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“神の子”(実相人間)の働き

2019-05-07 10:00:30 | 日記

すべての人間において

その人およびその人の環境世界(境)に

つまり時間空間スクリーンに

その人の“神の子”(実相人間)が

影として働き出る。

“神の子”とは(生きた)理念(観念)であって

それが自他一体なる実相人間として

縦横無尽のはたらきをする。

それは「円満完全大調和」だから

現象展開「空」を通貫して観れば

「神の子・神の国」が貫かれているが、

一人一人の現象我を通して

「心」は展開されるので、

現象的には「心仏衆生三者無差別」で

地獄をも極楽をも顕わすが、

「神の心」(実相世界)は

ちゃんと現象の奥にある。

「現成公案」と言って

現象世界は実相円満世界の展開である。

長い長い時間というスパンから観てである。

現象は心の反映であるから。

私は朝から現在の夜8時まで

色々な環境の変化があり、

いろんな人物が現れたり消えたりしたが、

それらすべては

“神の子”(実相人間)の

働きなのである。

環境を用いて

見えない“神の子”が

活動したのである。

因みに“神の子”とは

本当の自分である。

実相の世界は自他一体である。

(参考 臨済録 朝比奈宗源 タチバナ教養文庫)

【わしのところでは修行者が出家であると在家であるとは問題ない。どんな修行者が現れても、一目でその胸中を見抜いてしまう。たとえ彼がどんな境界から出て来ても、そんなものは名相(みょうそう)や概念であって夢幻にすぎない。ところがその境を用いている人こそ三世諸仏の玄旨~無依の道人である。仏の境界が自らわしが仏の境界だなどとは言い得ない。この無依の道人が境を用いて出てくるのだ。もし、誰かがわし(すなわち無依の道人)に仏を求めたならば、わしは清浄の境となって現れる。もし菩薩を問うたならば、わしは慈悲の境となって現れる。もし菩提を問うたならば、わしは清浄微妙の境として現れる。もし涅槃を問うたならば、わしは寂静の境として現れる。その境は千差万別であるが、無依の道人はただ一人だ。それだから、相手に応じて形を現すその様子は、ちょうど天上の月がすべての水に映るように自由なものだ。】

必要なる全てのものは“すでに”与えられているという堅信をもたなければならないのである

2019-05-07 09:09:38 | 日記
(参考 祈りの科学 谷口雅春 日本教文社)
「まことなる願い」は、
すでにそれが実在の世界に体験されている事実であるから
魂の深き願いとして吾々の心の世界に浮び上がって来るものだ
と谷口先生は説く。
それを現象界に現すには強烈な信仰によって波長を合わせればよいのである、
ということだ。ならば
神相観で波長を合わせよう。
【吾々は、人間に必要なる全てのものは“すでに”与えられているという堅信をもたなければならないのである。その信念を起こすためには吾々の魂の奥底から浮び上って来る所の「まことなる願い」は、すでにそれが実在の世界に体験されている事実であるから魂の深き願いとして吾々の心の世界に浮び上がって来るものだということを知らなければならないのである。体験のないものは決して願い求める希望は起らないのである。煙草(たばこ)を吸った体験のないものには煙草をすいたいという切実な願い求めが起らないようにである。その如く吾々の魂の奥底から真にかくありたいという願い求めが起ってくるのは、実相の世界に「既にかくある」体験があるからであって、ただそれを現象界に現すには強烈な信仰によってただ波長を合わせればよいのである。】