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2019年5月勉強会資料

2019-05-16 12:45:55 | 日記
表面の自我の無力さを自覚してこれを抛棄したとき、奥底の自我(天の父)が表面活動に入り、大いなる業(わざ)を成就する
2019/5/19
「無我全托」の境地になった時に
「神」が顕われます。
ただこの「無我全托」の境地になること自体が
私には簡単ではなかったです。
ここが実は神想観のポイントなのではないかと
私には感じられます。
(参考 神想観の神髄 谷口雅春)
【「自己の内に宿る仏性」又は「汝の内に宿るキリスト」と言う場合の「内」とは、「肉体の内」ではないのである。わが存在の深奥なるところに、現象の自分の想念が波立てども、決して波立たずに、深く一切を湛えて不動にしてそのまま一切をあらわすところの根源的な存在があるのである。すべての善きものは悉く、この深く湛える根源より発するのである。これをキリストは「天の父」と称したのであり、その「天の父」のまします「わが存在の深奥なるところ」を「神の国」と称したのであり、「神の国は汝の内にあり」と喝破されたのである。キリストが「我れみずからにては何事をも為し得ず、天の父われに在して御業を為さしめ給うなり」と言ったところの「何事をもなし得ない我みずから」とは、波立ちさわぐ表面の自我であり、その表面の自我の無力さを自覚してこれを抛棄したとき、内面の深く湛える奥底の自我(天の父)が表面活動に入り、大いなる業(わざ)を成就するのである。】

御国に成るところの全ては今われらの内に
2019/5/16
はじめに聖経『甘露の法雨』の
この箇所をごらんください。
(参考 甘露の法雨)
【キリストは
『神の国は汝らの内にあり』と云い給えり。
誠に誠にわれ汝らに告げん。
『汝らの内とは汝ら『人間の自性』なり、『真の人間』なり。
『汝らの内』即ち『自性』は神人なるが故に
『汝らの内』にのみ神の国はあるなり。
外にこれを負い求むる者は夢を追いて走る者にして
永遠に神の国を得る事能わず。
物質に神の国を追い求むる者は
夢を追うて走る者にして
永遠に神の国を建つり事能わず。】
【キリストは又云い給えり、
『吾が国は此の世の国にあらず』と。
此の世の国は唯影にすぎざるなり。
常楽の国土は内にのみあり、
内に常楽の国土を自覚してのみ
外に常楽の国土は其の映しとして顕現せん。】
次にキリスト教の牧師として宣教されたアディントン氏の
以上の「聖経甘露の法雨」の内容と合致している以下のご文章を
ごらんください。
(奇蹟の時は今 アディントン・谷口雅春訳 日本教文社)
<キリストは“今此処に”神の国は“われらの内に”あると言ったのであった>
【パリサイ人はイエスに対して“神の国は何時来るか”ということを話してくれるように求めた。そのときイエスは“神の国は視える姿をもって来たるのではない。神の国は、此処に見よ、彼処に見よというが如くに来たるのではない。見よ、神の国は汝の内に在り”(『ルカ伝』第17章20~21節)と答えたのであった。イエスはこれ以上に解りやすく答えることができたであろうか。彼は“神の国”の所在を示したのであった。言い換えれば、“今此処に”神の国は“われらの内に”あると言ったのであった。】
<天国とは一種の心の状態をいうのであって、神の力が今此処にわれらと共に現前し給うという自覚を指すのである>
【天国とは或る一定の場所ではないのである。しかし一種の心の状態をいうのであって、神の力が今此処にわれらと共に現前し給うという自覚を指すのである。そのことはこの偉大なる“主の祈り”に如何にもハッキリとあらわれているのである。神はわれわれすべては同じ父を分ちもつのである、それだから“天にまします吾らの父よ”と呼ぶ。神はわれわれ皆のいのちの本源であり、創造主である。そしてその自覚の領域が神の国であり、それは常にわれらの内にある天国である。ひとたびこの“主の祈り”に秘められたる意味を理解するとき、わたしたちは自分自身を自己の内にある神の完全な力から離れていると考えていることはできなくなるのである。】
アディントン氏は上の文章で「主の祈り」に触れているので、
「主の祈り」を参考のために掲載する。
<主の祈り>
【天にまします我らの父よ。
願わくは御名(みな)をあがめさせたまえ。
御国(みくに)を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、
地にもなさせたまえ。
我らの日用(にちよう)の糧(かて)を
今日も与えたまえ。
我らに罪を犯すものを我らが赦(ゆる)すごとく、
我らの罪をも赦したまえ。
我らを試(こころ)みにあわせず、
悪より救いいだしたまえ。
国と力と栄えとは、
限りなく汝(なんじ)のものなればなり。
アーメン。】

「人間は天にても地にても一切(すべて)の権を与えられている」と、イエス自身が言ったのである
2019-05-15
イエス自身の語った言葉として
人間は
実相世界においても
現象世界においても
一切の権を与えられているということである。
人間は“神の子”であるからである。
イエス自身が語った言葉であるということに
私は力強い感じを受けているのである。
教会キリスト教はこの真理を理解していないと思われるが、
実はキリスト教の真髄である。
【宇宙に普遍する太霊の力とは何であるか。‟太霊の力“とは神が‟もち給い”、神が‟あり給う”全ての力即ち普遍者であり、全智者であり、全能者であるその全徳を包容する総括的名辞である。普遍者であるということは到るところに遍在し給うということであり、全智であるということは、すべてを知り給うということであり、あらゆる智慧と知性のはたらきを全包容的に有(も)ち給うことである。全能ということはあらゆる力をもち給うことである。全能ということはあらゆる力をもち給うということである。『マタイ伝』第28章18節にイエスは「我は天にても地にても一切(すべて)の権を与えられたり」といっていられる。これは神の全能について最もよく理解している人の言葉なのである。イエスの意味せられたるところは、天に於いて人間は無限の力を行使するを得る権を与えられているのである。そして、その“天”即ち‟神の国“についてイエスは‟神の国は汝の内にあり”とハッキリと定義せられたのであるから、自己の内にある無限の力は、“地”即ち汝の外なる表現の世界に於いても与えられているという意味なのである。】

神が今ここに自己の内に働き給うという自覚が起るとき、一切の“心の迷い”も、その“迷い”から生じた結果も消滅する
2019-05-14
「自己の内に“神の子”がはたらき給うという自覚が起こるとき、一切の“心の迷い”も、その“迷い”から生じた結果も消滅する」とアディントンは記している。
「自己の内に真理キリスト“神の子”宿る」
の自覚である。
この自覚は
私の場合は三正行の長期の継続で
徐々にできてきたものです。
自分の内に‟神の子”宿るという観念形成が
為されたわけです。
この本体が自己および環境を動かす主人公です。
ですので私の場合に関していえば
時間をかけての「観念形成」が
鍵でありました。
これが一番大事でした。
(奇蹟の時は今 アディントン・谷口雅春訳 日本教文社)
【普遍唯一者なる神に於いては治癒不可能な病気はないのである。存在するものは唯、神の完全さのみである。普遍唯一者なる大生命の中には、危険な症候もなければ、むつかしい容態もない。痛みも苦しみも存在しないのである。この神が今ここに自己の内に働き給うという自覚が起るとき、あたかも暗黒の室に光がとぼされると暗黒が消えるように、一切の“心の迷い”も、その“迷い”から生じた結果も消滅してしまうのである。“キリストの心”は“神の心”なのであり、「天(内)に於いても地(外)に於いてもすべての力はわれに与えられているのである」そして「われと父とは一体なり」の意識である。“この心”を自己のうちにあらしめるとき、人は光り輝く完全の衣装を身にまとうように、霊的想念を身にまとって護られていることになるのである。】

父なる神と「親子関係」の契りを結ぶことの必要
2019-05-12
「私は神の子です」と言うのは
親なる神様に対して「神様との親子関係」を契るのであると
分りました。
そのことが実現して
父なる神の絶対の守りが
実現するのです。
(詳説 神想観 谷口雅春 日本教文社)
【神を愛するとは素直に実相に直参して、「神よ、私は神の子です、貴方は私の実父(ちち)です。貴方の生命が私に宿って私の生命となったのです」とまっしぐらに神の膝の上に掻き上がることなのです。正しい祈りとは実にこの「私は神の子です」の命宣(いの)りであります。この命宣りさえ完全であれば、すべての第二次的誡命(いましめ)は自然に成就することになります。この宣言が神想観であります。「神の生命われに流れ入りて吾が生命となる」「われは神に満たされ生かされて神と不可分の一体である」この感じを理屈でなしに、現在意識だけでなしに潜在意識の底の底までもたたき込むのが神想観であります。だから、多くの祈り方はありますけれども、神想観にまさる祈りはないのです。】

現象(影)を見たら、本体(実相)を観るべし
2019-05-06
現象界にある事物は
すべて実相の写し(影)であるから
現象の事物を見たなら
そこに見えないが実相がある、
ということなのである。
現象世界には事物があらゆる所に存在しているから、
そこに視えないが「実相(神)が裏打ちしている」ということだ。
吾等は安心して
現象生活をすればよいのである。
神の世界に居るのに
なんの心配があろうか。
聖経『続々甘露の法雨』に
【汝ら「人間・神の子」の自覚より、
「神の子・人間」の自覚に入るべし】
と書かれているが、
これは現象界は写し(影)の世界であるから
現象の大元なる実在即ち「実相」「神の子」を自覚せよ、
ということである。
「実相」が「現象化」しているという真理を
悟りなさいと示しているのだ。
つまり
「現象(影)を見たら、本体(実相)を観るべし」である。
自分の本体が神の子で現象世界が実相世界であるという真理は
ひとえに自覚にかかっていて
自覚すれば自覚したとおりの生活ができるのである。

現象世界の奥に実体として実在する「神の子・神の国」
2019-05-05
今藤原敏之先生の
ユーチューブ動画から
イヤホンでご講義を聞いている。
「現象はすべて心である」
と仰っていた。
これは「現象は人間の心が現わしているものである」
ということである。
現象的にみたら
現象は人間の五官を通して人間の心が
時間空間世界に展開されているから
現象の一コマ一コマは
すべて「人間の心」であるというのは
本当である。
でも聖経『甘露の法雨』にはこうある。
【如何なる健康なる力士も彼が肉体を実在と観、
肉体即ち彼なりと観る以上は
彼は滅ぶる者にして真の『健康』に非ざるなり。
真の『健康』は物質に非ず、肉体に非ず、
真の『生命』は物質に非ず、肉体に非ず、
真の『汝そのもの』は物質に非ず、肉体に非ず。
物質の奥に、
肉体の奥に、
霊妙きわまりなく完全なる存在あり。
これこそ神に造られたる儘の完全なる『汝そのもの』にして、
常住健康永遠不滅なる『生命』なり。
汝ら今こそ物質を超越して
汝自身の『生命』の実相を自覚せよ。】
この目に見える現象世界の裏にというか内にというか、実体として
目に見えない「実相」つまり大生命があるのです。
この真理を当ブログに表現してくださった内なる神に
感謝いたします。

物質は「心」の痕跡に過ぎない
2019/5/4
物質というものはすべて「心の影」である。
だから物質を見たら、
それはそれが「神の心」の現われであると
念えばよいのである。
つまり「物質」を見えない「神の心」と
観ることである。
つまり現象はすべて「神の心」の痕跡であるのだ。
だからすべての物質世界の背後に、
つまり現象世界の奥に(裏に)
実相世界があるのだ。
現象世界は実相世界である。
【物質はただ心の影】
【本来物質は心の内にあり。】
【物質の世界が影にすぎざることを見たり。】
【物質の奥に、霊妙きわまりなく完全なる存在あり。】
これこそ神に造られたる儘の完全なる『汝そのもの』にして、
常住健康永遠不滅なる『生命』なり。】
【物質の性質形態はことごとく心の造るところ】
【心が『物』を動かすことを得るは
『物』と心とが全然別物に非ずして
『物』は『心』の痕跡なるが故なり。】
【物質は却ってこれ霊の影、心の産物】
つまり「現象即実相」
「色即是空」
「肉体なし現象なし心もなし実相あるのみ」である。

実相(“見えない”神の子・神の国)と現象の関係
令和元年5月1日
谷口雅春先生のお悟りを『生命の実相』20巻から
復習する。
【「実相とは神である。“ある”ものはただ神“のみ”である。神の心と、神の心の顕現のみである。これが実相だ」ここに神というのはむろん「仏」という意味も含んでいた。】
雅春先生がここで「神の心」とお書きになっているのは
たった今この現象世界の奥に存在している
実相世界(見えないが実在である神の理念)のことであり、
現象から色や形を取っ払ったら
でもそこに残る純粋形相のことである。
これは「神の心」であり、
永遠向上、無限向上、円満完全大調和であって、
神性、仏性充満し
現象世界のあらゆる事物に相応していて
それらを表現するもとになるところの「神の言」世界である。
また雅春先生が「神の心の顕現」とお書きになっているのは
現象世界のことであり、
「神の心」が時間空間世界に
人間の五官を介して表現されている
世界である。
人間がストレートに神我を通して実相を現象化させれば、
実相が人間の我の心で歪められずに顕われ出るのである。
歪んで実相ならざるものが出ているように見えても
それは単なる実相の不在であって、
「実相即現象」という根本真理は
貫かれていることに変わりはない。
雅春先生が「これが実相だ」とお書きになっているのは、
「この実相と現象の在り方自体が、人間の生命の実の(本当の)相(すがた)ですよ」
ということである。
この真理を仏教は「色即是空、空即是色」と
説くのであるが、
雅春先生のお説きになっていることと同じである。
ただ仏教の説く「空」と言う言葉は
雅春先生もご指摘になっているように、
「真空妙有」のことなのだと補足する必要がある。
「空」と見えるものの奥に
「妙なる有(実相)」が存在しているということであって、
「色即是空」という言葉は
現象の奥に妙なる実在「神の心」が実在している、
という意味である。
現象は実相の反映であるという意味から言えば
「現象即実相」「実相即現象」と
言えるのである。
現象に実相の理念「神の心」は
恒に貫かれている、のである。

この見える世界の奥というか裏というか、背後に、
実相世界があるということは
いったんは
現象世界をないとして
否定しなければならない。
でも真理が分ってきて、
雅春先生の
【「実相とは神である。“ある”ものはただ神“のみ”である。神の心と、神の心の顕現のみである。これが実相だ」ここに神というのはむろん「仏」という意味も含んでいた。】
というお悟りを理解できたときに
現象世界がどんな状態であるにせよ、
この現象の奥にある“神の子”“実相世界”が真実世界との
観方をすることができるようになり、
つまり「信」と「観」が
成就するということになるのである。

御国に成るところの全ては今われらの内に

2019-05-16 10:08:26 | 日記
はじめに聖経『甘露の法雨』の
この箇所をごらんください。
(参考 甘露の法雨)
【キリストは
『神の国は汝らの内にあり』と云い給えり。
誠に誠にわれ汝らに告げん。
『汝らの内とは汝ら『人間の自性』なり、『真の人間』なり。
『汝らの内』即ち『自性』は神人なるが故に
『汝らの内』にのみ神の国はあるなり。
外にこれを負い求むる者は夢を追いて走る者にして
永遠に神の国を得る事能わず。
物質に神の国を追い求むる者は
夢を追うて走る者にして
永遠に神の国を建つり事能わず。】
【キリストは又云い給えり、
『吾が国は此の世の国にあらず』と。
此の世の国は唯影にすぎざるなり。
常楽の国土は内にのみあり、
内に常楽の国土を自覚してのみ
外に常楽の国土は其の映しとして顕現せん。】
次にキリスト教の牧師として宣教されたアディントン氏の
以上の「聖経甘露の法雨」の内容と合致している以下のご文章を
ごらんください。
(奇蹟の時は今 アディントン・谷口雅春訳 日本教文社)
<キリストは“今此処に”神の国は“われらの内に”あると言ったのであった>
【パリサイ人はイエスに対して“神の国は何時来るか”ということを話してくれるように求めた。そのときイエスは“神の国は視える姿をもって来たるのではない。神の国は、此処に見よ、彼処に見よというが如くに来たるのではない。見よ、神の国は汝の内に在り”(『ルカ伝』第17章20~21節)と答えたのであった。イエスはこれ以上に解りやすく答えることができたであろうか。彼は“神の国”の所在を示したのであった。言い換えれば、“今此処に”神の国は“われらの内に”あると言ったのであった。】
<天国とは一種の心の状態をいうのであって、神の力が今此処にわれらと共に現前し給うという自覚を指すのである>
【天国とは或る一定の場所ではないのである。しかし一種の心の状態をいうのであって、神の力が今此処にわれらと共に現前し給うという自覚を指すのである。そのことはこの偉大なる“主の祈り”に如何にもハッキリとあらわれているのである。神はわれわれすべては同じ父を分ちもつのである、それだから“天にまします吾らの父よ”と呼ぶ。神はわれわれ皆のいのちの本源であり、創造主である。そしてその自覚の領域が神の国であり、それは常にわれらの内にある天国である。ひとたびこの“主の祈り”に秘められたる意味を理解するとき、わたしたちは自分自身を自己の内にある神の完全な力から離れていると考えていることはできなくなるのである。】
アディントン氏は上の文章で「主の祈り」に触れているので、
「主の祈り」を参考のために掲載する。
<主の祈り>
【天にまします我らの父よ。
願わくは御名(みな)をあがめさせたまえ。
御国(みくに)を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、
地にもなさせたまえ。
我らの日用(にちよう)の糧(かて)を
今日も与えたまえ。
我らに罪を犯すものを我らが赦(ゆる)すごとく、
我らの罪をも赦したまえ。
我らを試(こころ)みにあわせず、
悪より救いいだしたまえ。
国と力と栄えとは、
限りなく汝(なんじ)のものなればなり。
アーメン。】

表面の自我の無力さを自覚してこれを抛棄したとき、奥底の自我(天の父)が表面活動に入り、大いなる業(わざ)を成就する

2019-05-16 09:52:46 | 日記
「無我全托」の境地になった時に
「神」が顕われます。
ただこの「無我全托」の境地になること自体が
私には簡単ではなかったです。
ここが実は神想観のポイントなのではないかと
私には感じられます。
(参考 神想観の神髄 谷口雅春)
【「自己の内に宿る仏性」又は「汝の内に宿るキリスト」と言う場合の「内」とは、「肉体の内」ではないのである。わが存在の深奥なるところに、現象の自分の想念が波立てども、決して波立たずに、深く一切を湛えて不動にしてそのまま一切をあらわすところの根源的な存在があるのである。すべての善きものは悉く、この深く湛える根源より発するのである。これをキリストは「天の父」と称したのであり、その「天の父」のまします「わが存在の深奥なるところ」を「神の国」と称したのであり、「神の国は汝の内にあり」と喝破されたのである。キリストが「我れみずからにては何事をも為し得ず、天の父われに在して御業を為さしめ給うなり」と言ったところの「何事をもなし得ない我みずから」とは、波立ちさわぐ表面の自我であり、その表面の自我の無力さを自覚してこれを抛棄したとき、内面の深く湛える奥底の自我(天の父)が表面活動に入り、大いなる業(わざ)を成就するのである。】