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私たちが何をしているときでも 〝神の子”を離れることはない

2019-05-11 10:01:57 | 日記
私たちが何をしているときでも
〝神の子”を離れることはない。
このことを「正法眼蔵」は
わかり易く説いてくれている。

(正法眼蔵を読む 坐禅箴の巻 谷口清超著)
<定相に非ず>
 【そこで仏は定まった相を持たないでいて、しかもそれが一定の形をとるのであるから、坐禅を学ぶということが、そのまま坐仏となるのである。全てのものは一定の固定化した存在ではない。だから一体誰がどうやって「これは仏である」とか「これは仏でない」などと言えるであろう。そのような取捨選択はないのである。取捨そのものを前々から脱落(とつらく)しているから、坐仏である。】

私は〝神の子”であり、
理念(観念的存在)である。
私がどんな行動をしている時でも、
〝神の子”の反映(影)であるのである。
真象(実相の投影)であろうと
偽象(実相の不在即ち迷いの投影)であろうと、
現象の背後に〝神の子”が存在しているというのが
真理である。

神想観は「ハイハイ有難うございます」なり、絶対他力への帰命信頼の表白なり

2019-05-11 09:26:14 | 日記
(詳説 神想観 谷口雅春 日本教文社)
【神想観の修行というのは「ハイハイ有難うございます」の修行なので少しも難しいことはないのであります。「お前は神の子だ」と自分の心に呼んで「ハイハイ、私は神の子でございます。有難うございます」と受ける行事が神想観なのであります。神想観において「神の生命が割(さ)き延(は)えられて、自分に流れ入って神の生命が自分の生命となる」と観じながら静かに息を吸うのは、「お前は神の子だ」と自分自身に対して呼びかけ、その事実に対して注意を促していると同様なのであります。次に静かに腹中に息を湛えながら、「神の生命に満たされている、生かされている」と観ずるのは「ハイハイ、私は神の子でございます。有難うございます」と素直に受ける事なのであります。その間に何等の理屈もない。議論もない。ただ事実の実相を素直に受けるほかに何もないのであります。】
私は少し前までは、
神想観において
観の中に入り込むことさえも
難しさを感じていた人間であります。
でも上のご文章にあるみたいに
ただ「私は神の子です。ありがとうございます」を
肩に力を入れずに言えるようになってきたのは、
真理的に
そうだ自分は“神の子”なのだ、“神”であるのだと
分ってきたことと、
自分の中に一点とした存在で
“神の子”が実在していることを
実感できるようになってきたからなのです。


一念不動(神を求める瞑想)

2019-05-11 09:08:32 | 日記
私の現在の信仰上の精神状態は
ちょうどホルムスとその翻訳者谷口雅春先生が
以下にお書きくださっているものと
よく似ている。
この本にはこうした神を求める信仰者の心の状態の推移とその求める真理内容が
実にくわしく書かれているので、
まるで自分のことのように思い
とても参考になる。
(心と運命 谷口雅春 日本教文社)
【此処に注意すべきは、上記の如き黙念~即ち自己が神を知り神を自覚することを決然宣告する意味の瞑想~は或る一定時に限ってのみ行うべきものでもなく、或る瞬間だけその自覚を求めたら好いと云う風なものでもないと云うことである。吾等は生ける神の存在を感ずるように、常に自己を訓練しなければならないのである。吾等は此の自己訓練が中世期の聖者ブラザー・ローレンスの生活に驚く程完全に実現されたのを見るのである。彼は「神の実在を直感するように、自己訓練をなすことは、聖浄生活の最大の清規である」と云っている。彼は浮動する雑念を幾度も幾度も引きしめ引き戻して「神は現前したまう」と云う一念に精神を集注したのである。】