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ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

古典教育と歴史教育

2017-04-19 08:01:21 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「古典と歴史」4月10日
 東京学芸大教授石井正己氏が、『名著の真意問い採択を 小学校からの古典教材』という表題でコラムを書かれていました。その中で石井氏は、枕草子を取り上げ、『小学校で、「春はあけぼの」の形式にならって作文を書き、中学校になって、その内容を把握するのである。このプロセスには、基礎より応用が先になる転倒がある』と『古典教材の系統化がなされていない』問題点を指摘なさっています。
 また、『子供たちは「春はあけぼの」を、高等学校でも学習する可能性がある。またか、とうんざりする子供もいるはずだ。古典は何度読んでもいい、とする意見もあろうが、これではあまりにも無責任ではないか』とも批判されています。さらに、『「はるはあけぼの。」という季節観自体、「古今和歌集」以来の美意識にはないものだった。それを十分知ったうえで「春はあけぼの。」と断言したところに斬新さがあった。そうした文学史に対する認識がなければこの一文を読み解いたとは言えない。この段は、単純に見えて、意外に難しい』という指摘もなさっています。
 引用が長くなってしまいました。でも、今回はどうしてもこの引用が必要でした。私は石井氏の指摘を目にして、私が専門としてきた社会科教育、その中の歴史についての授業との類似性について考えさせられました。
 まず、「転倒」という指摘についてです。実は歴史についての授業でも同じことが起きているのです。例えば、織田・徳川対武田の長篠合戦です。小学校では、信長や勝頼の立場に立って吹き出しを書くというような学習活動が行われます。そして中学校では、より広く長篠合戦の背景や意味について学ぶのです。つまり、応用と理解の逆転という石井氏の指摘に重なるのです。
 次に、「またか」問題です。これも以前から周知のことですが、同じ日本史を小中高と3回繰り返すのですから、歴史学習においても「またか」問題は存在するのです。
 最後に、前提となる認識が不可欠という考え方です。例えば第二次世界大戦について学ぶとき、第一次大戦後の我が国の経済の供給過剰構造、その対策としての輸出拡大と相手国の反感、ドイツとロシアの国力衰退による対英米関係の変化、我が国の軍事思想の欠如、軍や政府といった組織における総合調整機能の欠落などについて知ることなしには、その実像は見えてきません。しかしこうした事柄についての理解は、小学生には難しすぎます。そこで、小学校社会科における扱いは、我が国は無謀な戦争によって近隣諸国に多大な被害を及ぼすと共に国民生活も壊滅的な被害を受けた、というような表面的な理解までしか求めないのです。
 石井氏流にいえば、こうした歴史学習もまた批判されなければならないことになりますが、私には、少なくとも小学校における歴史学習は現状の形がほぼベストであるとしか思えないのです。もちろん、自分がしてきたことを肯定したいという思いが無意識のうちに働いている可能性はありますが、これは子供の発達段階に応じて長年試行錯誤を繰り返した末にたどりついた関係者が共有する結論なのです。
 石井氏は古典の専門家の立場から提言なさっているのだと思います、その見解は貴重ではありますが、学問と教科の授業は異なるものです。古典と歴史に限らず、学問と小中高の教科の授業を同一視して論じることは避けなければならないと思うのですが。

 

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批判の流儀

2017-04-18 06:58:37 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「批判の流儀」4月9日
 『指導要領に「銃剣道」』という見出しの記事が掲載されました。中学校保健体育で必修の「武道」に「銃剣道」が明記されたことについて報じる記事です。記事によると、『戦前の軍事教練の流れをくみ、インターネット上で賛否が渦巻いている』とのことです。
 具体的には、『「戦前回帰だ」「人殺しの技術を教えるな」など疑問や不安の声が上がる』、『銃剣道はスポーツで十戦向けの銃剣格闘をは違う。剣道やなぎなたも元々は相手を殺傷するためのもので、銃剣道だけ批判されるのはおかしい』というような論争になっているようです。
 私も銃剣道が明記されたという記事を目にしたときには違和感を感じました。最近の教育勅語論争なども併せて考えると、戦前回帰という不安も理解できます。では、批判派かというとそう単純でもありません。
 この問題の最も重要な点は、戦前回帰の流れ、にあります。それを肯定するか阻止するか、という問題なのです。私は阻止派です。しかし、銃剣道という一つの問題を深堀して論じるのが適切かというと、そうは考えません。余り焦点を絞りすぎると、上述したように、「剣道もなぎなたも~」という本質とは離れた議論に陥り、馬術や水練も武道の心得の一つだった、居合い道というのもある、実際の戦闘では弓による死者の方が多かった、手裏剣は武士だけでなく町人にも広がっていた、そもそもなぜ槍術が入っていないんだ、棒術もあるぞ、などと議論が拡散していって、そのうちに既成事実だけが積み重なり、だんだんと人々の関心が薄れ、いつのまにか問題があったことも忘れられてしまう、という結果になってしまう可能性が高いと考えるからです。
 そうではなく、戦前回帰という根本を強く意識し、枝葉の問題にエネルギーを費やすのではなく、戦前回帰という大問題に直結する事柄について注力することが大切なのではないかと思うのです。もちろん、小さな問題をないがしろにしては、少しずつ戦前回帰が進んでしまうという考え方もあるでしょう。しかし、「戦い」というのは、戦力の逐次投入がもっともよくないとされているのです。大きな問題に力を結集すべきだと思う理由です。
 学校教育における大問題は何か、私は政治の介入を容易にした教委制度改革だと思っていますが。

 

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一部を浅くサラッと

2017-04-17 07:18:53 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「歴史教育」4月8日
 ノンフィクション作家保阪正康氏が、『近代日本は一枚岩ではない』という表題でコラムを書かれていました。その中で保阪氏は、『近代日本は薩摩・長州の両藩を軸とした国家であり、こうした権力にこうした勢力を改めて検証する必要もあろう。会津藩をはじめとして、賊藩とされた人の生き方、西南戦争での薩摩藩要人たちの屈折した心情、明治10年代の自由民権活動家たちの先進性、信仰に生きた人たちの精神構造、初期社会主義者の素朴な人間観、非戦・反戦を説いた知識人など、明治時代を取り上げただけでも多くの人間模様を抽出することができる』と書かれています。
 全くその通りだと思います。ところで、一般的な日本人の成人で、保阪氏が例示した事柄に関して、全てについて簡単な説明ができるという人はどれくらいいるのでしょうか。私自身はといえば、正直なところ余り自信はありません。なんとなくイメージで語ることはできそうですが、具体例を示してとなればお手上げです。
 失礼な言い方ですが、おそらく多くの日本人が私と同じレベルなのではないかと思います。彼らは、我が国ではだいぶ前に高校の進学率が9割を超えていますから、多くの成人が、小中高と日本史について学んできています。明治時代も3回以上、合計十数時間はまなんでいるはずです。それでもそんなものなのです。
 我が国では歴史教育について、長年議論が続いてきました。その代表的なものが自虐史観についてでした。戦後の歴史教育を自虐的だと批判する側からは、我が国は侵略国で多くの国を侵略しその国民を苦しめたという点ばかりが強調され自分の国に誇りをもてなくなっているという批判がなされます。南京大虐殺も、従軍慰安婦問題も、関連する事実について、いまだに確定した見解はないとう主張がなされています。一方、そうした動きを戦前回帰と非難する側からは、過去の歴史に目をつむり歴史を美化する態度からは真の反省も叡智も生まれないと批判の応酬がなされる、別の事実が提示されるという形です。そうした議論は、歴史について普通の知識しかもたない多数の人々からすれば、トランプ大統領の専売特許である、「もう一つの真実」に基づく実りない論争としか受け取れなくなっているように思えます。
 私はこのブログで、歴史と歴史学・研究と歴史教育の違いを指摘し続けてきました。歴史は多様で複雑な事実の集積です。それを全て学ぶことは不可能です。歴史学者といわれる人であっても、です。歴史学・研究は、膨大な事実の集積である歴史を、ある切り口、地域であったり、経済や政治などの分野であったり、室町や江戸、明治といった時代であったりしますが、そうした切り口でほんの一部だけを掘り下げるものです。
 そして歴史教育は、小学校で歴史への興味関心をもたせ、中高でおおまかなイメージを理解させ、自分なりの歴史への向き合い方の基礎を作らせることを目的としています。けっして、ある時代の歴史的な事象についてもれなく理解させることを目的とはしていないのです。そんなことは物理的にも、個人の能力的にも不可能なのです。保阪氏が述べるような教科書に掲載されているような基本的な事項でさえ、ごく薄くイメージすることがやっとなのですから。
 南京大虐殺も従軍慰安婦問題も、その全貌が細部まで明らかになることはありません。それでも少しでも前に進めることは必要です。そしてそれは歴史学・研究に携わる専門家の責務であり、学校で行われる歴史教育の守備範囲ではないのです。歴史教育は、あくまでも興味関心とイメージが中心なのです。それ以上を求めることは、どのような形になるにしろ、特定の立場からの知識注入か洗脳に陥ってしまうのです。
 保阪氏はコラムの後半で、「北海道学」の創設を構想なさっています。幕末から明治期の北海道における人間模様を整理し時代に残す取り組みです。期待したいものです。でももし仮に、歴史の学習は重要な史実は全て網羅すべきという主張をするならば、明治時代の学習は、冒頭に上げた事柄にさらに、明治の北海道学、九州学、東北学などがプラスされることになります。100時間掛けても足りません。
 歴史教育に、歴史学者の育成を求めてはいけないのです。

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嫌われる勇気

2017-04-16 08:20:45 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「子供ファースト」4月7日
 『都議選 再び小池旋風?』という見出しの特集記事が掲載されました。女性有識者3人による対談という形式でしたが、その中で、エッセイスト・タレント小島慶子氏の『「都民ファースト」という掛け声には、気をつけないと!威勢はいいですが、都民は1000万人以上います。利害関係や優先事項は一致しません。都民の誰をファーストにするかに注目しています』という発言に目がいきました。
 教委の幹部として新規採用教員の面接をしていたときのことを思い出したのです。彼らは、採用面接マニュアルでもあるかのように、「子供の立場に立って考える教員になりたい」「子供と同じ視線で、子供の気持ちの分かる教員を目指したい」などと話しました。いわば「子供ファースト」宣言です。そのとき私が感じていたのは、小島氏と同じ「子供は30人以上いるよ、子供の誰をファーストにするの」ということだったのです。
 学校の現実を知り、理想通りにはいかないよとうそぶくすれっからしのベテラン教員でも、「子供のことなんかどうでもいい、校長や同僚の目にどう映っているかが大事なんだ」などとは思っていません。教員生活30年であっても、子供ファーストであることに変わりはないのです。ただ、実際には、子供たちの中に、様々な思いや願い、心情があり、子供ファーストという信条に忠実であろうとすればするほど、その中で立ち往生してしまうということを知っているからこそ、大きな声で「子供ファースト」を口にしないだけなのです。
 いじめ問題が発生したとします。被害者は自分が訴えたとは思われずに解決してくれることを望みます。加害者は、被害者にも問題があり、自分たちばかりが責められるのは不当だと考えています。傍観者の中には、自分は関わりたくないが、教員の力で何とか被害者を助けてあげてほしいと考える者もいれば、加害者に反感をもちこっぴどくやっつけてやれと考える者もおり、さらに被害者が大袈裟なんだと批判的な者もいれば、学校には勉強しにきているのだからいじめなんかどうでもいいからちゃんと授業をしてくれという者もいるのです。この複雑なパズルを、子供ファーストで解こうとすると、誰かの思いを無視したり否定したりしなければならないのです。つまり、曖昧な子供ファーストでは、事態は動かないのです。
 いじめ問題では、被害者ファーストが原則とされています。何人の子供が「私たちのことはファーストじゃないんだ」と不満をもとうが、この原則を押し通すしかないのです。一時的には、不満を感じた子供たちは教員を敵視し、嫌うことがあるでしょう。そんなとき迎合して子供に阿るのではなく、嫌われる勇気をもつことも教員に必要な資質なのです。
 そして逆説的になりますが、嫌われる勇気をもって原則を貫く教員の方が、八方美人の子供ファースト教員よりも、最終的には信頼されるのが、教職の真実なのです。

 

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携帯電話で問題解決

2017-04-15 07:40:35 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「ではどうすればよかった」4月5日
 『講師、教室にバリケード』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、『女児が授業中、「帰りたい」と教室から出たがった。クラス担任だった講師が他の教員の助けを求めるため教室を出る際、女児がそのまま帰ってしまわないよう、クラスの児童に指示して机や椅子を教室の前後の出入り口に並べさせた』『別の日には、授業中に教室から出た女児の上履きが脱げ、そのまま3、4時間目を靴下で過ごさせた。講師は市教委に対し「女児を帰らせたくなかった。女児が上履きを履こうとしなかったため預かった」と話している』という対応が問題となっているそうです。
 確かに問題です。ただ、勘違いしてはいけないのは、結果として、女児が不登校状態になってしまったから問題になっているのではないとうことです。講師の対応がまずかったのです。とはいえ、講師の行動を非難するのは簡単ですが、では、どうすればよかったか、という問いに答えられなければ、講師を責めることはできません。おそらくこの講師なりにいろいろと考えたのだとは思いますが、焦りもあり、バリケード建設という暴挙に出てしまったのでしょう。
 さて、女児をそのまま帰すのは論外です。学校を出た後事故に遭えば学校の責任ですし、保護者が在宅していない家庭の場合、無事に家についても、その後のことが不安です。女児が学校を出た後で保護者に連絡するにしても、「帰りたいといっているから帰らせた」では、納得は得られないでしょう。
 また、他の子供への影響を考えると、何の理由もなく帰りたいと言えば、好き勝手に帰宅できるという前例を作ることになり、単純に帰宅を認めることは望ましくありません。
 帰りたい理由をきちんと聞き取らなければなりませんが、そのためには別室に移動し、クラスの授業を他の教員に委ねるか、自分は授業を継続し、他の教員に聞き取りをしてもらう必要があります。ですから、講師が他の教員の助けを求めようとした判断は正しいのです。でも、講師が教室を離れれば、女児は勝手に帰ってしまうでしょう。それを阻止する必要があります。
 一つ考えられるのは、クラスの子供に短時間の自習を命じ、女児の手を引いて職員室なり隣の教室に行って助けをもめることです。ただこの方法は、女児が抵抗すれば職員室まで連れて行くのは困難ですし、隣の教室に行くのは、泣き叫ぶ女児の「醜態」を他のクラスの子供の目に触れさせるということになり、別の問題が生じる可能性があります。
 実は私も教員3年目に同じような経験をし困惑したことがあります。しかし、当時と異なり今は上手い手があります。教室内で携帯電話で職員室に電話を掛け、その場にいる教員に応援を頼むという方法です。それなら、女児を見守りながら、教室を離れることもなく、他の教員の手を借りることができるのです。
 上履きを履こうとしないケースも同様です。おそらくこの女児については、学年や学校内で指導上配慮を要する子供として共通認識ができていたはずですから、電話を掛け「お願いします」というだけで応援を得ることができたはずです。文明の利器は、こうした状況での対応の幅を広げることにも使えるのです。
 若い教員の皆さんは、咄嗟にこうした判断と行動が取れたでしょうか。

 

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教育勅語禁止は悪しき前例につながる

2017-04-14 07:49:51 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「禁止が望ましいのか」4月4日
 『戦前回帰疑念招き』という見出しの記事が掲載されました。『安倍政権が戦前の教育規範とされた「教育勅語」を学校教材として使用することを否定しない見解を文書で示し』たことについて、問題点を指摘する記事です。懸念はよく分かります。安倍首相という保守ということにに対する理解が浅い似非保守派の人物が長期政権を敷いていることへの不信が、疑念をかきたてているのでしょう。
 私も同じ疑念を共有します。ただ、教育勅語を教材として使用することは認められない、というような主張には反対です。それは、親孝行など大切な徳目が含まれているからというような理由ではなく、民主的かつ自由な社会の形成者の育成を目指す学校教育において、「○○はダメ」というような禁止事項は少ない方がよい、という単純な原則からです。
 我が国の歴史をふり返った場合、現代の価値観から見れば人権無視、人権抑圧としか評価できない事柄の連続です。聖徳太子の十七条憲法だって特定の価値観の押しつけですし、武家諸法度も慶安の御触書も、特定の生き方を強制する抑圧思想の賜です。大日本帝国憲法は国民主権を否定したトンデモ法ですし、治安維持法は希代の悪法です。だからといって、そうした歴史的な事実について触れてはいけないという政治家が現れれば、歴史を美化する反動政治家と批判を受けるはずです。
 教育勅語も同じです。明治時代に定められた当初においてでさえ、国家と天皇のためには我が身の安泰を考えるなという超国家主義的な内容に為政者からも疑問が出されたという経緯、非合理的な個人崇拝思想の注入につかわれ戦争遂行の道具とされた歴史、意味のよく分からない幼年時から暗唱という方法で叩き込まれた手法など、教育勅語の問題点について学ぶことは、現代の子供たちにとっても有意義なことであるはずです。
 また、親孝行や助け合いというそれ自体は否定されるべきではない価値のある徳目が、お国のために、という間違った目的を達成するために利用されるという構図は、今後も起こりうる意図的な世論誘導の典型的な形であり、こうした構造の欺瞞を見抜く目を養うことは必要なことです。
 もし、教育勅語を学校教育から完全に排除してしまえば、将来有能なアジテーターや洗脳者が現れたときに、「よく知らなかったけど、教育勅語っていう素晴らしいものがあるらしいよ」などと、無知ゆえに教育勅語を聖典視し、再び誤った道を選択する若者が出てくるかもしれないのです。
 また、教育勅語を使用禁止とすれば、それは教育行政における先例となり、後日、他の何か別の文書や考え方を禁止にすることへの道を開くことになるのです。それは、そのときの権力にとって都合の悪いものが恣意的に禁じられる危険性が増すということです。私にはそのことの方が恐ろしいという気がします。
 松野文部科学相は、『我が国の歴史の理解を深める観点から用いることには問題がないというのが答弁書の趣旨だ』と述べています。その通りに扱えばよいのです。もし、教育勅語を超国家主義、個人崇拝的な考え方の流布のために授業で扱うような教員や学校があれば、「それは」世論が裁くはずです。私はその程度には、世論もメディアも信用しています。もし、自分たち国民の良識が信じられないというのであれば、それは別の問題です。

 

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鳥だ、飛行機だ、……

2017-04-13 07:43:54 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「スーパーマン待望論」4月3日
 『明確な定義なく、認知度29%』という見出しの記事が掲載されました。海洋教育の充実を求める記事です。記事によると、『海洋教育は、海洋基本法や海洋基本計画で「海洋に関する幅広い知識を有する人材の育成に取り組む」などと、推進が掲げられてきた』にもかかわらず、『海洋教育の認知度は29%にとどまった』という現状だそうです。
 こうした現状を受け、海洋政策研究所副部長酒井英次氏は、『普及には先進事例を共有する仕組みの整備や発表の場の充実、教員の育成が急務だ』と指摘なさっています。こうした主張を目にする度に、教員、特に小学校の教員をなんだと思っているのか、という疑問がわいてきます。正式教科となった英語のついても学び、プログラミング教育のためにはプログラミングの初歩的なこと具体は身に着けるようにといわれ、そして海洋についても新たに知識習得に励めというわけです。こうした主張をする人たちは、もし自分にそうした要求がされた場合、きちんと応えることができると考えているのでしょうか。
 もちろん、この3点だけをマスターすればよいというのであれば可能でしょう。しかし実際には、世界一多忙といわれる職務をこなし、モンスターペアレンツへの対応に長時間を費やす中で、新たな課題を克服していかなくてはならないのです。専門職である以上当たり前ではないか、と言う人もいるかもしれません。私も専門家としての誇りをもってそのとおりと応えたい気持ちはあります。
 でも、我が国の伝統文化を、金融教育を、がん教育を、LGBT理解教育を、薬物教育を、と毎年のように次々と新しい課題が導入されているのが現状なのです。おそらく、今後も自分の専門分野だけの狭い視野から、「○○教育を学校で」ともっともらしい顔で主張する有識者が次々と現れることでしょう。
 我が国の教員たちはまじめで責任感が強い人が大半を占めています。一部に「指導力不足教員」が存在するのは事実ですが、多くの教員は高い能力を有してもいます。それだからこそ、求められたことに必死で応えようとし、疲弊していってしまうのです。教員はスーパーマンではありません。普通の人たちです。普通の人である教員に何を求めるべきか、永続的な学校教育を構想するには、そこから考えることが必要です。

 

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負担軽減というけれど

2017-04-12 07:46:46 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「負担軽減」4月3日
 三森輝久記者が『英語嫌いを作らない』という表題でコラムを書かれていました。その中で三森氏は、『外国語指導助手を増やして教員の負担を減らす』ということを主張なさっています。似たような意見をよく目にします。おそらく多くの人が三森氏の主張をもっともだと感じているのではないかと推測されます。
 私も、外国語指導助手の活用に反対ではありません。しかしその理由は三森氏とは異なります。聞く・話すに重点をおく以上、ネイティブに近い発語ができる指導助手の配置が教育的な効果を高める上で重要となるからです。しかしその一方で、指導助手の配置によって教員の負担が減るという発想には同意できないと考えています。
 小学校高学年で正式な教科となった英語は、保護者の関心も高く、成績をつけるにあたっては厳密な基準の設定とその基準に基づく客観的な評価が求められることになるはずです。特に、国私立の中学校への進学を考えている子供や保護者にとっては、深刻な問題となります。名門私立中学の中には英語を他の教科よりも重視するところもありますし、内申書という形で合否に直接影響を与えると考えているはずだからです。
 ですから、指導助手にも、学習指導要領への理解、学校としての指導計画への理解、それに基づいて毎時間ごとのねらいと評価の場、評価の視点、評価基準、評価方法、その記録と記録の累積について、きちんと理解させておくことが必要となります。また、積極的に発言する子供、分かっていても挙手しないが指名すれば正答する子供など、一人一人の子供個性についても理解しておくことが必要となります。何となく印象で評価するというような曖昧なことでは、保護者からの疑問や苦情には対応できないでしょう。
 担任は、指導助手との打ち合わせや理解が浅い点についての指導などの多くの時間を割かなければならないのです。このことに要する時間と労力は決して無視できるような軽微なものではありません。また、指導助手に、単に英語が達者であるというだけでなく、上記のような責任を理解した上で志望してくれる人が集められるのかということを考えると、実際の連絡・調整・指導に苦慮する学校も出るはずです。
 本当に負担軽減を言うのであれば、英語の授業は指導助手に丸投げ、という形しかないのですが、それは制度上不可能です。ですから、実際には指導助手を指導しながら教員が多くの負担を抱えて授業に臨む、という在り方しかないのです。けっして、「指導助手がいるから先生も楽だよね」というような見方をしてほしくありません。それは教員を苦しめるだけです。

 

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良い変化or悪い変化

2017-04-11 07:44:51 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「隔世の感」4月1日
 『「赤旗」に元号復活』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、『「しんぶん赤旗」が1日付紙面で、1989年以来、28年ぶりに元号表記を復活させた。天皇制と関係が深い元号を国民に強制すべきではないとの立場だったが、「西暦を平成に換算するのが煩わしい」という読者の声が増え、柔軟路線に転じた』とのことです。
 この記事を読んで思い出したことがあります。私が都教委で統括指導主事をしていたとき、私が実質的な責任者であった発行物について、同じ教委内の部署である多摩教育事務所から苦情があったのです。それは、元号の後に西暦が( )書きで併記されているということについてでした。
 当時、都内でも多摩地区は職員団体の活動が盛んで、国旗国歌問題と関連して、天皇制を前提にした元号表記を廃止すべきという運動が行われていました。多摩教育事務所は、彼らと真っ向からぶつかり合っていた最前線だったのです。それなのに後方部隊にあたる私たちの発行する文書が元号表記だけでなく、西暦を併記していたのは、味方に後ろから撃たれたようなものだというわけです。
 私としては、教委以外の首長部局の発行物は、西暦併記でしたし、私が実質責任者であった発行物においても前年度まで併記だったこともあり、正直なところ「何でそんな文句を言われなくてはならないんだ」という気分でしたが、謝罪し次号からは併記を止めることで事態を収拾しました。
 赤旗は共産党の新聞ですし、共産党は全教と密接な関係にあります。その赤旗が元号併記なんて、まさに隔世の感です。しかもこれは赤旗=共産党という組織に限定されたことではなく、その周辺や外部にいる読者たち、即ち共産党員になるところまでは踏み切れないが、選挙では共産党の候補の投票する程度には親近感を感じるというより広範な革新層の意識の変化を示していると考えることができます。
 人々の意識の変化は、労組の中でも最も反体制的と言われてきた教職員団体の体質や行動、主張を変えていくのでしょうか。そうであれば、教委の在り方、校長等の学校管理職の在り方も変わっていくはずです。大筋としては学校経営正常化の方向に向かうと思われますが、昨今の右傾化を考えると、ブレーキ役をなくして暴走する懸念もなしとはいえません。その功罪を注意深く見つめて適切な対応を取る必要があります。

 

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騒乱、再び

2017-04-10 07:42:27 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題


「闘争再び?」4月1日
 『保育所で「国歌」厚労省正式決定』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、『厚生労働省は31日、3歳児以上を対象に、保育現場で国歌に「親しむ」と初めて明記する保育所の運営指針を正式決定した』とのことです。幼稚園の教育要領との整合性を図るための措置だということですが、気になります。
 今回、保育園でも行事等で国旗や国歌に親しむということになったとき、現場ではどのような「運動」が行われるのか、というのが気になる点です。日教組や全教が、卒業式等での国旗掲揚、国歌斉唱に反対し、行政側と争い、一部地域では法廷闘争が今も続いていることは周知の通りです。公立の保育所の保育士たちは、公務員です。身分が保障され、雇用主の倒産もない公務員は、民間企業の従業員に比べて、組合活動が激しいというのは定説になっています。それだけに、今後、学校と同じように、職員と管理職の間で多くの軋轢が生じ、社会問題化するのかということが気になるのです。
 私が教委で幼稚園の担当をしていたとき、卒園式に来賓として出席することが度々ありました。私の勤務していた区は、いわゆる教職員団体の活動が活発で、卒業式の時期には反国旗国歌闘争が盛り上がるのが常でした。そんな中、同じ「学校」(幼稚園は学校教育法第1条に定める学校)であっても、幼稚園ではそうした活動は低調で、幼稚園の管理職たちは、国旗も国歌も問題ありません、と胸を張っていたものでした。保育所も同じなのでしょうか。
 一方で、森友学園の幼稚園において、教育勅語の暗唱が行われていたように、幼児教育においても戦前回帰的な動きが目立ち、それへの批判も高まっていることから、保護者やメディアなど外部を巻き込んで大きな動きになるのか、注目したいと思います。
 長年の日教組や全教への対応で鍛え上げられた教委の幹部とは異なり、保育所を管轄する厚生課等の管理職の中には、国旗や国歌について十分な説明が出来ない者も少なくないはずです。また、近年労働運動が低調になる中で、保育士を共同戦線煮立たせることができれば、運動の回復につながるという職員団体側の思惑があるのかも注目したい点です。
 もし静穏なままで何も起きなければ、それはそれで同じ公務員の団体とはいえ、教職員団体だけが特殊な戦闘性をもつということが明らかになるわけです。興味深いです。

 

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