私たちが何をしているときでも
〝神の子”を離れることはない。
このことを「正法眼蔵」は
わかり易く説いてくれている。
(正法眼蔵を読む 坐禅箴の巻 谷口清超著)
<定相に非ず>
【そこで仏は定まった相を持たないでいて、しかもそれが一定の形をとるのであるから、坐禅を学ぶということが、そのまま坐仏となるのである。全てのものは一定の固定化した存在ではない。だから一体誰がどうやって「これは仏である」とか「これは仏でない」などと言えるであろう。そのような取捨選択はないのである。取捨そのものを前々から脱落(とつらく)しているから、坐仏である。】
私は〝神の子”であり、
理念(観念的存在)である。
私がどんな行動をしている時でも、
〝神の子”の反映(影)であるのである。
真象(実相の投影)であろうと
偽象(実相の不在即ち迷いの投影)であろうと、
現象の背後に〝神の子”が存在しているというのが
真理である。