怒りのブログ

憤りを言葉にせずになんとしようか。

再読

2007-12-10 23:01:56 | 教育書
鈴木和夫さんの「子どもとつくる対話の教育」を読み直している。

先日、鈴木先生と会ってからというもの、ずっと考えている。

たぶん、今年は私にとっても2007年度問題なのだと。

私が関わるであろう某システムへの最後のチケットが配られている。

私は乗り込む前に、今一度注意書きを読んでいる。

これは絶対に間違っていないという確認ではなく、自分を信じてやっていこうという決意のために。

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しばらく、この本を読む足跡を少しずつ綴っていく予定。

卒業式に我が子の顔は見れない

2007-12-10 22:16:43 | 教育
こんなのを観た。

「君が代不起立」(英語版)グーグル動画サイト

今、mixiのあるコミュニティで、この不起立問題を話題にしている。

私の考えは、石原/横山体制時に、日教組の活動を踏み台にしてつくられたイメージ戦略を背景に、思想統制に近い状況を都教委から強権的におろす形で実現した、行事の強制的な事務施策化だと思っている。

動機は、石原/横山の右翼的な発想だろう。

この件に関わる裁判闘争は、主要労組からも見離されている部分があるが、古くて新しい部分がある貴重な話題であり、民主主義と思想信条の根幹に触れる問題だと思っている。

私の主張は明確で、教委側の強権的な式への介入が現場を混乱させている。

本来、保護者や児童・生徒願い、教員や学校側の想いというのが反映されるのが式だと思う。
しかし、現実にはいくつかの縛りの中で行っているわけで、それを杓子定規に捉えて強権を発動したのが都教委だ。
これをもっていくつかの教育活動を粉砕し、管理統制を厳しくすることで、格差社会の現実等何するものぞでお役所的に施策を進める手はずを整えているということだ。
これに従わない管理職や教員は懲罰を受ける。
よくある「いじめ」と構造はあまりかわらない。

だから、これをよしとばかりにした管理職は異様なまでに忠誠を誓うことで給与を上げていく。

そこの目には保護者だとか卒業生、在校生などの当事者はうつらない。

だいたい、式の形式が変わっていても、保護者は気がつかないものだ。
自分の息子が壇上しか向いてはならないから、あとで撮ったビデオに向かって、卒業式を見に来たのになぜこちらを向いてくれなかったのか?とつぶやいても、まさに後の祭りなのだ。

こうして形式から入る、愛国心教育はなされていくのかも知れない。

出て行く我が子が親の顔へ向けない。
そんな時代はいつにあったのだろうか?

いつしかあの旗に、あの歌にしか向かない子どもが具体的にイメージされる時代になるのかも知れない。

それは愛国心?それとも・・・。

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