「世の中、ちょっとやぶにらみ」

本音とたてまえ使い分け、視点をかえてにらんでみれば、違った世界が見えてくる・・・かな?    yattaro-

「仰げば尊し」

2018年03月20日 | ニュース・世相

                                 
                    春雨にしっとり、沈丁花

高校が3月1日。中学校が9日。そして今日20日が小学校の卒業式。
何れにも出席するチャンスを得て、それなりの感動と、我が身の遠い日を思い出させてもらい、少しの感傷に浸った。
願わくばいずれの卒業式でも、せめて「仰げば尊し」くらいは歌って欲しかった。聞かせてもらいたかった。という小さな不満は残る。

高校でも小学校でもこの希望は叶えられなかった。唯一、中学校の卒業式でだけ聞かせてもらった。
カー君が大きな口を開けて、間違いなく昔懐かしい卒業式の原風景を見せてくれて、一段と感慨深いものがあった。
この「仰げば尊し」の話は、随分以前に触れたことがある。学校サイドから「わが師の恩」などと言われるほどの「恩」を授けてはいない、という発言に対して、親の側も、さほど先生に恩を感じていない、という双方の言い分が妙なところで合致して、いつしか歌わなくなった。といったようなことを書いたと記憶している。

どっちもどっちも言い分があろうから深く詮索はしないのが賢明なのかもしれない。
ただ、中学3年生の男子も女子も涙を流しながら、コーラス大会のステージのように見事なハーモニーで「仰げば尊し我が師の恩・・・」と一生懸命歌う姿は、やはりこの場でしか見られない、聞かれない、感動のワンシーンではある。
こういう歌が歌われなくなったことを反映するのか、「仰げば尊しわがしのおん」とパソコン入力して変換すると「和菓子の恩」と出て来る時代なのだから、あまり目くじら立てて言い募るのも、時代錯誤と笑われるのかもしれない。
それでも、現に歌った中学校卒業式は感動ひとしおであったことは間違いない。

そして今ひとつ思うのは、蛍の光も仰げば尊しもない、簡略化した現代版卒業式なのに、ただただ、旧態依然の硬さと暗さだけは残されていることである。胸に染み入る校長生の素晴らしい式辞に拍手を何故しないのか。児童生徒が一生懸命練習した「送辞」や「答辞」のやりとりに何故拍手の一つもせずに、シーンと静まり返っているのか。不思議でならない。
保護者代表の学校に対する感謝の言葉でも、通り一遍の美辞麗句のオンパレードではない、本音の伝わる謝辞には保護者一同も、我々来賓席からも、感動の拍手を贈って決しておかしくないと思うのだが、如何だろう。

もしも、教師経験者や現役の先生方に、こんな拙ブログが目に留まったら、ご意見を覗いたいものである。
「やっぱりアンタは間違ってますよ」となれば、何おか言わんやではある。もしそうなら理由などお示し頂けると有り難いなーと思う。

コメント
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