「夢ではなく困りごと」1月13日
『第22回全国高等学校ビジネスアイディア甲子園』という見出しの特集記事が掲載されました。ビジネスアイディア甲子園は、『高校生がチャレンジ精神を養い、新しい発想で社会の課題を解決する方法の提案を競う場』なのだそうです。
個々のアイディアについても興味深いのですが、私は学校賞を受賞した専修学校クラーク高等学院大阪梅田校教員磯山由真氏の言葉が印象に残りました。磯山氏は、『「何があれば便利か」ではなく「自分は何に困っているか」からビジネスアイディアを考えるように伝えています』と話されていました。
教員には、未来の夢とか希望などという言葉が好きな人が多いという印象があります。図工の時間に、20年後の街というタイトルで空飛ぶクルマが飛び交う超近代的な街の絵をかかせたり、作文でネコ語翻訳機が開発されペットと意思疎通が出来たらいいという夢物語を書かせ、子供らしくて良い作品と評価したりする、そんな実践をする教員も少なくありませんでした。
しかし、そうした絵空事は、現実の何かを変えることはありません。でも、磯山氏が指摘するように、「困りごと」に焦点を当て、表現させることで、学校改革のヒントを発見することができるのではないか、と考えたのです。
大人や教員からすれば、くだらないこと、取るに足らないこと、それくらいは我慢すればいいこと、と思われるようなことでも、遠慮なく表明できる、そうした雰囲気をつくることさえでいれば(それが難しいのですが)、宝の山は目の前に現れます。
給食の量が多すぎる、給食の時間が短い、給食で嫌いな物が出るのが嫌だ、給食は教室で食べたくない、今の時間では腹が減ってしまう、全員の配膳が済むまで待っているのは無駄、食べ終わったらすぐ遊びに行きたい等々。給食だけでもいくつも出てきそうです。
このとき大切なのが、どうすればよいかまで突っ込んで訊かないことです。改善策まで併せて求められるとなると、不満はあっても改善策までは考えつかないから言うのはやめておこうとなるからです。
まず、徹底的に困りごと、それも個人的な我儘とも思えるような困りごとを出し尽くすのです。解決策は後でみんなで力を合わせて考えればいいのです。200人の子供がいる学校で、一人3点の困りごとを出せば、600の困りごとが、その教委の管轄下に20校あれば12000の困りごとが集まるはずです。それをKJ法的な手法で整理し、集約して教育行政の課題とする、そんな取り組みを始めてはどうでしょうか。
「同意と不同意」1月13日
書評欄に、日本総合研究所主席研究員藻谷浩介氏による、『「なぜかいじめに巻き込まれる子どもたち」川上敬二郎著(ポプラ新書)』に対する書評が掲載されました。相変わらず、藻谷氏に指摘は明確で小気味よいものですが、「そうだ、その通り」と思う部分と「?」と感じる部分があります。
まず前者から。藻谷氏は、『大小無数のいじめの延長上に重大事態が発生しているのであり、後者を処断しても前者はなくならない。たとえは悪いが、いくら殺人事件を処断しても、万引きはなくならないのと同じだ』と書かれています。同感です。
私は、いじめ問題への対応として、いじめ防止対策推進法を持ち出し、重大事態への認定に問題があるとか、第三者委員会の立ち上げが遅いとかいうことばかりを問題にして糾弾する風潮に疑義を呈してきました。ある日いきなり、ある子供を自殺に追い込む過酷ないじめが発生する、などということはありません。からかいやいじり、そんな小さな芽が周囲の見てみぬふりという栄養を与えられ毒々しく成長していく、というのがいじめ重大事態なのです。
ですから、小さないじめの芽を敏感にとらえ、小さいうちに適切に対処して刈り取る、そんな担任や顧問の教員のいじめ探知対応能力を向上させることこそが最も大切だと主張し続けてきたのです。それを怠り、いじめの芽がある程度育ってからの、職員で共有、校内に委員会を設けるといった組織上の問題ばかりに焦点を当てるのは本末転倒なのです。
また、些末な部分ですが、藻谷氏が『年間68万件というのはどうみても氷山の一角だ』『小学校4年生だった10年から、中学3年生となった15年までの6年間に(略)8割以上が、いじめの被害者かつ加害者になったわけだ。著者の表現でいえば、いじめはこれほどまでに「一般化」し、かつ加害者と被害者が簡単に入れ替わる「流動化」の様相を呈している』と書かれていることも。我が意を得たり、です。
私は、いじめのない学校はない、いじめは全国の学校で100万件以上と言ってきました。さらに、安易ないじめ加害者懲罰論の非現実性を指摘してきました。いじめは犯罪であり、加害者は強制転校させるべき、というような主張を目にすることがあります。私はそうした主張に対し、我が子は善良で加害者になどなるはずがないという思い込みに基づく暴論だと指摘してきました。そうではないのです。
すべての子供が加害者になり得るということは、ある日突然、「あなたのお子さんはいじめ加害者ですので、明日から○○中学校に転校となります」と通告され、仲の良かった友達とも、信頼していた教員とも、打ち込んでいた部活とも強制的に切り離されることがあり得るということなのです。それに耐え忍ぶ覚悟はありますか、と訊けば多くの人はイエスとは言わないはずです。
そして、藻谷氏は『いじめを減らすよう学校ぐるみで努力すれば、それ自体がハラスメントへの対処の実践教育となり、~』とも書かれています。そうなのです。身近な担任が、顧問虚員が、いじめは絶対に許さないという考えを明確に示し、被害者の味方になって加害行為(加害者を、ではない)を徹底的に糾弾し被害者を守る姿勢を見せることは、傍観者をいじめを非難する勇気を持つ子供に変える最良かつ唯一の方法なのです。このことは教職にあるものすべてが胸に刻み込むべきです。
さて最後に、「?」の部分です。『均一の行動と評価基準を押し付け、多様性を認めないカリキュラム』という学校批判ですが、少し古い画一的な学校観ではないでしょうか。近年、学校は多様性重視に舵を切っています。その分、学校間の格差も生じてきていますので、藻谷氏が指摘するような学校が残っていることも事実ですが、方向性は明らかに多様性重視です。
さらに、「均一の行動と評価基準を押し付け、多様性を認めない」学校の在り方が、『日本の国際競争力すらも逆に損なっている』という指摘には疑問があります。良い意味での秩序の破壊者、独創性に富んだ起業家が生まれにくいという点ではその通りだと思いますが、公的な学校教育には、画一的であるにしろあるレベルの知的能力を備えた人間を多数育てるという役割もあるはずだと考えます。リーダー育成に偏るのではなく、民主社会を支える良きフォロワーを育てるという機能です。
我々が手本としてきた欧米は、その点で失敗しつつあるのではないでしょうか。トランプ前大統領が法や制度を無視し、自己弁護のために平気で嘘をついても、陳腐な陰謀論を信じ続ける国民が数千万人もいる米国を見ていると、我が国とは異なるとされる米国の教育が成功しているとは言えないように考えてしまうのです。
「立証済み?」1月13日
『筑波大坂戸高 移転を検討』という見出しの記事が掲載されました。『筑波大が埼玉県坂戸市にある付属坂戸高校を茨城県つくば市に移転させることを検討している』ことを報じる記事です。
記事によると、『大学近くに移転させることで高大連携を強化し、探究学習を深める』『大学近くに移転すれば、教職員や生徒の行き来が容易になり、より充実した教育を行える』などの狙いや効果があるということです。
よく分かりません。校種の異なる学校が連携すると、教育効果が高まるということですが、それは何らかの研究によって検証された「事実」なのでしょうか。あるいは、精緻に組み立てられた論理に基づくものなのでしょうか。
仮にそうだとして、それは連携する双方の学校にとって教育効果を高めるものなのか、大学から高校へというように、一方通行に効果を及ぼすものなのでしょうか。また、逆に言えば、高大連携が高校には好影響を与えるが大学には負担が増すだけでよい影響はない、というような恐れはないのでしょうか。
さらに、高大連携は、高校生と大学生の連携なのか、それぞれの教官の連携なのか、高校生と大学生、それぞれの教官がクロスするような連携なのか、記事では何も触れていませんが、私以外の読者にとっては周知の事実なのでしょうか。
もし、高大連携が双方に好影響を及ぼすのであれば、今後少子化が進み、学校の統廃合が進む際には、大学の近くに高校をという視点を重視すべきことになります。大学を核に複数の高校が移転・設立されるという形が望ましいことになります。
あるいは、筑波大付属高校という高偏差値の生徒が集まるという条件、もしくは探究学習、グローバル教育など「ある条件」を満たすときには有効ということで、既にいくつかの例示がなされているのでしょうか。
まさかとは思いますが、高校の教員よりも専門性が高い大学の教官が関わることによって質の高い学びが実現するはずというような単純な思い込みが根底にあるのではないと信じたいです。それぞれの校種における学びは程度が高い低いという尺度で測れるものではなく、その校種に応じた指導の難しさがあり、高校生を相手に、大学教官なら高校教員よりも質の高い授業ができるというようなものではないことを忘れてはならないと思います。
「知らなくていい?」1月12日
『「森」全体見えぬ時代に』という見出しの記事が掲載されました。作家高村薫氏へのインタビュー記事です。その中で高村氏は、近年の世界情勢について、『誰しも全体を俯瞰することが難しい』と指摘なさっています。
高村氏の指摘は鋭く、共感させられるものが多いのですが、ひとつだけ引っかかるものがありました。それは、『ウクライナ前線の橋頭堡がどうの、侵攻ルートがどうの、なんて話は私たち素人が知らなければならない情報ではありません』という言葉です。
私は高村氏の少し下の世代。平和は無条件に善で、戦争は絶対にあってはならないもの、という価値観が染み通っています。軍隊や武器、兵士や軍事について語るから戦争が起きる、というような非科学的な言霊信仰的な感覚も理解できてしまいます。戦争は口にするのも忌まわしい「穢れ」なのだという感覚です。
ですから、私もウクライナ侵攻について、軍事評論家や自衛隊OBなどが、戦争犠牲者の死を数値として淡々と語る姿を目にすると、嫌な気分になってしまいます。でも、それだからと言って、軍事について知る必要はない、武器や戦争について無知でよいという考え方は正しいのかという疑問をもつのです。
太平洋戦争のとき、英語は敵性言語として学ぶことが禁じられました。一方、米国は敵国日本について知るために、日本語研究を加速させました。どちらの考え方が合理的か、いうまでもなく米国です。対象について知ることがなければ適切な判断をすることはできないからです。
戦争や軍事について無知であるということは、戦争や軍事について適切な判断ができないということです。それは、戦争や軍事に詳しい人の口車に乗せられやすいということを意味します。防衛費を大幅に増やす必要があると言われれば、そんなものかと思い、敵基地を叩くミサイルが抑止力になるといわれれば、それはそうだと思う、そんな構図です。
ある国が軍備を拡充させれば、対立する国も軍備を拡充する、それで危険性が減るのか増えるのか、ケースバイケースで明確ではないはずなのに。攻撃準備をしている敵の基地だけ叩くというが、それが可能なのか、先制攻撃したのは我が国だという口実を与えるのではないか、そんな疑問が深く追究されないままでよいのか。
そしていざ軍事行為が始まれば、「大本営発表」に誤魔化される、負けているにもかかわらず優勢だというフェイクニュースにも騙される、という結果に陥ってしまうのではないでしょうか。
好戦的になる必要はありませんが、軍事や戦争というものについて、少なくとも基本的なことを学ぶ必要はあるのではないか、そんな気がしてしまうのです。何年生から始め、どのくらいの時間を費やす必要があり、内容はどのようになるのか、何も分からないのですが。
「違う」1月11日
関西広域連合有識者委員渥美由喜氏が、『「やかましい」で改革』という表題でコラムを書かれていました。その中で渥美氏は、『A県庁に情報公開請求したデータを分析した結果、職員の長時間労働と昇進・昇格の間には高い相関関係があった(略)A県庁の時間外労働都道府県の全国平均を大きく下回り、「時間外が月45時間超の職員割合」も全国平均よりも少ない模範生だった。にもかかわらず、「長時間労働の職員が出世している」という事実に落胆した』と書かれています。
要するに、長時間労働する職員=職務遂行意欲があり、責任感も強い優秀で信頼できる人物→昇格させるべき人物という図式が見え、それでは長時間労働も過労死もなくならない、ということです。
やはりそんなものなのか、と思う一方で、教員の場合はこの構図が成り立たないのではないかと考えました。私が20代の後半に勤務していた学校では、毎日のように午後9時、10時まで学校に残って「仕事」をしている教員が数人いました。彼らは、土日も学校に来ていました。当時は学校に警備主事がおり、警備主事から「休みの日のも毎日来て職員室で何かやっている。止めさせてほしい」という声が校長に寄せられていたのです。
中でも「熱心」なT教員は、大晦日も元日も学校に来て、とうとう警備主事から「帰れ!」と怒鳴られたというエピソードの持ち主でした。彼らは、当時20代から40代の男性教員でしたが、誰一人として管理職にはなりませんでした。ベテランと呼ばれる年齢になっても、管理職にならない教員の中には、職員団体の活動に熱心な者が少なくありませんが、彼らはそうした活動からも距離を置いていました。
私は彼らと同じ学年を組んだこともありました。そのとき、毎日午後6時ごろには退勤し、出張でいないことも多かった私は、Tから「そんなに早く帰って、給料泥棒だと思わないの?」と言われたことがありました。私でさえ、時間外労働が月40時間ほどにはなっていたのですが、Tの目にはやる気のない怠け者、と映っていたようです。
Tほど極端ではありませんが、長時間労働を自分の教員としてのアイデンティティであるかのように考えている教員は少なくありませんでした。私は職員団体の勢力が強いいわゆる「拠点校」ばかり勤務していましたが、そうであるにもかかわらず、ミニT教員のような教員は少なからずいました。
一般の公務員と教員の職務に対する意識の差があるように思えてならないのです。それは何なのかを分析することが、教員の働き方改革には必要な気がします。そうでないと、制度は作っても、仏作って魂入れず、になりかねないと思うのです。
「職業訓練校」1月10日
『受験生に伝える「医療の現実」』という見出しの記事が掲載されました。『「医学部は医師になるための職業訓練校。中高生の段階から医師の実像を知ってほしい」。そうした思いから、手弁当で中高生へのせみないーを開いている開業医』朝倉太郎氏へのインタビュー記事です。
まず、医学部を職業訓練校と言い切る発想に驚かされました。同じ発想をするならば、教育学部は教員になるための職業訓練校ということになります。そう考えると記事の内容に興味が湧いてきました。
私が特に注目したのが、『医療に携わることは社会とと関わることだと考え、社会問題との接点を示そうとしてきました。これまでの講演テーマは、偽情報があふれる中での正しい医療情報の発信、認知症医療の現場、へき地での医師不足の問題など(略)患者に対する嘱託殺人事件の直後には、緩和ケアを題材にしました』という記述でした。
現役の医師でも深く考えたことがないという人もいるのではないかと思われるテーマです。しかし、医師を目指す以上、少なくともこうした問題があることを知り、自分なりに考えてみることは大切なのではないかと思います。
では、教員養成の場では、教員になるための職業訓練校として、どのような内容を取り上げるべきか、ということに私の考えが向いていきました。まず、教員による性加害の問題は外せないでしょう。この問題は、教室の密室性、教員と子供の間にある支配被支配の関係というあらゆる問題の基底を成す要素が端的に現れているからです。
また、教員の多忙化も必須です。単に労働時間や労働管理の問題として捉えるのではなく、子供や保護者のためには自己犠牲も厭わずに働くのが良い教員、という日本人の多くが無意識のうちに抱いている理想の教員像の是非を問うものだからです。
さらに、地味ですが、教員の業績評価も一度は深く考えさせたい問題です。この問題は、一人一人がイメージする「良い教員」像を揺さぶるのです。例えば、問題行動を繰り返す一人の子供は無視してよりよい授業のために教材研究・授業構想を深めるのが良い教員なのか、授業が疎かになってしまっても問題行動を繰り返す一人の子供に深く関わり立ち直らせることができるのが良い教員なのか、そして教育行政はどちらの教員に良い評価を下すのか、議論は白熱するはずです。
最後に、教員のキャリア形成についてです。大学を卒業して教職に就き、教職一筋40余年という在り方、民間企業や行政などを経験した上で教員となる在り方、教員から民間、民間からまた教員へ、教員から塾講師にその後また教員へなど数年で様々な職を経験する在り方、教職を一つのステップとして子供に関係する他の職に転職していく在り方、プログラマーなどの特別な技能を売りに狭い分野の専門職として教職に就く在り方、教職としての在り方は多様になっていくでしょう。何が望ましいのか、自分が教員になったとしたらどういう道を歩みたいのか、考えてみることは有意義だと思います。また、生徒という立場で日々教員を見つめている彼らの考えは、今後の教員養成にも有意義な知見を与えてくれるはずです。
朝倉氏のように、中高生セミナーに取り組む人は現れないでしょうか。
「発想はよかった」1月9日
『1600通りの時間割を作る』という見出しの記事が掲載されました。『宿題や定期テストの廃止など、学校改革で知られる元東京都千代田区立麹町中学校長の工藤勇一さん。2020年度から校長を務める横浜創英中学・高校で新たな改革に挑む』姿を取り上げた記事です。
工藤氏とは一年間だけ、都立教育研究所で一緒に勤務したことがあります。それだけに、メディアに取り上げられる工藤氏の挑戦を興味深く拝見してきました。今回の取り組みで、私が注目したのは以下の点です。
まず、『個別最適な学びを実現するために学年の壁を柔軟に超えて学ぶ。中1でも英語が得意な生徒は中3の授業に出ることができるし、英語が苦手な生徒は中3でも中1の授業で学び直すことができる』という部分です。
以前、大阪府知事を務めた橋下徹氏が、義務教育での落第制導入を提唱したことがありました。私はこのブログでそれを取り上げ、落第制とともに飛び級も導入すべきと訴えました。
当時の世論は、学校は勉強のためだけにあるのではない、子供の人間関係を損なう恐れが強い、子供の自尊感情を傷つけるなどの理由をあげ反対する声が多数を占めていました。しかし私は、学校は学ぶところである、という原点に返れば、落第・飛び級制こそが、学校を蘇らせると考えていたのです。この記事の中では、3年生が1年生と共に学ぶことに抵抗感や羞恥心をもっていないことが窺えます。それが一般的なことだとするならば、上述した落第・飛び級制の欠点とされるものが、実は大人の思い過ごしだったということになるのではないでしょうか。
次に、『「教師が教える」「対話して学ぶ」「個で学ぶ」「企業から学ぶ」の4種類の教室が用意され、生徒が自分で“学び方”を選ぶことができる』という部分です。私は指導筋時代に、学習過程の複線化というレジュメを作成して、研修会の指導講評に活用していました。そこには、教員の支援を受けての学習問題作成、自分が収集した情報に基づく「自己内対話」、自分なりの結論をぶつけ合う相互評価という過程が位置付けられていました。つまり、上記の4種類の学びのうち、「企業から学ぶ」以外の3つの学びを網羅していたのです。
当時は、教室を用意するということは難しかったですから、教室の中に資料コーナーを設けたり、子供同士が席を立って自由に行き来して話し合ったりできる環境を用意することを提案していました。時代を先取りした、と言っては言い過ぎでしょうが、間違っていなかったのだと改めて思いました。
ただ一つ、私には思いもつかなかった取り組みもありました。『「学ばない教室」もある。取材した日は、数人の生徒がその教室にいた。雑談しているうちに生徒の気持ちが変わり~』です。子供が自分自身の学びを自分でコントロールする、私も大事なことだと考えてきました。しかし、私の考える「コントロール」は、学ぶという前提があってのものでした。学び舎である学校という固定概念から抜け出せなかったのです。それなのに同校では、学ばない自由さえ認めている、まさに画期的な発想の転換です。
その根底には、生徒への信頼があるのでしょう。正直、私にはそこまでの信頼はありませんでした。感服すると同時に、本当に大丈夫?という懸念は残っていますが。
「消えていく」1月9日
『参院 手書き速記に幕』という見出しの記事が掲載されました。『デジタル化の進展などを受け、参院は2023年11月に議場での手書きの速記を廃止した。歴史の転換点に、速記者は何を思うのか』を報じる記事です。
記事によると、『現在約80人いる参院の速記者は今後パソコンでの議事録作成が中心になり(略)手書きの速記は使わなくなる』とのことです。つまり、速記というごく少数の者の間で伝承されてきた特殊技能は、継承者もなく今後数十年の間にはこの世から消えてなくなるということです。何だかもったいないような気がします。
私は教員時代に、できるだけ子供に教科書や資料集で調べるだけではなく、実際に生の声に接することが大切だと考えていました。地域の歴史が刻まれた碑を前に、住職さんにお話を聴く、商店街の人に仕事で大変なことをインタビューする、工場見学で働いている人に質問をぶつけるなどの活動です。
そうしたときに学習を左右するのが、メモ力でした。整理されていない話し言葉を、文字に置き換えて記録する能力です。内容を再現するだけなら録音しておけばいい、という考え方もありますが、その場でメモを取るという行為は、集中して聴く、訊いたことを論理的に頭の中で再構築するという能力を鍛えるのです。これは、教科の違いを超え、あらゆる学習において有効に機能する能力なのです。
当時の私は、国語の時間に「速書き」という活動を定期的に取り入れ、字が汚くてもいいから早く書くという訓練をしていました。また、「聞き書き」という活動も取り入れていました。私が読み上げる教科書の文章を平仮名だけでもいいからノートに書き、読み上げて正誤を確かめるというものでした。
こうした活動でメモ力を高めようとしていたのですが、思うような成果は上げられませんでした。それだけに、もし速記の子供版というようなものがあり、ある程度練習を積めば子供でも使えるというようになればいいと考えていたのです。
具体的な形は分からないのですが、速記のエッセンスを子供に学ばせ授業に生かすことはできないものか、そんなことを考えてしまったのです。
「強調点」1月8日
『新たな「問い」を求める』という見出しの記事が掲載されました。連載企画『田原総一朗の日本の教育 問題は何だ!?』で、社会学者上野千鶴子氏へのインタビュー記事です。教委で人権教育を担当していたとき、上野氏の著書を読ませていただいたものです。田原氏には、「朝まで生テレビ」に出演させていただいたときに、声を掛けていただいたことがあります。それだけに興味深く読ませていただきました。
気になったのは、上野氏の次の発言です。『東大や京大がそれなりの才能ある人材を輩出してきたのは、大学の教育や教師が良かったからではなく、入学してくる学生に、もともと優秀な人材の割合が多かったからだと思います(略)今あるものを身に付けるだけでは教育ではありません。だから、ゼミ生に「誰も答えたことのないオリジナルな問いを立ててごらんなさい」と呼びかけました。もちろん、前段として学生に一定の負荷をかけ、基礎体力をつけるための訓練をやりました。例えば毎週相当量の指定文献を読んできてもらい、提出物も頻繁に出してもらいました。一度、授業を休んでしまったら、ついていけないほどで、週1回のゼミのために一週間が回っているようなものです。私は学生の考えや発想を一切抑圧しませんでした(略)ユニークな人材が集まりました』。
私が注目したのは、上野氏が語った中で、何が強調されて記事になっているか、ということです。見出しにある通り、「新たな問い」であり「オリジナルな問い」です。しかし、実際に詳細に語られているのは、上野氏が「前段」と呼んでいる訓練=考える前提となる知識や思考の仕方を身に付けるための学び、知識習得学習のハードさなのです。
また、元々優秀な人材が、とも書かれています。つまり、上野氏が語っているのは、高校までにその段階で必要と思われる知識やその知識を使って問題解決をする能力を身に付けた人、しっかりと勉強してきた人が、大学でもハードな基礎学習に耐え抜いた結果、独創的な考えや発想をもつことができたという話なのです。
考えてみれば当たり前の話です。しかし、どうして記事の見出しは、「独創性を身に付けるにはハードな基礎習得の過程がある」というような意味の表現にならないのでしょうか。
記事をきちんと読まずに見出しだけを眺めて分かった気になる人もいることでしょう。そうだとすれば、この見出しを見た人は、知識の獲得は重要ではないという誤った理解をしてしまう可能性があります。それにもかかわらず、ハードな基礎基本の習得訓練を軽視するかのような見出しをつけるということは、記者に、あるいは社全体の体質の中に、苦労して基礎基本を身に付けるような学び、敢えて言うならば従来型の古い学びを軽視して、何か目新しいユニークな学びがあるという印象を与えたいという思いがある、そうした価値観があるとしか思えないのです。その弊害は、無視できないと考えます。
もちろん、暗記偏重の知識注入教育は間違いです。しかし、知識獲得の重要性が減じているわけではありません。知識の獲得がゴールではなく、それをスタート台として、誰も答えたことに内容な問いを立てる教育へと発展させることが大事なのです。その後段部分だけを切り離し強調するのは、地道な努力を蔑む風潮を生んでしまうのではないでしょうか。それは、頭がいいつもりのバカを大量に生むだけです。
「どのレベル?」1月6日
人生相談欄に、『「みんなも同じ」納得できぬ』という28歳の方からの相談が掲載されていました。相談者は、『悩んでいる人を励ますときなどに「みんなも同じだから」という言葉をかけることに納得できません』と書かれています。
それに対し回答者の劇作家渡辺えり氏は、『悩みは人それぞれで、同じ悩みはありません(略)人は一つ一つの悩みにしっかり耳を傾ける必要があると思います』と答えていらっしゃいました。
そうできたらいいと思います。でも、現実には難しいのではないでしょうか。私は、「悩み感度」にはいくつかのレベルがあると考えています。まず、人が悩んでいるかどうかを感じ取ることができるレベルです。暗い表情で、言葉も少なく、ため息ばかりついている、誰が見ても何か悩みを抱えていると察するはずですが、こうした状況を目にしても、何も感じない人もいることはいます。そんな人が最低感度の人です。
次に、悩みがありそうだとは思っても、その原因や背景を考えようとはせずに、「元気出しなよ」というような声掛けをしてしまうレベル、これが下から2番目の低感度のひとです。
それから、悩みの原因や背景に思いを致し、「ああ、受験のことで悩んでいるんだな」と察することができるレベルです。これが真ん中、最も多いでしょう。しかし、「受験の悩み」が正解だとしても、その中味は多様です。成績が振るわない、本当にこの志望校でいいのか迷っている、仲の良い友達を別れたくない、両親は励ましてくれるけれど授業料が高いのに本当にいのだろうか等々、受験の何に悩んでいるのか、そこまでは考えが至らないレベルです。
さらに、実は合格後の授業料について親に負担をかけることを心配しているということを会話を通して探り出すことができるレベルが考えられます。こうした人はよく相談される頼りがいのある人とされることが多いかもしれません。多様な仮説をもつことができ、決めつけることがない柔軟な人、上から2番目の高感度の人です。
そして最高感度の人は、悩んでいる人自身が気づいていない、本当の悩み、深層心理に宿る悩みの存在に気づくことができる人です。本人が受験のことで悩んでいる、うちはそれほど裕福ではないのに高い授業料を払わせることが心苦しい、と「自覚」しているとき、実はその奥に障害がある弟の存在があり、したいことができずに我慢している弟に対し自分だけがしたいことをし続けることへの罪悪感がある、などというところまで洞察できるレベル、最高感度の人です。
高望みしても仕方がありません。5段階の真ん中、平均レベルはキープしていきたいものです。ただしそれは一般人の場合です。悩みを言語化することが難しい子供と接する教員の場合は、最低でも上から2番目を目指す必要があります。研鑽しましょう。