新新約聖書「ルカによる福音書」 2019-05-18 11:00:59 | 日記 新新約聖書「ルカによる福音書」 第10章 72人を派遣する 7 その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。働く者が報酬を受けるのは当然だからである。家から家へと渡り歩くな。
立ち向かう人の心は鏡 2019-05-18 10:36:04 | 日記 「立ち向かう人の心は鏡」 という三界唯心の真理を ピシャリと説明している好例のご文章がありました。 (参考 真理第一巻 第26章 願望を成就するには) 【<相手の心はこちらの心の反映> そのうちにその婦人の夫が云うのに、 「お前は今までは叔母さんの悪口を、寄るとさわると言っておったが、このごろでは話をすると、叔母さんを褒めてばかりいるね。 「だって、あの叔母さんはつきあってみると実にいい人なんです。」こう云う会話がかわされるようになったのです。本当に立ち向う人の心は鏡なのです。こちらが無条件に深切をつくすのだから向うからも深切をするということになって、無条件に好い叔母さんに変ってしまったのです。つまり自分が深切を与えると向うからも深切を与える~「与えれば与えられる」であります。】
人間力の極限に達したときが神のお蔭の機会である 2019-05-18 09:29:42 | 日記 「人間力の極限に達したときが神のお蔭の機会である」 ということを 次の詩がよく表現している。 この詩で神癒が起こったケースがあると アディントンは書いている。 ただこの詩の作者がアディントン本人であるのか それともそうでないのかは、 この本に書いてある文章のみでは 読んで私には理解しがたい。 (奇蹟の時は今 アディントン・谷口雅春訳 日本教文社) 【わたしは光である 神はその光を通して輝き給う。 それは神と私とは“二”にあらず 一体であるからである。 わが居るところ、そして常に 神はわれを通して意志し給う。 わたしは恐れることも みずから意志することも 計らうことも必要ではないのである。 されど、もしわたしが 絶対他力の無我全托の 力みなく、そのままの心になれば 神は、神みずからの“はからい”を わたしを通して実現し給うのである。】 この詩は神がいつ顕われるかを 分りやすく表現しているが、 人間力の極限に達した時に顕われる、 ということは 事実だと思うがきびしいものがあると 私は思わざるを得ない。 そのような時自体が 普通訪れるものではないからだ。
神は「み名」“人間神の子”を信じた人々には、神の子となる力を与えている 2019-05-18 09:18:40 | 日記 初めに新約聖書のヨハネ伝第一章9~13をごらんください。 (参考 新約聖書 1954年改訳 日本聖書協会) <ヨハネによる福音書第一章9~13> 「すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受け入れなかった。しかし、彼を受け入れた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。」 現象世界は神の言(ロゴス)であり、 人間の本体(生命の実相)であるという真理が 上の聖句全体を貫いていることに注目です。 ここに「その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えた」 とあります。 “その名”と言う言葉でありますが、 新約聖書略解によれば、 【「名を信じる」とは、(神のロゴス〔言葉〕であるというイエスの人柄、または人格と力とをさす)ことを信じること】 との説明があり、 【「イエスの名を信じる」とはイエスが神の子であることを信じるの意】 とありました。 つまり イエス・キリストが“生命の実相”であり“神の子”であることを信じた人は 自分もキリスト(真理)それ自体であることを悟ることになるので 神の子となる権利を与えられる、 とヨハネ伝は説くのであります。 また「主の祈り」にある、 【天にまします我らの父よ。 願わくは御名(みな)をあがめさせたまえ。】という部分は 既にある“生命の実相”“神の子”を あがめ受け入れることを実現させてください、 という意味に 受け取れるのです。 つまり現象人間としての私たちは 「み名を信じる」ことによって 神の子としての幸福な生活を得られるのであると、 本当のキリスト教は 説いているのである。 人間の“生命の実相”が現象世界の本体であるという大真理を 埋めさせてはならず、 伝え広めていかねばならないのである。 それは私たちの仕事だ。