今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

明治天皇御大葬と乃木希典殉死の日

2005-09-13 | 歴史
今日(9月13日)は、「明治天皇御大葬と乃木希典殉死の日」である。
明治天皇は嘉永5年9月22日(新暦11月3日)、孝明天皇の皇子として誕生した。孝明天皇が崩御され、慶応3年1月9日、御年僅か16歳(数え)で皇位をお継ぎになる。ほどなく将軍徳川慶喜の大政奉還にともなって、同年12月王政復古の大号令を発せられ、翌4年(明治元年)3月14日、天皇は、五箇条の国是をお誓いになり、施政の大方針を明らかにされ、同年9月には年号を明治と改めた。10月には東京遷都、12月御成婚、そして新政の施策を次々に進められた。しかし、日露戦争後はめっきり御年を召されたと伝えられている。天皇はそもそも日露戦争には反対だったという。国交断絶を決める時には日頃の健啖家がものも食わず不眠症になり、伊藤博文を寝所に呼んで「「朕がロシア皇帝に親電を送っても(戦争回避は)出来ぬか?」と尋ねたとも云われている。兵力も劣っていた日本が幸いにも辛勝へとこぎつけ、世界の列強に伍した一等国ということになっていき、そのシンボルとしての明治天皇の剛毅 なるイメージは強固なもものになっていくが、その天皇は国内的にも国際的にも心痛が絶えず満52才にして、めっきり老け込んだと言われている。イメージとは裏腹に質素倹約のため、宮中の照明を電灯から西洋蝋燭に替ての生活をしていたとも言う。そして、明治45年7月30日、国民号泣の中に御年61歳(数え年)にて崩御された。大正元年9月13日東京青山(現在の神宮外苑のところ)において御大葬、翌14日京都南郊、伏見桃山陵に葬られた。この大葬儀(大葬)の次第については、当時まだ規定がなかったので、明治35年に京都で行われた英照皇太后(孝明天皇妃夙子)の大葬儀を前例として、これを拡充する型で行われたと言う。(朝日百科参照)
この明治天皇御大葬の日に、日露戦争の英雄・陸軍大将乃木希典(のぎまれすけ)が、夫人とともに殉死した。この時『うつし世を神さりましし大君のみあとしたいて我はゆくなり』の辞世の句を残している。
当時、この乃木大将の殉死は、日本全国の人々に大きな衝撃を与えた。当時の東京市長、阪谷芳郎氏は中央乃木会を結成し、1923年乃木邸の隣地に社殿(乃木神社)を創建した。
乃木希典は、日清、日露の両役に武功輝き又、高風清節徳望高き人格者として一世の崇敬を受け、陸軍大将従二位勲一等功一級伯爵に叙せられ晩年明治天皇の思召によって学習院長に任ぜられた人物である。
因みに日露戦争では旅順総攻撃を指揮し、長男勝典、次男保典も最前線に送り込み戦死させている。この時戦死傷者は5万5千人と云われ、乃木はこの時のことを、詩に詠んでいる。
【漢詩・金州城(きんしゅうじょう)】
山川草木転(うた)た荒涼(こうりょう)
十里風腥(かぜなまぐさし)新戦場
征馬前(せいばすす)まず人語らず
金州城外(きんしゅうじょうがい)斜陽に立つ
(※金州城=満州、遼東半島の南端、旅順港の背後の要地。城壁をめぐらしている町。)
下、参考の関西吟詩文化協会 漢詩紹介で「金州城」の詩吟が聞けるよ。ここ
後に、多く死傷者をだした南山の頂上には、「忠魂碑」と乃木希典の詠んだ金州城の「詩碑」が建っていたが、文革中に撤去され今は忠魂碑の土台と詩碑の基部だけが残っている。
又、水師営の会見では、敵国ロシアの敗将ステッセルを最高の敬意を表して迎えたことは、文部省唱歌(「水師営の会見」)にまでなり、
旅順開城約なりて
敵の将軍ステッセル
乃木大将と会見の
所はいずこ水私営
と歌われ、後々まで語り継がれており、厳しい中にも思いやりのある、詩人らしい乃木希典の人柄が偲ばれるが、こんな乃木希典も、戦場では、多くの犠牲を出したこことなどから、軍人としての能力については、色々疑問を呈している人も多い。
(画像は、マイコレクションの絵葉書「水師営の会見」)
参考:
明治神宮公式HP
http://www.meijijingu.or.jp/
乃木神社公式HP
http://www.nogijinja.or.jp/
関西吟詩文化協会 漢詩紹介<日本の漢詩>
http://www.kangin.or.jp/top.html
私の別館HPYousan'sCollectinRoom・Room2絵葉書「日露戦と観艦式」
http://m-yousan.hp.infoseek.co.jp/room2-22.html