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新約聖書「ルカによる福音書」

2019-05-30 11:20:44 | 日記
新約聖書「ルカによる福音書」
第10章 喜びにあふれる
24 言っておくが、多くの預言者や王たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」

「主の祈り」とは「実相は円満完全なり」という祈りである

2019-05-30 09:42:11 | 日記
「主の祈り」というのは
イエスが弟子たちに祈り方を請われたときに
教えた祈りだそうである。
そしてこの祈りこそ
本当の祈りかたなのであると
アディントンはいうのである。
「主の祈り」というのは
「実相は円満完全なり」という祈りである。
(参考 奇蹟の時は今 アディントン 谷口雅春訳 日本教文社)
【『ルカ伝』第11章1節には次のようなことが書かれている。
「イエス或る処にて祈り居給いしが、その終りしとき、弟子の一人いう『主よ、ヨハネの其の弟子に教えし如く、祈ることを我らに教え給え』」
このとき、イエスはこの弟子の願いにこたえて、その後二千年に亘って、イエスの教えに従う者がこの祈りを踏襲し来ったところのあらゆる問題を全包容せる祈りを教えたのであった。これが「主の祈り」であって、キリスト教者も色々の教派に分れていてその信条も多くあるが、すべての教派に共通に受け容れられているのが、この“主の祈り”であり、それは次の如くである。
「この故に汝らは斯く祈れ。『天にいます我らの父よ、願わくは、御名の崇められんことを。御国の来らんことを。御意(みこころ)の天のごとく、地にも行われんことを。我らの日用の糧を今日もあたえ給え。我らに負債(おいめ)ある者を我らの免したる如く、我らの負債をも免し給え。我らを嘗試(こころみ)に遭わせず、悪より救い出だしたまえ。あなたの国は神の国であり、力と栄光とは、永遠にあなたのものであります』」(『マタイ伝』第6章9~13節)】
アディントンは
これを次のように書き換えてみると
もっと分りやすいというのである。
これがクリスチャン・サイエンス流の正しい解釈なのだと
私も思うものである。
(参考 奇蹟の時は今 アディントン 谷口雅春訳 日本教文社)
【天にまします我らの父よ
あなたの御名は称えられたまう。
あなたの御国は来ているのです。
天国に御心が今あるごとく
地上にも御心が行われます。
あなたはわれらの日常の糧を
今日いま与えて下さっています。
われわれが自分に対する人の過ちを宥(ゆる)すが如く
あなたもわたし達の過ちを赦して下さっています。
あなたはわたしたちを導き給うて
誘惑に陥らぬようにして下さっています。
そしてあらゆる“悪”から解放して下さっています。
何故なら、あなたの国は、「神の国」であり、
御力(みちから)と栄光とが永遠に満ちています。アーメン】
谷口雅春先生は
この「主の祈り」は1957年当時の
米国のディヴァイン・サイエンス教会系のものだとお書きになっているが、
実際にあったものの引用である。
因みに投稿者自身のことについていえば、
アディントンの『奇蹟の時は今』
谷口雅春先生の『ヨハネ伝講義】
ホルムス・谷口雅春共著の『心と運命』
ホルムスの『人生は心で支配せよ』
ステラ・テリル・マンの『信仰と愛行による新生』
等の「生命の実相」のキリスト教解釈によって
真理を本当に体得できたことをご報告し、
特に決め手となった本は
アディントンの『奇蹟の時は今』であることをお伝えして、
キリスト教に縁が深いと自覚される方には
この本を熟読されることをお勧めします。

“神意のままに成らしめ給え”というのは「わたしは神の意志を意志せんと欲す」ということである

2019-05-30 09:15:51 | 日記
“神意のままに成らしめ給え”を正しく解釈すると
唯神実相哲学の本当のところが
把握される。
「神のお造りになった実相を信じます」ということである。
何度もこの事に触れるが
一番肝心なことなので
繰り返し追求していきたい。
(参考 奇蹟の時は今 アディントン 谷口雅春訳 日本教文社)
<わたしは神の意志を意志せんと欲す>
【過去に於いては、神は、人類の罪を背負うところの代贖者にせられて来たのである。われわれが自己の過ちによって窮地に陥ったとき、その責任を自分が背負って自己責罰することを欲しないとき、われわれは神に責任を負わせたものである。即ち、われわれは、“自分が一切のものを失ったのは神の御こころであった”といったり、“子供が病気で死んだのは、神の御意思であった”などといったりしたのである。また、“自分が苦しみ且つ死ぬのは神意である”などといった。ある人はわたしに手紙を寄贈して“わたしは今刑務所にいるが、それは神の御意思である”と書いていた。すべて、こういう考え方は、正面から真理に直面することを避ける無駄な努力をするもので、その無駄な努力で墓穴を掘って愈々益々自分自身を窮地に追い込むことになるのである。「みこころの如く成らしめ給え」という祈りは「“あなたの完全なみこころ”の如く成らしめ給え」といわれなければならないのである。真理が適正に理解されるとき、このような言葉こそ真(まこと)に祈りの最高の形式であるのである。
グレン・クラーク教授は、「わたしは神の意志を意志せんと欲す」というのが常であった。】
注目すべきはアディントンが言及しているのは、
現在の教会の不幸や病気に対する「神の試練」という考え方は正しくない、
ということである。
アディントンは教会の牧師であり、
宣教師である。
かくいう私投稿者も、
このキリスト教の「実相独在」解釈で
救われたように感ずる。