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『完成の灯台の点灯者』の神示(後半部分)

2019-05-14 17:33:35 | 日記
【時が来た。今すべての病人は起つことが出来るのである。最早、あなたにとって病気は存在しない時が来たのである。二千年前、キリストが『汝の信仰によって汝の信ずる如くなれ』と云う唯一語で、遠隔の地にいる病人を癒やした其の真理が、すべての人類に開顕される時期(とき)が来たのである。『生長の家』を読み真理を知るだけで遠くにいて病気が治る事実を見よ。『生長の家』は今かの黙示録が予言した『完成の灯台』として人類の前に臨むのである。此の灯台より真理の光を受くるものは、創世記のエデンの楽園追放以後、人類を悩ましたところの『罪』と『病』と『死』との三暗黒を消尽するのである。光が近付くときすべての暗黒は消える。『真理』が近づく時、すべての『迷い』が消える。『迷』が消える時、『迷』の産物なる『罪』と『病』と『死』とは消える。疑わずに吾が光を受けよ。われは『完成の灯台』に灯を点ずるものである。(昭和6年1月15日神示)】
(参考 聖経『甘露の法雨』 谷口雅春 日本教文社) 

神が今ここに自己の内に働き給うという自覚が起るとき、一切の“心の迷い”も、その“迷い”から生じた結果も消滅する

2019-05-14 14:25:57 | 日記
「自己の内に“神の子”がはたらき給うという自覚が起こるとき、一切の“心の迷い”も、その“迷い”から生じた結果も消滅する」とアディントンは記している。
「自己の内に真理キリスト“神の子”宿る」
の自覚である。
この自覚は
私の場合は三正行の長期の継続で
徐々にできてきたものです。
自分の内に‟神の子”宿るという観念形成が
為されたわけです。
この本体が自己および環境を動かす主人公です。
ですので私の場合に関していえば
時間をかけての「観念形成」が
鍵でありました。
これが一番大事でした。
(奇蹟の時は今 アディントン・谷口雅春訳 日本教文社)
【普遍唯一者なる神に於いては治癒不可能な病気はないのである。存在するものは唯、神の完全さのみである。普遍唯一者なる大生命の中には、危険な症候もなければ、むつかしい容態もない。痛みも苦しみも存在しないのである。この神が今ここに自己の内に働き給うという自覚が起るとき、あたかも暗黒の室に光がとぼされると暗黒が消えるように、一切の“心の迷い”も、その“迷い”から生じた結果も消滅してしまうのである。“キリストの心”は“神の心”なのであり、「天(内)に於いても地(外)に於いてもすべての力はわれに与えられているのである」そして「われと父とは一体なり」の意識である。“この心”を自己のうちにあらしめるとき、人は光り輝く完全の衣装を身にまとうように、霊的想念を身にまとって護られていることになるのである。】

神想観は“既にある”完全な実相を“ただ”いただくのみ

2019-05-14 13:54:12 | 日記
“既にある”完全な実相は、
見えなくてもちゃんとあるものです。
だから、感謝してありがたくいただくことだけすればよいので、
“無我”になり切ることが必要だと言われています。。
我を捨てきって実相を観じたとき、
神我が流入してくるのだと言われています。
【神想観は「欲する事物を心に描いてそれを呼びだす方法」だと思われているかも知れないが、それ以上のものである。そんな現象的効果を予期するようなケチなサモシイ行法ではないのである。こう祈ったらこういう功徳が生ずるかしらと思いながら祈るのは、一種の妄想である。神想観は妄想観ではない。皆さんが映画を観るのはただ映画を観るためでしょう。そのように神想観は「“既にある”完全な実相」を“ただ”観ずるだけである。】
「“既にある”完全な実相」を“ただ”観ずるだけである、
ということが
特に大事なのだと思います。