現象世界は実相の影であるから
影あるところ必ず本体(実相)が存在する。
「実相を観る」ということは
現象を見て見えない実相の本体を
心の眼で観るということである。
(奇蹟の時は今 アディントン 谷口雅春著)
<外の貌によって審くな、その外貌を貫き超えて内なる“生命”の実相を見よ>
【『ヨハネ伝』第7章24節に於いて、イエスは彼らに対して、「外の貌(かたち)によりて審くな、正しき審判によってさばけ」と教えていられるのである。イエスの行った神癒の奇蹟というものは、一つの例外もなく、外観を透過して、存在の真実に貫き入って、実相を見る能力に基づいて行われているのである。それだから、彼のこの“外貌によりて審くな、実相を見よ”という教えは、神癒の際の彼自身の体験より発した教訓だということができるのである。“外貌を見て審くな”ということは、砂漠の砂に頭を埋める駝鳥の如くあれということを意味するのではないのである。しかしながら、それは、現象的にはわれわれは外の貌を見ていてさえも、その外貌を貫き超えて内なる“生命”の実相を見よと教えていられるのである。】
<腕の麻痺した男がイエスの前にたったとき、イエスは、欠陥のない完全健康の人間を見たのであった>
【腕の麻痺した男がイエスの前にたったとき、イエスは“麻痺した腕”という現象を見なかったのであった。イエスは、欠陥のない完全健康の人間を見たのであった。だから“お前の手を延ばしなさい”と健康な人に対して使う言葉で言われたのであった。(『マタイ伝』第12章13節)その男は手を自由に伸ばすことが出来るということをイエスは寸毫も疑わなかったので、こんな言葉が出たのだった。】