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ほぼ週二 横浜の山の中通信

人と異なる視点から見る

やらなきゃいけないんだけど、やりたくない皇室の問題

2016年07月27日 | 天皇家の話

ある日のNHK朝7時のニュースを見て気がついたのは、女性アナウンサーの下腹部がぽっちゃり。妊娠? 独身のはずなので、運動不足か食べ過ぎ? 

 

ところで、NHK夜7時のニュースに、いきなり天皇の生前退位のニュースが出てきたのにはあれ?と思いました。これは、どこからか(もちろん宮内庁か皇室関係者です)のある意思を持ったリークだなと思った人も多いと思います。

 

この生前退位の話は、昭和天皇の時にも新聞に出ていた記憶があります。結局、昭和天皇の時は(本人に意思と聞いた覚えあり)実現せず、昭和天皇は88歳まで公務を続けられていました。この時は、皇太子(今の天皇)の即位が遅くなりすぎるという理由もあったと記憶しています。結局、今の天皇は56歳で即位しましたが、今の皇太子浩宮はもう56歳です。

 

また小泉首相の頃、男の子が生まれないので、女性天皇や女系天皇の可能性が話題になっていましたが、秋篠宮に長男が誕生したので、この議論は立ち消えになりました。この時は、女性天皇や女系天皇以外の方法として、旧皇族(終戦直後に皇族から離れた人たち)の復活などという話が出ていました。私は反対ですが。

 

その後も、天皇から天皇陵の簡素化、あるいは合葬の話が出ましたが、「火葬」の採用と天皇陵を少しだけ小さくするという中途半端な結論になりました。私は巨大な土饅頭のような天皇陵(まるで昔の古墳のよう)は無味乾燥で時代遅れと思います。われわれは巨大な古墳を崇めた古代人ではない。もっともっと簡素で良い。こういうところにも神道系の既得権益があるんでしょうか。

 

この生前退位の問題に手を付けると、皇族の減少をどうするかという問題に突き当たる。現在の皇族の中に若い男子がいないので、秋篠宮の長男が天皇になる頃には他に皇族がいなくなってしまう。女性天皇や女系天皇の問題よりも、こちらの方が先に来る。生前退位をリークした目的は、皇族の減少の方がメインの目的かもしれません。

 

しかし、女性天皇や女系天皇を否定する人たちは、女性皇族が女性天皇への道筋をつけると反対しているので、これも実現は難しそうです。結局どうするんだ、天皇制を維持したい人たちは? 理念を生きがいにしている人が理念と異なる現実にぶち当たると、何もできなくなる良い見本です。

 

もう一つの問題は、皇太子がいなくなること。秋篠宮の長男を浩宮の養子にすればと誰かが言っていましたが、感情的にどうでしょうか? 

 

自民党のやり方として、支持者の中にいろいろな意見があって揉めそうな時は(かつ、アメリカの要求がなければ)先延ばしする体質なので、今回の件も必要最小限のことしかしないでしょうね。皇室典範を改正するにしても最低限のことしかしない。あるいは現在の天皇だけの法律にするかもしれません

 

この問題を広げると、天皇制をどうするかまで行きますが、それは私の範囲を超えるのでここまでにします。

 

以前のブログも参照してください。

 

天皇陵と火葬に関して。 2012年9月24日の「天皇家の葬儀と陵

女性・女系天皇に関して。 2013年2月27日の「天皇家の世継ぎ、選択肢は二つ

 

2016.07.27

 

予想通り、生前退位は最小限の法律改正になりそうです。また、生前退位以外の皇室の問題には手を付けないようです。(メディアの報道による)

安倍政権に影響力のあると言われている、例の「日本会議」が女性天皇や女系天皇に反対らしいので、大した変更は出来そうにない。

「日本会議」は宗教らしいので、あくまで理念を押し通すようですが、理念では何ともならない不都合な問題が表面化し、いずれ矛盾が出てくるのは避けられない。どん詰まりになるまで、不都合な問題は先送りですね。

2016.09.27


天皇家の世継ぎ、選択肢は二つ

2013年02月27日 | 天皇家の話

天皇家において、側室制度(正確には違いますが、わかり易く言うと2号さん)をやめたのは、大正天皇です。昭和天皇もそれを踏襲しました。太平洋戦争後に、連合軍が無理やり押し付けたという人が時折いますが、間違いです。

 

側室制度をやめるのと引き換えに、世継ぎ制度には時限爆弾が仕掛けられました。残念ながら、長期にわたって、一人の女性から必ず男の子が生まれるとは限りません。確率の問題です。と言って、今の時代に側室制度を復活させようと主張する人はほとんどいないでしょう。

 

じゃあ、どうするのか?昨年の秋に国学院大学の講演会に行ったら、今年の「建国の日」に祝辞を述べていた教授が話していました。この教授は、俺の子供は、男3人と威張っていました。

この人は、当然女性天皇や女系天皇には反対なので、「側室制度は日本固有の伝統」と言うのかと思っていたら、旧皇族を復活させるということのようです。う~ん、旧皇族の復活ですか?

 

「旧皇族」というのは、終戦後に廃止となった伏見宮など11家を指します。これらの皇族は、全て北朝第3代崇光天皇の皇子である栄仁親王がはじまりとされています。現在の皇室とは、栄仁親王の孫の代からの枝分かれとなります。

ということは、枝分かれしてから、約500年経過しています。確かに戦前は皇族だったのですが、現時点で国民感情として皇族と言えるかどうか微妙です。

 

いずれにしても、跡継ぎがいなくなる課題の対応として、

①女性天皇や女系天皇を認める

②女性天皇や女系天皇を認めず、旧皇族を復活する

の二者択一しか無いようです。少なくとも、あと何十年は結論を出さなくても良いのでしょうが、いずれ時間の問題です。

 

話は変わりますが、数年前に国会中継を聞いていたら、女性の国会議員が、「天皇家は血統が続いているから、世界の人から尊敬されている」と言っていたので、それなら「血統の続いている猫はえらいのか」と自分で突っ込みを入れました。後から考えると、血統のしっかりした猫は値段が高いかもしれませんが。本人は気が付いていないのでしょうが、この国会議員は天皇家を茶化しているとしか思えないですね。

 

2013.02.27

2013.03.21タイトル変更

 

(一部削除)2013.04.19

最近、浅見雅男著「伏見宮」を読みました。著者は、右も左も関係無く事実だけを書くと言っているように、淡々と伏見宮のいきさつを記述しています。この本を読んで、上記記述の一部に気になる表現があったので、その部分を削除しました。

 

以上

 

(コメントについて)2021年6月29日

「女系継承は王朝交代だ!世界史を勉強しろ!」というメールが来ましたが、世界史で「女系継承」し「王朝交代」した例はあったかな? 

イギリスのビクトリア女王やエリザベス女王は「王朝交代」ではない。

オランダには女王が何人かいるけど、「王朝交代」はしていない。

スペインのイザベル二世は前王の弟と帝位を争って勝ったが、「王朝交代」はしていない。

ロシアのエカテリーナ二世は夫の皇帝を退位させて帝位についたが、「王朝交代」ではない。

「王朝交代」は力ずくで帝位を奪わないと出来ないので、女帝には難しいのでは?

(スペインとロシアの例は、王朝内の争いなので、「王朝交代」とはいえない)

 

(追加)2021年7月1日

女性天皇や女系天皇を認めない人たちは、伏見宮系統の旧皇族の子孫を皇族に復帰させる考えを持っているようですが、2020年11月28日「伏見宮系の旧皇族の子孫を皇族にするのは妥当か?」に書いたような課題があります。ご参照ください。

 

 

 

 

 

 

 


継体天皇、5世の孫はほとんど他人

2013年02月27日 | 天皇家の話

私が最も興味のある天皇は、継体天皇です。かなり異色の天皇で、昔から天皇に何かあると、継体天皇の例を持ち出されて、役人が良く使う「前例」にされる例が多くあったようです。

 

古事記によると、継体天皇は「応神天皇5世の孫」なので、応神天皇は継体天皇の11代前、約220年前の天皇です。

先代の武烈天皇に跡継ぎがおらず、しかも天皇になるべき適当な人もいなかったので、越前に住んでいた継体天皇を探し出して連れてきました。しかし、即位しても直ぐには大和に入れず、周辺に居住し、19年後にようやく大和に入りました。継体天皇に関しては、いろいろな説がありますが、ここでは、上記のようにしておきます。

 

考えてみると、「5世の孫」というのは、すごく遠い血筋です。自分の例で見てみると、自分の家で遡れるのは祖父さん・祖母さんまでで、祖父さんは江戸時代末期、祖母さんは明治7年の生まれで、これで3代前です。

 

例えば仮に、私がノーベル賞を取ったとしましょう。そうしたら、祖父さん・祖母さんの兄弟姉妹の孫が、「親戚です」と言ってきたら、ビックリします。なにしろ、明治時代に分かれた人たちですから、三代前と言われても親戚という意識が起きないと思います。

 

「5世」となると、さらに遡って江戸時代中期~後期になってしまいます。ありえないですね。血が繋がっていると言われても、感覚的にはほとんど赤の他人です。

 

当時の人も「応神天皇5世の孫」に、かなり当惑したのではないでしょうか。

2013.02.27

2013.03.21 タイトルを変更

2019.05.06 継体天皇の系譜を追加

 

(コメントへのコメント)2021年9月1日

「祖父さん祖母さんまで、は言い過ぎじゃないですか? 私の家系では自分から見た曽祖父(墓石に刻まれた名前からは高祖父)までは辿れますよ」

というコメントが来ました。

 

私が幼い頃、うちの祖母さんは生きていたし、祖父さんの写真がかかっていたので、父方の祖父さん・祖母さんとはそれなりに関わりがあった。母方の祖母さん(祖父さんは早死にしている)も何回か会っている。それで、私の祖先の実感としては祖父さん・祖母さんまでです。

 

もちろん、父方や母方の曾祖父(祖父の父親)や曾祖母(祖父の母親)までは戸籍から確実に辿れますが、さすがに縁遠い感じする。名前と住所はわかるが、今でも同じ場所に住んでいるかどうか? 私のようにこっちから来た父親とあっちから来た母親の子孫なら、これが普通のように思います。200~300年も同じ場所に住んでいる家の人なら、また感じ方が違うかもしれませんが。

 

以上

 


天皇家の墓 追加 ~天皇陛下の天皇陵のご参拝~

2012年10月27日 | 天皇家の話

 天皇陛下や皇后陛下は、公務が多忙だったり高齢や持病で、先祖の天皇陵へあまり参拝されていないのかなと思っていましたが、そうではないようです。

毎年とはいかないですが、23年毎にどこかの古い陵にご参拝されているようです。

これら以外に、昭和天皇の武蔵野陵参拝は毎年行われています。

データは、宮内庁のホームページから取りました。記載漏れがあるかもしれませんがご容赦ください。

これを見ると、やはり数多くの天皇のお墓のある月輪陵と泉涌寺のご訪問が多いですね。

 

・平成2年12月2日

  神武天皇山陵

  孝明天皇山陵

 平成2年12月3日

  明治天皇山陵

 平成2年12月5日

  昭和天皇山陵,大正天皇山陵

 

・平成3年5月29日

  二尊院(天皇陛下の姉である故鷹司和子さんの墓)

 

・平成6年11月9日

  孝明天皇山陵,英照皇太后山陵

  明治天皇山陵,昭憲皇太后山陵,桓武天皇山陵

 

・平成9年8月18日

  孝明天皇山陵・英照皇太后山陵、泉涌寺

 平成9年8月21日

  明治天皇山陵・昭憲皇太后山陵

 

・平成11年(1999年)11月16日

  仁徳天皇山陵

 平成11年11月18日

  孝明天皇山陵,英照皇太后山陵

  泉涌寺

 平成11年11月19日

  明治天皇山陵,昭憲皇太后山陵

 

  二尊院(天皇陛下の姉である故鷹司和子さんの墓を私的ご日程として訪問された)

 

・平成14年5月29日

  神武天皇山陵

 

・平成16年8月21日

  後深草天皇陵(深草北陵)(後深草天皇七百年式)

 

・平成17年8月23日

  履中天皇陵(百舌鳥耳原南陵)(千六百年式年)

 

・平成20年11月2日

  後二条天皇陵参拝(七百年式年)

   

・平成21年11月19日

  二尊院(鷹司和子様ご逝去20年)

 

・平成22年(2010年)3月

  泉涌寺、東山天皇陵(三百年式年)

 

・平成22年10月9日

  元明天皇陵(奈保山東陵)

  光仁天皇陵(田原東陵)

 

・平成24年(2012年)12月(予定)

  伏見桃山陵(明治天皇逝去から100年)

 

2012.10.27

 

(注)天皇陛下の姉である故鷹司和子さんについて

結婚した相手の人(もちろん、姓は鷹司です)が、別の女の人と心中する事件がありました。こんな話を知っている人は、そこそこ高齢でしょう。


天皇家の葬儀と陵

2012年09月24日 | 天皇家の話

天皇が亡くなられた時に、土葬にするのか火葬にするのか、最近議論があるようなので、その前に歴史がどうなっているのか、調べました。

 

それもよると、飛鳥時代の持統天皇以来、江戸時代の初めまで、多くは火葬で行われたこと、江戸時代は表向き伝統の火葬で実は土葬というややこしいことを行っていたことでした。

表向きも土葬になったのは幕末の明治天皇のお父さんの孝明天皇からで、これが明治天皇、大正天皇、昭和天皇にも引き継がれ、4代続いたことになります。

26代継体天皇は、古事記によると、「応神天皇5世の孫」なので、4代前からの土葬は未だ伝統とは言いづらいですね。古墳時代の伝統ですね。

 

天皇家の菩提寺 泉涌寺

かなり昔に、京都駅の東南方の、東山の南端にある泉涌寺(せんにゅうじ)を訪れたことがあります。境内には人がほとんど居なくて、静かな落ち着いたお寺でした。この寺の境内は門より低い位置にあり、門をくぐると下っていくことになるので、ちょっと不思議な感じがしたのを記憶しています。その時は奥まったところに、天皇陵があることを気付きませんでした。

 

この寺は、「みてら」を名乗っており、ホームページには、

 

1242年正月、四条天皇崩御の際は、当山で御葬儀が営まれ、山稜が当寺に造営された。その後、南北朝~安土桃山時代の諸天皇の、続いて江戸時代に後陽成天皇から孝明天皇に至る歴代天皇・皇后の御葬儀は当山で執り行われ、山稜が境内に設けられて「月輪陵(つきのわのみさぎ(原文どおり。「つきのわのみさぎ」の誤りだと思います。)」と名づけられた。」

 

と書かれています。また、

 

「天智天皇、光仁天皇そして桓武天皇以降の天皇・皇族方の御尊牌をお祀りする霊明殿」 や

「霊明殿の東に鎮まる陵墓は月輪陵(つきのわみさぎ)と呼ばれる。四条天皇をはじめ後水尾天皇から仁孝天皇までの25陵、5灰塚、9墓が営まれている」

 

とあり、天皇家と関係が深いことが書かれています。境内には、仁孝天皇までの14基の天皇のお墓があって、以前は泉涌寺の管理だったようですが、現在は宮内庁が管理しています。あるサイトには、「月輪陵は粗末すぎる」とありますが、写真で見る限りそれほどでは無いと思いました。

 

火葬と思っていたら・・・・

狭い京都の東山の麓に、四条天皇を含めると、天皇だけで14基の九重塔のお墓があるということは、「(江戸時代の)後水尾天皇から(孝明天皇のお父さんの)仁孝天皇まで」の天皇は火葬されたと思っていましたが、間違いのようで、事情はもっと複雑のようです。その事情は下の資料①に詳しい。

 

資料① http://www.murakamitatau.com/blog/2012/04/2012428.html

 

この①資料によると、仏教の信仰の篤かった41 持統天皇以来、多くのの天皇が火葬されてきたそうです。しかし、110代後光明天皇から120代仁孝天皇までは、表向きは伝統の火葬をしたことにして、実は土葬にしていたそうです。あの泉涌寺境内の狭い敷地で13人の天皇が土葬とは思いませんでした。

 

正式に土葬

正式に土葬になったのは、120 仁孝天皇の次の121 孝明天皇(122 明治天皇の父)からで、土葬が昭和天皇まで4代続いています。と同時に121 孝明天皇のお墓は、その当時の復古主義の影響で、円形の古墳状のお墓が泉涌寺の裏山に作られました。明治天皇から昭和天皇までは、上円下方墳になりました。

 

庶民は土葬

一方、庶民は薪などの燃料費がかかるので、明治の初めでも土葬が普通でした。第二次大戦後の昭和30年ごろでも約半分は土葬だったようです。もちろん、都会と農村部では様子は大きく違っていて、都会ではもっと火葬が多く、農村部では土葬がほとんどだったでしょう。

 

伏見桃山陵

京都の南の伏見区桃山には、明治天皇陵と昭憲皇太后陵があります。駅から街中を抜けて、玉砂利の広くて長い道を進むと巨大な円形の古墳状のお墓が見えてきます。こういう広大で立派なお墓はすばらしいものですが、参拝するには少し不便です。それに明治時代のような国力を伸ばそうとして時代、そして現人神と言われていた天皇には、このような巨大な古墳状のお墓はふさわしいでしょうが、翻って今日のような時代にこのような巨大な古墳状のお墓はふさわしくないような気がします。

 

現代にふさわしいお墓は?

特に、現人神から人間になった昭和天皇に、八王子の武蔵野陵(武蔵野陵には行ったことはありません。Googleを見ながら、桃山陵を参考に言っています。)にある古墳状のお墓がふさわしいのでしょうか?

昭和天皇までは仕方が無いと思いますが、今後は一考の余地ありでしょう。

参拝するのが比較的便利な東京近郊にあって、親しみやすいお墓であっても良いのでは、と思います。

 

「天皇陵論」外池昇 新人物往来社2007年 によると、200677日の東京新聞などに掲載された共同通信のスクープに

「宮内庁、天皇陵在り方検討、数年前から『合葬』中心テーマ」という見出しの記事があり、その検討の要点は

・天皇と皇后の合葬

・陵の規模の縮小

・葬儀の簡素化

だそうです。

このことから、天皇陵の在り方に関して、2000年頃から内部で検討していたようです。

 

また、この本には昭和227日の大正天皇陵の絵葉書が載っています。大正天皇の大喪は、2月7日から8日に行われたので、その当時の写真と思われますが、人が全く写っていません。現在の木々に囲まれた静かなイメージとは逆に、木々がほとんど無い開かれた斜面に、大喪に使用されるのか数棟の大きな建物があり、周囲には幔幕が張られていて、その違いに驚かされます。

 

下記の天皇家の葬儀・お墓の表について

下の表にある、葬儀の形態・お墓の場所・お墓の形態を見ていると、その裏には、その天皇の考え方、武家との力関係、縁戚関係、神道と仏教の複雑な関係、それに財政状況など、それぞれの事情があってこういう形になったことが推測されます。

 

こういう資料が欲しかったのですが、インターネットで見当たらなかったので、自分で作ってみました。

資料で確認できていない所は空白になっています。

 

大昔の天皇陵の位置は、宮内庁の見解に対し異説も多いので、飛鳥時代から載せていますが、平安時代からのほうが良いのかもしれません。しかしながら、平安時代の天皇陵であっても、途中で場所が分からなくなってしまい、近世になって場所を探し、おおよそこの付近ではないかという場所を天皇陵に指定しているのにも驚きます。

 

天皇家の葬儀とお墓(飛鳥時代~平安時代)

 

天皇家の葬儀とお墓(鎌倉~現代)

 

(表の説明)--------------------

  • 12人の天皇を合葬した深草北陵

持明院統の12人の天皇を祭る。元は鎌倉時代に創建された安楽行(光と書いた資料もある)院の法華堂。その後、安楽行(光)院は荒廃し、江戸中期に再建された。しかし、明治時代の神仏分離令によって、法華堂が分離され、陵として整備された。

  •  (土葬)

括弧を付けているのは、上記のように、表向きは火葬の形式をとりつつ、実は土葬を行っていたから。

  • 110 後光明天皇の土葬に関する逸話 

皇室出入りの魚屋(河内屋)の奥八兵衛が奔走して、火葬を(土葬)に変えた話は、上記 資料①参照。他に、読売新聞にもこの魚屋の話が掲載された。

  • (土葬)は110 後光明天皇から

子の後光明天皇(1633~1654年)の方が先に亡くなられているので、父の後水尾天皇(1596~1680年)より先に土葬されている。

天皇の即位順は,108後水尾天皇-109明正天皇-110後光明天皇 ですが、

火葬の時代順は,110後光明天皇-108後水尾天皇-109明正天皇 です。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1429867314

 

(感謝)

インターネット上の陵・天皇に関する多くのサイトを参考にさせていただきました。一つ一つ引用先を示せませんが、感謝いたします。

火葬:イタリック文字は、「天皇と御陵を知る事典」 藤井利章 を参照した

(表の説明)--------------------ここまで

 

余談

余談ですが、先日寛仁親王殿下が新宿区の施設で火葬されたという記事が出ていました。皇族が火葬されたということで、この施設、上落合の火葬場をGoogleで見てみると、施設は立派ですが、一般民家がすぐに隣接していてビックリします。しかも、この施設への進入道路の狭いことにもビックリ。京都でもここ横浜の山の中でも、火葬場は山の中ですから。私は、町屋や五反田の近くの桐ヶ谷の火葬場にも、大昔に行ったことがありますが、これらも一般民家に隣接していて、ビックリしました。東京だから、仕方が無いのでしょうね。施設の建設時は、これらの施設の周囲も田舎だったのしょう。

なお、この上落合の火葬場には、特別の設備があるそうで、一般の人も割増料金を払えば、使用できるそうです。

 余談の余談ですが、町屋、桐ケ谷、落合の火葬場は民営です。東京には、少ないですが公営もあるようで、ややこしいです。あるサイトで、税金云々という言葉が出てくる場合があるので、誤解されているのでは?と思います。

2012.09.24

2012.10.03に加筆しました。)