怒りのブログ

憤りを言葉にせずになんとしようか。

ずうっと、ずっと、大すきだよ

2007-12-11 16:35:18 | 教育
実践報告・・・かな?

このテキストは前半はわかりやすい展開をもっているが、後半の心情部分はかなりメランコリックな印象を受ける。

「エルフ」という犬を愛している「ぼく」。
家族と違い、「ずうっと大好きだよ。」と話しかけている。
犬と一緒に育つが、当然のごとく寿命の違いによる死別がある。

家族と比して自分がより強くエルフを愛していたことを足がかりに、死を受け入れて前向きに生きていく。
そういうあらすじかと思っている。

死別、埋葬にあたって、家族と悲しむ中、「ぼく」は、
「だって、まいばんエルフに、ずうっと、大すきだよっていってやっていたからね。」
と立ち直っていく。

となりの子からは子犬をもらわなかったが、もらっても(心の中の)「エルフは気にしないってわかっていた。」という。
また、「かわりに、ぼくが、エルフのバスケット(ねどこ)をあげた。」という。

最後に「いつか、ぼくも、ほかの犬をかうだろうし、子ねこやきんぎょもかうだろう。」とつなげていく。

悲しさはあるのだが、ドライな印象を覚える。
文体が常体であるのも私的な世界観を印象づけており、説得力というよりも感性に訴えるものがある。

そういった気持ちを小学校1年生の子ども達がどこまで理解できるのだろう?

そんな疑問が消えない単元だった。

読み取らなければいけないレトリックは、例えば、
「エルフはどこでしんだか?」
というところ。
前段で「ぼくの部屋」で寝ていることがわかっているので、いったいどこなのか?
バスケットというものがあとから出てくるので、挿絵と合わせて、ベット脇に寝床のバスケットが用意されていたことが読み取れる。

一方で、「(悲しみの中)かたをだきあう」場面があるのだが、それを失われた存在から引き出される「さみしさ」の表現と捉えて読むのは、その印象を挿絵などから充分に想像しないとなかなか難しい。

「死」がある話なのだが、最終的に主人公の「ぼく」は、エルフを愛し、理解してきた過程があるから、
「となりの子は小犬をくれるっていったけど・・・もらわなかった。」
という部分に、
「エルフはおこらないってわかっていた・・・」
と付け加えることができた、ということは論理的に理解する事は難しい。

単元構成的にいうと、このテキストを(深さを問わずに)読み、感想を交流し、自分の好きな図書の紹介のステップにするということになっている。

しかし、これほどこの時期の子どもにとって論理展開が難しい話で、しかも「死」というイメージを含む話をステップにしていいのか?と思ってしまう。

もし、感想を交流するときに、この話は「死別があるから嫌い」という話題が子どもから出たらどうするのだろう?
実際、家族の死別を体験してきた子どもには、ある種のトラウマを抱えている場合があったこともある。
「死」という言葉を読めない子、「死」という漢字を書けない子、そんな子に出会っている私には、この物語がいかにドライな印象であろうと、最後の挿絵が幸せそうであろうと、子ども達といっしょに読むときに、躊躇せずにはおかないのである。

いい話なのだが・・・。

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