろと言って、小太り君の胸ぐらを掴んだ。
「その前にその言葉使いをどうにかしたらどうなんだ?ああ?
お前らだってオレにとやかく言える立場じゃねーだろうがよ」
けれど俺らには目標がある、と下宿の仲間が言った。
亮はバイトばかりしているが、それは目標があってのことなのかと聞いてきた。
亮の顔に青筋が浮かび、彼はキレた。
てめぇらに何が分かると言って暴れる亮を前に、彼らはそそくさと部屋へ帰って行った。
”静粛に”と書かれた廊下のポスターも虚しく、亮の大声は下宿中に響き渡る。
やがて誰も居なくなった廊下に佇んだまま、亮は苛立ちを抱えた。
逃げてばかりのこの生活から、逃げられなくなっている自分がいた。
「はっ!」
そう言い捨てるように息を吐いたが、胸の中を覆う靄は晴れそうにもない。
足掻けば足掻くほど、方向を見失っていくような霧の道。
亮の進んでいる道は、そんな煙った道だった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<胸の中の靄>でした。
雪が”鉄は熱い内に打て”と思っているところは、本家版だと”牛の角を熱くした今のうちに抜け”と書いてあり、
韓国の諺だそうです。意味は日本の”鉄は‥”と同じだそうなので、上手く訳せていますね!
英語だと Strike while the iron is hot.だそうで。
世界各国、”好機を逃すな”というシチュエーションは存在しているのね~と面白く思いました。
次回は<指の形の痣>です。
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事務室に、キーボードを弾く音が響く。
ふと雪が隣の席に目をやる。
先輩が突っ伏して眠っているのだ。
品川さんが「二人共疲れてるみたい」と声を掛けてきた。
雪は笑顔で、昨日ボランティアに行って来たのだと答える。
品川さんが、突っ伏している先輩を見て起こさぬよう静かに言った。
「淳君は四年生で色々忙しいでしょうに、ここにもしょっちゅう顔出してくれるし、二人ラブラブなのね」
雪はハハハと笑い、曖昧な相槌を打つ。
雪は彼を気遣って、
椅子に掛けてあった自分のカーディガンを、先輩の背中にそっと着せかけた。
疲れてるのかな? そういえば昨日先輩は色々大変そうだったな‥
子供達の指導チームに入っていた雪の目から見ても、掃除チームの先輩達は肉体労働で大変そうだった。
加えて他にやることも色々あるだろうに、毎日雪と一緒に無償労働をしてくれている先輩を、雪は気遣った。
雪は一つ息を吐くと、自分も机に顎を付いて休憩した。
雪も昨日は慣れないことや心に積もったわだかまりで、疲れを感じていた。
今朝先輩と顔を合わせた時に漂った気まずい空気を、雪は思い出していた。
どう考えてもこのままでは、心を重く湿らせる靄を取り払うことは出来なさそうだ。
昨日意を決してした質問の答えを聞いても、その靄は濃くなるばかりだった。
告白の理由だって曖昧、むしろ彼は視線を彷徨わせ、動揺していた‥。
けれどもう一度どういう気持ちで付き合おうと言ったのかと聞けるかといったら、その答えはNOだ。
その質問はきっと彼を傷つけてしまう。
雪の脳裏に、天使の羽を付けた先輩のイメージが浮かび上がる。
過ぎたことでとやかく言うのも‥。色々世話にもなってるし‥
先輩エンジェルは白い歯を見せて、爽やかにハハハと笑って両手を広げている。
去年味わった色々な負の感情と同じくらい、今年に入って先輩から貰ったものは数え切れない。
今日もこうして傍にいてくれてるし‥
雪はそう思いながら、そっと彼の隣で目を閉じた。
瞼の裏に、先日聡美と仲直りした時の場面が浮かぶ。
聡美の時もそうだったが、こういう問題は早め早めに解決するのが良いと雪は思っていた。
時間が経てば経つほど、言い出せなくなったり余計こじれたりと、面倒なことになるからだ。
雪は、隣で寝ている先輩を横目で窺い見た。
去年までの先輩後輩の間柄ならば、このまま記憶を沈めて知らないフリをすれば良かったかもしれない。
けれど、今雪は彼と付き合っている身だ。見て見ぬふりは出来なかった。
お互いが心を開いて歩み寄って、解決するべきなのだ‥。
気がつけば、先輩が目を開けて雪の方を見ていた。一体いつから起きていたのだろう。
雪は内心驚きながら、「起きました?」と声を掛けた。
雪は”鉄は熱い内に打て”と自らに言い聞かせ、起き抜けの彼に笑顔を浮かべて言った。
「あの‥明日時間ありますか?今度こそ晩ご飯をご馳走したくって」
淳はそう言って笑顔を浮かべる雪をじっと見ていた。その深く蒼い瞳に、ぎこちない笑顔の雪が映る。
昨日より自分に近づこうとする彼女の意志を、彼はその鋭い感覚で感じ取る。
その後、雪は先輩との夕食の約束を取り付けた。
いつもの目尻の下がった笑顔で了解する先輩の表情を見て、
雪は少し安堵して笑った。
一方こちらは、河村亮の住む下宿である。
暑そうに服を担いで歩く亮に、小太り君達下宿の仲間が声を掛ける。
「河村クン!それスーツじゃないのかん?」
彼らは亮がスーツを持っているのを初めて見たと言い、彼の周りにわちゃわちゃと集った。
男ばかりに囲まれて、暑苦しいと亮が不満を漏らす。
掃除と雑用が主な塾での仕事だが、亮は一階担当だからとスーツを着てくるよう言われたと言う。
暑苦しいったらありゃしねぇと舌打ちする亮だが、下宿の仲間たちは未だに亮がどこで働いているのか聞かされていないため、
その言葉に疑問符を浮かべていた。更に亮は、そろそろ辞めるつもりだけどなと言葉を続けた。
皆不思議そうな顔をする。
「なんで?結構給料良いんじゃなかったのか?」
「講師の一人と色々あってな。それに飽き症だから一箇所で一年以上働けねーんだよ」
それならなんで上京したんだと、仲間の一人が亮に問うた。
苦い記憶の断片が、彼の脳裏を掠める。
そして思い浮かぶ一人の男の姿、そして姉の姿‥。
亮は現状確認したい人たちがいて、その為に上京したんだと言った。
その内の一人‥つまり青田淳には少し復讐でもしてやろうと企んではいたが、
なかなかうまくいくもんじゃないと言って亮は舌打ちした。
小太り君は、亮にはのっぴきならない理由があって上京して来たと思っていたので、
(というか借金滞納or万引きor夜逃げのどれかだと思っていたらしい)若干意外そうな顔をした。
しかし実は小太り君の想像は当たらずとも遠からずで、亮は地方にて社長から踏み倒した借金のことを思い出してブルーになった。
その日暮らしのような生活を続ける亮に、下宿の仲間達は真面目に就活しろと説教する。
しかし亮はそんな彼らを、嘲笑うように見渡して言った。
「就職~?ここで?オレが?何で?オレみたいな高校中退野郎を誰が雇ってくれるってんだ?
少なくとも高卒にはならにゃ誰も耳も貸さねぇってのに」
その亮の言葉に、小太り君は高卒認定試験は受けたのかと聞き、もう一人は自分はバイトしながら勉強してるぞと苦々しく言った。
亮はお前らには関係ないだろと言って、小太り君の胸ぐらを掴んだ。
「その前にその言葉使いをどうにかしたらどうなんだ?ああ?
お前らだってオレにとやかく言える立場じゃねーだろうがよ」
けれど俺らには目標がある、と下宿の仲間が言った。
亮はバイトばかりしているが、それは目標があってのことなのかと聞いてきた。
亮の顔に青筋が浮かび、彼はキレた。
てめぇらに何が分かると言って暴れる亮を前に、彼らはそそくさと部屋へ帰って行った。
”静粛に”と書かれた廊下のポスターも虚しく、亮の大声は下宿中に響き渡る。
やがて誰も居なくなった廊下に佇んだまま、亮は苛立ちを抱えた。
逃げてばかりのこの生活から、逃げられなくなっている自分がいた。
「はっ!」
そう言い捨てるように息を吐いたが、胸の中を覆う靄は晴れそうにもない。
足掻けば足掻くほど、方向を見失っていくような霧の道。
亮の進んでいる道は、そんな煙った道だった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<胸の中の靄>でした。
雪が”鉄は熱い内に打て”と思っているところは、本家版だと”牛の角を熱くした今のうちに抜け”と書いてあり、
韓国の諺だそうです。意味は日本の”鉄は‥”と同じだそうなので、上手く訳せていますね!
英語だと Strike while the iron is hot.だそうで。
世界各国、”好機を逃すな”というシチュエーションは存在しているのね~と面白く思いました。
次回は<指の形の痣>です。
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