今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

鮎川哲也 (推理小説家)の 忌日

2005-09-24 | 人物
2002年の今日(9月24日)は、鮎川哲也 (あゆかわ てつやー推理小説家)の 忌日。日本ミステリー界が誇る本格推理作家であり、鉄道をつかった緻密なアリバイトリックを用いた作品などを数多く残している。
当初生年月日不明・・・後に、1919(大正8)年2月14日 生まれと判明。本名中川 透(なかがわとおる)。東京に生まれ満州に育つと言うが、この辺の経緯もはっきりとは判らないなどなぞの多い人物。終戦後東京にて、ミステリーの執筆に意欲を示し、1948年、探偵小説雑誌〈ロック〉に短編「月魄」(那珂川透名義)を掲載してデビュー。1950(昭和25)年、長編第一作『ペトロフ事件』で雑誌《宝石》の懸賞の第一席に入選し、これを契機に本格的なデビューを果たすが、版元の経営難などから賞金が一部しか支払われないことに強く抗議したため関係が悪化し、作品発表の機会を閉ざされてしまう。この頃まで、那珂川透の他、薔薇小路棘麿、青井久利、中河通、宇田川蘭子など、複数の筆名を使い、多くの短編作品を雑誌に投じたりしていたが、雑誌掲載こそなったものはあっても、まだ本になったものはなかったそうだ。そのため、この時点では、多くの読者は著者の名も作風もまったく知らずにいた。
1955(昭和30)年、講談社の(書下ろし探偵小説全集)の最終配本の第十三巻が、一般公募による新人の作品が当てられることになり、これに応募した『黒いトランク』が、見事入選した。(1956年刊行)。この作品で初めて鮎川哲也 名義を使い、以後鮎川名義で統一する。1957年には、関係が悪化していた宝石との不仲も解消され、本格的な活動が可能になった。1960年には『黒い白鳥』『憎悪の化石』の2長編で第13回日本探偵作家クラブ賞(後の日本推理作家協会賞))を受賞。本格推理作家として確固たる地位を築いた。本格ものは言うまでもなく、時刻表トリックを使用した作品においても解決に必要なすべての手がかりを読者に明らかにするという本格推理にこだわり続けるなど、社会派主流の時代にあっても独自の作風を守り続けた。晩年は新人の発掘にも力を注ぎ、1990(平成2)年からは東京創元社の主催による《鮎川哲也賞》の選者として貢献した。
私も今は、推理小説など全く読まなくなったが、推理小説は大好きで、若い頃は、日本探偵作家クラブ賞他直木賞などの賞をとった推理小説は殆ど読んでいる。私の場合、余り、推理小説のジャンルにとらわれずに読んでいたが、この作家は、本格物にこだわっている。新人発掘のために、光文社文庫が「本格短編」を募集し、鮎川哲也が中心になり、応募作品を審査し、当選作を選び本格ミステリーの短編集「本格推理」(1)~(10)(編集長・鮎川哲也)が、発刊されたが、この中で、本格ミステリーの条件をあげているが、先ず第一に、「事件解明の手がかりは出し惜しみをせずに書くこと」、第二は、先人作家が考案したトリックを盗用してはいけない」、第三に「作中の名探偵が拾い集めたデーターは、全て、読者に見せなくてはならない」とある。作者が全て手の内をさらけ出しているものを、読者が自分の推理を働かせて読む。この、文庫本の短編集は、私が、仕事で、出張している時など電車の中で読んでいたが、このシリーズものを呼んでいる間に「本格推理」のファンになってしまった。全てが明かされているのに、作者の巧みな仕掛けによって、迷路に入ってさまよっている姿を想像して、本格推理作家はほくそえんでいるのであろうな~。おかげで、夢中になって読んでいたため、よく電車で驛を乗り過ごしそうになったものだよ。
(画像は、光文社文庫、鮎川哲也編・「本格推理」)
参考:
鮎川哲也の部屋
http://homepage1.nifty.com/kokubyaku/ayukawa.htm