憎しみというほどではないが、
それみたいなものを若干だが
感じることがないでもない。
私はそういうものを消去して
赦す気持ちになるには、
やはり神想観をして
実相を観じることが
一番であると、
思うのである。
(奇蹟の時は今 アディントン・谷口雅春訳 日本教文社)
【イエスが、導師として且つ神癒の媒介者として非常に効験をあらわしたのは、彼はすべてのものの基礎に“愛”を置いたからである。彼は『マタイ伝』第7章1~2節に「なんじらを審くな、審かれざらん為なり。己がさばく審判にて己がさばかれ、己がはかる量にて己も量らるべし」と言っているのである。われわれが裁きの廷(にわ)に立つときには、みずからを審くさばきを赦さなければならないのである。正しき審きとは如何なる審きであるかというと、その第一歩は、外見が如何に見えようとも、その外見を透過し、憎しみの壁を透過して、何よりもすべての人が、各々の人が、その中心生命に於いては“神の愛”に結ばれているのだということをみとめなければならないのである。その第二歩は、彼らの内に宿っている“神の愛”を喚び出だす働きを始めることである。それは恰(あたか)も井戸のポンプから水を引き揚げるのに“迎え水”を注ぎ込むように、彼らの立場に対して愛を注ぎ込むことによって、彼らの内にある愛が喚び出されて湧き出て来るように仕向けることである。愛することはむつかしく見える人に対して、しずかに黙念して次のように唱えるがよい。
「わが内に宿る愛、汝の内に宿る愛に対して敬意を表します」と。憎しみの心をもちながら、憎しみを克服しようと思ってもそれは甲斐なきことである。憎しみを以て立ち向えば、憎しみが連鎖的に返って来るのである。憎しみの連鎖は“愛”によって壊(やぶ)るほかはないのである。愛の槌をもって叩くことを絶えず繰返すならばついに憎しみの連鎖は断ち切られてしまうのである。】