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“神の子”を感謝でお受けすることが神の御心にかなう

2019-05-17 16:21:23 | 日記
実相を顕わし根本的な心の安心と平和を得るには
谷口雅春先生は
神相観を実修して
存在の実相と自己生命の実相とを正観する他はないと、
言い切っておられます。
「神の国」は人間一人一人の心の奥にあるので、
そういうことになるのかなと
思われます。
ところで私の体験では
今迄のところ、
次のように考えています。
「神想観は
神に対して(向かって)行うこと。
神に無我全托で
幼な子のように
実相の完全さ(実相円満完全)を
念じつつ感謝の気持ちでありがたくいただくこと」
を行なう。
自己の本体は“神の子”つまり“神”であるから
その素晴らしさを
ただお受けする。
このような存在として
創造の神は“神の子”をお創りくださっているからです。
遠慮する必要はなく、
むしろ有り難くお受けすることが
神の御心にかなうのです。

「みこころの如く成らしめ給え」と全托することで“自分”と“父”とが分ちがたく一体であることを素直に受けるのである

2019-05-17 10:27:30 | 日記
実相においてすべて与えられ済みであることを
自覚し、
その実を有り難く受けいただくとき、
“神の子”の有つ素晴らしさが
現象においても実現するのである。
(奇蹟の時は今 アディントン・谷口雅春訳 日本教文社)
【グレン・クラーク教授は、「わたしは神の意志を意志せんと欲す」というのが常であった。
われわれが「みこころの如く成らしめ給え」と全托するとき、われわれは問題から解放せられ、そして問題の解答がそこにあるのである。“みこころの天に成るが如く、地にもそのように”というのは、換言すれば、霊に於いても、精神に於いても、肉体に於いても、わたしは、わが存在の実相そのままの完全さを素直に受けるということを意味するのである。「天に於いて在るもの」というのは内在の神の目覚めを意味するのであって、その天に於いて在るものと自覚されるものが、地上の経験として現象世界にあらわれることを意味する。これによって“自分”と“父”とが分ちがたく一体であることを自分の心に克明に鏤刻(るこく)するのである。神との一体感が破れた感じがするのは、ただ吾々の側の理解の欠乏でしかないのである。「天に於けるが如く、その如く、地にも、あなたの完全なる御心が行なわれしめ給え」(『マタイ伝』大6章10節)である。】

神はわが生命に内在する唯一の力である

2019-05-17 10:10:11 | 日記
私は“神の子”であり神の世継であるのだから、
“神の子”が本来もっている“神”の力を自覚して顕わせれば、
肉体面のみならず環境世界を
素晴らしいものに
変えられるはずだ。
そのためには先ず真理を知る必要がある。
だから私たちは“生命の実相”“人間神の子”の真理を
つまり聖典・聖経を徹底的に読み、
実相と現象の関係を把握すべきである。
次に実相を現象化するために「観法」(祈り)を
しなければならない。
アディントンは
こことは別の箇所においてだが
「実相に絶対他力で無我全托」せよと
薦めている。
実相とは神の理念(観念)世界だ。
人間は“神の子”つまり“神”なんだから
その実を表現できれば
実相にある「神の子・神の国」を
発現できるはずである。
人間自身が“神の子”の無限力を発揮するのを
心で自縄自縛していることを
全部取っ払った時に、
宇宙に遍満する“神の子”の無限の力が
流れ入ってくるのだと告げられている。
全托についてのよくある思い違いは
「神の御心に全托」ということで
私を生かすも殺すも神様の御心にゆだねます、と全托することと
思っている場合があり
(私自身がちょっと前までそのように勘違いしていたのだが)、
それはとんでもない間違いであって、
「神の御心に全托」ということは
実相円満の「実相世界」の存在を
幼な児の如くありがたくいただきます、
感謝してお受けいたします、
というのが
「神の御心に全托」の
本当の意味であることは
『甘露の法雨』に
【汝ら、この『歪み』に捉われることなく、
生命の実相を正観せよ。
生命の実相を知る者は
因縁を超越して生命本来の歪みなき円相的自由を獲得せん。】
と書かれていることからも明らかである。
“生命の実相”を、
つまりいのちの樹の果実を
幼な子の如くそのまま感謝して受けとれば
よいのである。
アディントンも
キリストの「主の祈り」に
そのことが完全に説かれていると、
説いているのだ。(昨日の投稿に「主の祈り)を投稿)
(奇蹟の時は今 アディントン・谷口雅春訳 日本教文社)
【神はわが生命の内に存する唯一の力であるのである。内に宿る神の完全な生命は、外からする如何なるものも触れることはできないのである。過去に何があったにせよ、過去の経験の何ものも、私に対して支配権をもたないのである。私は神の子であり完全であり、何人が何を為そうとも、何を言おうとも、神の世継ぎとしてのわが完全さに干渉することはできないのである。わが生命の内に宿る神の力は、如何なる環境の影響力にも打ち勝つところの偉大なる力をもっているのである。神の力は神の世継である私の力であり、いつでも使うことができるのである。】
すべてこれらの事は
信仰的にみれば「心」の問題であり、
人間が現象の心を自分の心と思っている考え違いに気づき、
それを“実相の心”に入れ替えることによって
実相世界(神の子・神の国)が
実現することになるのであって、
真理ぬきの現象的愛行では
まったく
実相顕現に関しては
何もできないというのが
真実である。
真理なるかな、真理なるかな。