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現象(影)を見たら、本体(実相)を観るべし

2019-05-06 10:10:04 | 日記
現象界にある事物は
すべて実相の写し(影)であるから
現象の事物を見たなら
そこに見えないが実相がある、
ということなのである。
現象世界には事物があらゆる所に存在しているから、
そこに視えないが「実相(神)が裏打ちしている」ということだ。
吾等は安心して
現象生活をすればよいのである。
神の世界に居るのに
なんの心配があろうか。
聖経『続々甘露の法雨』に
【汝ら「人間・神の子」の自覚より、
「神の子・人間」の自覚に入るべし】
と書かれているが、
これは現象界は写し(影)の世界であるから
現象の大元なる実在即ち「実相」「神の子」を自覚せよ、
ということである。
「実相」が「現象化」しているという真理を
悟りなさいと示しているのだ。
つまり
「現象(影)を見たら、本体(実相)を観るべし」である。
自分の本体が神の子で現象世界が実相世界であるという真理は
ひとえに自覚にかかっていて
自覚すれば自覚したとおりの生活ができるのである。

実相を時間空間面に出現せしめるのは心のラジオ的波動によるのである。これを祈りというのである

2019-05-06 09:33:04 | 日記
祈りとは
既に実在する「実相」に
心の波長をあわせることである。
これが聖典、聖経読誦であり愛行であり
神想観だ。
自分の本体は“神の子実相”であっても
“神の子”と悟らなくては
実相は現象化しない。
谷口先生は
以下のご文章で
祈りの原理をくわしく
ご説明くださっている。
(参考 祈りの科学 谷口雅春 日本教文社)
<吾々の祈りは吾々が如何なる程度に神を信ずるかという程度に比例してかなえられる>
【吾々の祈りは吾々が如何なる程度に神を信ずるかという程度に比例してかなえられるのである。これは神が愛憎深き存在であり信ずる者に対してのみ依怙贔屓(えこひいき)をなし給うというような意味ではないのである。イエスのいったように神は太陽が善人にも悪人にも光と熱とを与え給い雨が善人にも悪人にも等しく潤いを与えるように万人を始めから恵み給うているのである。】
<「聴取を申し込まないでも放送されているラジオ放送」>
【しかし「頼まないでも与えられているおかげ」は「聴取を申し込まないでも放送されているラジオ放送」の様なものであるのである。】
<「祈り」とは実在界にすでに存在する所の事物を求むるに従って現実界に浮び上らせるための「心の波動」を起こすこと>
【しかしそれを具体的に現象世界に於いて受けとる事ができるのとできないのとは、吾々がラジオ・セットをそなえて放送に対して波長を合わせると否とにあるのである。神が宇宙を創造したのは前述の通り「心の波」によってであるから吾々が神の創造に対して波長を合わし、それを見えざる波動の世界から現実の世界に浮び上らせて来る力も、「心の波長」でなければならないのである。即ち目に見えざる放送の波を現実に受けとる為のラジオ・セットは、吾々各々の「心」であり、吾々は心の波長を神の創造の波長に合わせることによってそれを現実化する事ができるのである。すでに吾々になくてならぬものは実在界に於いて創造済みなのである。この事が即ち「み心の天に成る世界」の意義である。それを「地の世界」即ち現実界に持ち来すには、「祈り」即ち「心の波長」を起こす事が必要なのである。即ち「祈り」とは実在界にすでに存在する所の事物を求むるに従って現実界に浮び上らせるための「心の波動」を起こすことになるのである。】
<実相を現象化させるのは心のラジオ的波動によるのである。これを祈りというのである。イエスの奇蹟は実相に心の波長を合わせたことにより起こったのであった。>
【信仰はその心の波動の起こし方の強いものをいうのである。「もし芥子種程の信あらばこの山に動いて海に入らんといえども必ず成らん」という所の「芥子種ほどの信」とは強烈なる受信セット的波長である。一切の存在は時間空間を超越せる実在世界にすでに存在するのであるが、それを時間空間面に出現せしめるのは心のラジオ的波動によるのである。これを祈りというのである。イエスはまことにこの受信セット的心の波を如何に起こすべきかによく通達していたのであって、その為に彼は多くの奇蹟をなし得たのである。彼は「汝ら祈る時それをすでに受けたりと信ぜよ。即ち汝はそれを受くべし」と教えたが、実際イエス自身もそのように実行していたのである。】