gooブログはじめました!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

神想観は最高の悦び、最高の幸福

2019-05-13 10:09:26 | 日記
「神想観は最高の悦び、最高の幸福」と
谷口先生はお書きくださっている。
私はまだそこまでの心境に達してはいないが、
これは事実であるのだから、
その心境で神相観するつもりだ。
(詳説 神想観 谷口雅春 日本教文社)
【現象が如何にあろうとも、ひとたび眼をつぶって実相を観ずるとき、既にそこに無限の供給があり、無限の智慧と愛と生命と歓喜(よろこび)と調和との充満している世界があるのですから、そしてその実相の完全さは何人もこれを奪うことができないものですから、実相を観ずる悦びにくらべたならば、どんな他の喜びもこれにまさるものはないのであります。そしてこの神想観は自分が今、その実相円満の世界に坐して、神の生命が流れ入って、光明燦然と輝いている~その完全円満な金剛身を観ずるというのですから、こんなに素晴らしい幸福は他にないのであります。こうして実相の世界の完全さと、実相の人間の完全さを観想するだけでも既に無限の幸福でありますが、その善き想念を持続することによって現実世界に豊かにして調和せる世界が実現し、且つ健全なる身体が実現するのでありますから、実相、現象ともに成就する二重の幸福が得られるのであります。】





“人間神の子”の教えを生活の道として採用せられるか、否かが課題

2019-05-13 09:36:16 | 日記
“人間神の子”“仏の子”の教えを
生活の道として採用せられるか否かが、
人類全体にとってのただ一つの課題である。
マン女史は「真理キリスト」のことを
指しているのであるから、
私が公平に判断すると
キリスト教でも仏教でも他の宗教でもよいのであるが、
ただそれが「実相独在」の真理でなくてはならないのは
勿論である。
(祈りの科学 谷口雅春 日本教文社)
【マン女史はいう。「世界の前に唯一つの問題が提出されているのである。イエス・キリストの教えがすべての人に対する生活の道として採用せられるか、それとも亦吾々はイエス・キリストの教えを拒んで自分自身の選んだ道に従うことである。」
イエスの伝道の目的は愛一つであった。彼の話したたとえ話、彼自身の行いで、彼は人類に如何にすれば平和と救いとが来たるかということの模範を示したのである。もし吾々がキリストの教えをすべての人のための生活の道として受入れ、それに従って吾々自身が行動するならば、吾吾はこの人生を、この世界を祈りによって変化することができるのである。もし吾々がキリストを拒まないならば、吾々は彼の「汝ら互いに相愛せよ」の教えを受入れなければならない。もし吾々が忠実に人類を神の子の兄弟として愛することを実行するならば、その生活こそ祈りに生きる生活だといわなければならない。
しかしもし吾々がキリストを受入れることを拒むならばどうなるか。豊富の中に貧しさが現れる。食物が一方に於いてありあまっていながら一方に於いて飢える人が現れる。個人に於いては又色々の罪が現れる。家庭の不調和、離婚、姦淫、堕落・・・・等々。】
マン女史が
「キリストを受入れる」と書いているのは
肉体人間としてのキリストという意味ではないのであって、
「キリストの教え」ということであるから
「真理」キリストのことを指しているのである。
それは結局“生命の実相”のことになるのである。
また女史が「愛」と書いているのは「人類を神の子の兄弟として愛すること」
を 指して いるので
真理を自覚した上での愛であることは勿論である。
‟人間神の子”のみ教えによるしか、人類の救済はない、ということだ。