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神の御心(実相)を「円満完全」と称える感謝の心で叩こう

2019-05-20 22:24:09 | 日記
神の御心とは
“生命の実相”である。
これを私たちは
既に与えられ済みであるのだ。
何一つ欠けることのない“生命の実相”“神の子”である。
これを感謝の気持ちで
「実相円満完全」
「神の子円満完全」と
感謝の言葉で念じる叩きをしよう。
これが
「叩けよ、さらば見出されん」
ということなのだから。

新新約聖書「ルカによる福音書」

2019-05-20 11:47:36 | 日記
新新約聖書「ルカによる福音書」
第10章 72人を派遣する
10 しかし、町に入っても、迎え入れられなければ、広場に出てこう言いなさい。
11 足についたこの町の埃させも払い落として、あなたがたに返す。しかし、神の国が近づいたことを知れ』と。
12 言っておくが、かの日には、その町よりまだソドムの方が軽い罰で済む。」

奇蹟が起るには、たゆみなき祈りと、否定的な想念からの絶縁の努力とが欠かせない

2019-05-20 10:41:09 | 日記
神癒が起こるには
たゆみなき祈りと、否定的な想念からの絶縁の努力とが
欠かせない。
投稿者の場合も
「古き業から来る否定的消極的な観念」を
「“神の子”の円満完全なる観念」に変える必要があった。
一日10回の四部経読み、聖典の勉強、神想観の繰り返し等、
真理の探究と真理の体現の努力は
2年以上の長期にわたっている。
でもこれらは
楽しい修行であって、
苦痛に思ったことなどない。
こういう修業とはいえない努力があって初めて
実相に到達するのが
普通である。
始めから救われているといったって、
自覚するのに時間がかかっても
不思議はない。
過去及び過去世に集積されてきている業というものが
潜在意識に染み込んでしまっている場合が多いからだ。
(奇蹟の時は今 アディントン・谷口雅春訳 日本教文社)
【ここに私たちは“認めること”“如実に真理を自覚すること”“そこに人間が解放されること”の実例を見るのである。全能の神の力を“認める”ことによって、そして、それに加うるに“人間神の子”の真理を深くさとる心境に達してアリスは癒されたのであった。当時の彼女の容態は、もう危機一発の瀬戸際という状態であったので、すべてを放棄して大なる神の力に完全に委し切るより外に道はなかったのであった。しかしこの実話がそこへ落ち着くことが出来たのは、アリス自身及びビアード博士のひたむきな揺ぎのない堅信であった。大抵の人ならば神癒はこうこう言う順序で起るのだと思うような具合に、彼女の神癒は一夜のうちには起らなかった。この奇蹟が起るには、たゆみなき祈りと、否定的な想念からの絶縁の努力とが2年間も続けられていたのであった。この2年間の途上には、アリスも自分の容態に変化がないことについて世上一般人同様の不信の暗い感情に誘惑されそうになったこともあったには違いないのであった。しかし彼女はそんな誘惑を避けて、唯ひたすら、たゆみなく祈りつづけた。そして愈々神癒が来たのであった。レベッカ・ビアード博士は人間には到底解釈の出来ない奇蹟を見せてほしいと祈ったのであったが、ついにその祈りに対する神の答えが来たのだった。】

人間は“神の子”であるから「円満完全なるもの」であり、真理としてそう思わないことが間違いなのだ

2019-05-20 09:46:17 | 日記
わたしたち人間は“神の子”であるから
「円満完全なるもの」である。
しかも「視えない」“神のいのち”である。
神の「理念」であり「観念」だ。
こういう存在であると
神想観で観じるのだ。
きちんと真理を捉えて観じないと
実相は顕われない。
実相を顕わすには
神の前の義(ただ)しさが要求される。
真実の自己に向き合うことが必要とされる。
(奇蹟の時は今 アディントン・谷口雅春訳 日本教文社)
<人間は“神の生命”の顕現つまりキリスト(真理)であるから完全なるものである>
【完全なるものは金剛不壊であって、無常ではないのである。神の完全さを誰も変化することはできない。それを不完全にすることも、衰滅させることもできない。神の完全さから何ひとつ取り去ることもできないし、何一つ付け加えることもできないのである。神の完全さは、神が最高完全に自己に肖(に)せてつくり給える人間なるものを通して常にたゆみなく表現されつつあるのである。
キリストは人間として“神の生命”が顕現せられたものであり、常に永遠に変ることなく完全であらせられる吾々の実相である。】
<環境条件などというものは神に対して何の力もないのである>
【神は“大生命”であり、大生命というものは完全であり、十全であり、欠くることなく円満完全であって、この事は昨日も今日も変ることなく、永遠に常恒不変なのである。この神の生命が人に宿ってわれらの生命となり給えるのであるから、外部の条件や環境などに依存してその完全さが変化するようなものではないのである。人間に内在して人間を通じてその実相を表現しようとしていられる神の完全性を、何ものと言えども、傷つけたり妨げたりすることはできないのである。環境条件などというものは神に対して何の力もないのである。本当に実在する力は神のみである。】
<人間は永遠の生命を有ち、聖にして完全なる霊的実在である>
【人間は病気や死に隷属するものではないのである。真理に於いては、人間は永遠の生命を有ち、聖にして完全なる霊的実在であるのであって、病気や“死”によって汚されることは絶対にない存在である。これが真理である。この真理の中にわたし達は安住し全托し無畏であるのである。そしてこれが実相に於いての“あるがまま”である。】