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一切の存在は生滅をこえたものであると見究め得たならばどこもかしこも清浄になる。それが仏である。

2019-05-03 09:08:26 | 日記
たった今私は畳の部屋で
椅子に座してパソコンをたたいている。
夜の9時だ。
左手の方にはテレビが置いてあるが
今はそれは見てはいない。
右手の方には
もう蒲団をしいて
寝る準備はしてある。
この私の現在の状況は
私が雑念やひっかかる心配もなく
澄んだ心の状態でパソコン打ちできているので、
一枚の「私の心」と言える。
朝から晩まで
いろんな情景が現れては消えたが
ぜんぶ「心」の連続だ。
もっと明確に書けば
「神の心」(実相)の顕現である。
だから「そのままの心を大切にすべし」である。
「そのままの心」であるとき、
「実相即現象」となり、
「神の心」と「神の心の顕現」が
本来の形で(実相の不在というもののない形で)
顕われ出るのである。
だがこの心境になるには
いったんは「現象に実体はナイ」(空)の真理が
真理として分る必要がある。
「現象非実在」なら何があるのかということで
「実相がある」ということに
なるからである。
「実相の顕現」として
「実相がある」のである。
「実相の顕現」(現象)の中に
「実相が貫通している。

(参考 臨済録 朝比奈宗源 タチバナ教養文庫)

【問う、
「仏と魔とはどんなものですか。」
師は言った。
お前に一念の疑いが起ればそれが魔である。お前がもし一切の存在は生滅をこえたものであると見究め得たならば、差別する心は幻のようなものとわかり、十方世界に塵一つなく、どこもかしこも清浄になる。それが仏である。もともと、仏と魔とは、一心の悟りと迷いの両面である。わしの見解で言えば、仏も無く衆生も無く、過去も無く現在もない。気がついてみればみなそのまま仏である。仏に成るために手間暇はかからない。修行すべきものも無く、悟るべきものもない。得たということも無く、失うということも無い。朝から晩まで晩から朝まで自己一枚だ。たとい、なにかこれに勝るものがあるとしても、わしはそんなものは夢か幻だと断言する。わしの説くところには少しのまやかしも無い。お前たち、現に今ここで、何の助けも借りずにはっきりとわしの話を聞くもの、この「人」こそいかなる境界に行っても少しも滞らず、十方に通貫して、三界に自由なのだ。どんな差別の境界に行っても少しも影響されない。】