「個性?」2月4日
『吃音が問うもの 1/100人の障害 嘲笑 心折れ不登校』という見出しの特集記事が掲載されました。『人と話すことは嫌いじゃないんですけど、笑われるのは怖いんです』と語る通信高校1年、川田亮一(仮名)氏を取り上げた記事です。
川田氏の苦しんだ経緯にも心をうたれましたが、私が注目したのは、全国言友会連絡協議会の中村泰介氏の言葉でした。『悩みの渦中にある子供にとって大人のアドバイスは響かないことが多い』『「吃音は個性だから気にしないで」と子供を励まそうとするケースは少なくないが、「これは大人になり、吃音の悩みを克服できてこそ言えるワードです」』という発言です。
とても納得できる内容だと感じました。私は一般的に「不利」とされる状態にある人に対し、それも個性という趣旨の言葉をかけることに違和感を抱いていました。視覚障害や聴覚障害のある人に「それもあなたらしさだよ」という意味の言葉をかけることは、私にはできません。私が言われる立場だとしたら、とても不快だからです。
LGBTQなどの性的少数者に、「それがあなたの個性なんだから胸を張っていればいいんだよ」と声を掛けるのも躊躇ってしまいます。当事者たちの悩みや苦しみの歩みを知ることも、想像できることもできない私が、そんな平板な言葉掛けをする資格があるのか、と思ってしまうのです。
理解に時間がかかり成績が低迷している子供、運動が苦手で逆上がりも跳び箱もできず自尊心を傷つけられている子供、6年生になっても慎重が110cmしかなく1年生と間違われてしまう子供、彼らに「それも個性」とは口を避けても言えません。そんな声かけは、彼らにとって「バカにしているの?」としか受け取られません。
個性尊重の教育、個を大切にした教育、個性を伸ばす教育、言い方は様々ですが、ここ30年、学校教育は、「個性」という言葉抜きには語ることが出来ない状況でした。心身障害教育は、特別支援教育という名称に変わりました。障「害」がある子供という否定的なイメージから脱却し、必要な支援をすれば障害という個性が花開くという発想でした。
一方で、個性尊重に関して、個性とは全て伸ばすべきもの、良きものなのか、望ましくない個性もあるのではないか、という問題提起もありました。成長にマイナスな枝を剪定するように、望ましくない個性は矯正することこそ教育の使命なのではないか、というような問いかけもあったのですが、いつの間にか悦論が出ないままうやむやになってしまった印象です。
安易に「それも個性」という言葉を使うことは、自分は多様性を認める良い人です、というアピールに堕してしまいます。「それも個性」はよく考えて使いたいものです。
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