陽 気 村

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『愛と癒しの時間』

2008-05-29 | 瞑想

愛と癒しの時間―心が満たされる瞑想 

           『 愛と癒しの時間 』

                  鈴木 秀子 著 

鈴木秀子さんの瞑想の本なのですが、読んでいるだけで満たされてくるような・・

    

あなたからエネルギーをもらいたい人

あなたの愛を必要としている人

あなたにとって大切な人

あなたの助けを必要としている人

あなたの叡知を必要としている人

あなたの心の豊かさをもらいたい人

あなたの優しさに触れたい人

あなたの力強さにあずかりたい人

あなたの明るさを分かち合いたい人

あなたの安らぎに触れたい人

あなたの安定感に支えられたい人

 

あなたは必要とされています

あなたから大きな力をもらいたい

大宇宙の大きな支えと愛を、あなたを通してもらいたい人が

今、あなたの目の前に現れてきます

あなたは大きな、豊かな絆で

たくさんの人たち、あらゆる人たちと結ばれています 

 

  なんだか動きだしたくなってきませんか。

 行為そのものにも響きがあるような気がします。高ぶることなく自然に、自然に。 

             

            最後までお読みくださいまして ありがとう 

                                  つながっているすべての人に ありがとう   

 

 

        

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『もっと心が晴れていく簡単テクニック』

2008-05-27 | 生き方

もっと心が晴れていく簡単テクニック(はまの出版)

           『 もっと心が晴れていく簡単テクニック 』

            ひらやま れいこ著

   毎日、知らず知らずの内に、心の中に写真を撮ってためているんだな~

 1日3枚、心の写真を撮ろう

もう15年も前になりますが、ある人が「1日3枚の写真を撮ると良いですヨ」と教えてくれたのです。そこで1年間ほど、毎晩、心に印象深く残ったシーンを3つ、思い出すようにしてみました。たとえば、こんな風に。

朝、電車の中で腹が立ったある小さな出来事
昼、うれしかったあの場面
夕方、ある人にグサリとひと言言われた場面

そして、それぞれについて考えてみます。
朝。「どうしてあんな些細なことでカチンときたんだろうな?腹が立ちやすくなってるのかなァ」とか「よく考えると、相手が悪いだけじゃなく、自分も不注意だったのネ」とか「時間ギリギリで焦ってたから、腹が立ったのかな?もう少し余裕をみて出かけなきゃネ」とか。そんな風に、ナニカひとつ“教訓”を学びます。


昼。「うれしかった原因はアレかな?あんなことで、人は『うれしい』と思うものなのネ。私も『ちょっとしたひと言』を人にかけるようにしよう」とか。


夕方。「グサッとくるひと言を言われたけど、その前に私はどんな態度をとってたかな?確か、心の中で相手のことを『バカみたい』って思ってたよな。“人を裁く心”を持っていたから、言われちゃったのかな?相手にも事情があるんだから、一方的に責める心を持つのはやめよう」とかネ。


こんな風に“心の3枚の写真”から、ひとつずつ学んでいきます。続けていると、自分の心のクセも発見できます。
そのうち、たとえば「上司の○○さんのこういうところ、よく心の中で責めてるナ。どうして、あの欠点が気になるんだろう。私にも同じような欠点があるのかな?」・・・というように、人を見ているようで、自分が見えてきます。
「学ぼう」と思っていなければ、外界しか見えませんが、「学ぼう」としていると、自分の内側も見えはじめるから、面白いのです。

 

  人や、状況を、責めていませんか~

                        

             今日も最後までお読みくださいまして ありがとう 

                                      つながっているすべての人に ありがとう 


 

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『般若心経 心の大そうじ』

2008-05-21 | 仏教

般若心経、心の「大そうじ」(三笠書房)

           『 般若心経 心の大そうじ 』

                名取 芳彦 著 

 

   見えているのに、見えなくなるお話?です。 

見えるもの、見えなくなるもの

 私のお寺では、本堂での法事の際に、お経の間でお焼香をしてもらう時間を設けています。十年ほど前に、焼香箱の横に置いておいたのが次の絵です。
 この二つの絵は見方によって、二通りのものに見えるだまし絵です。
檀家さんがお焼香した後に、これを見てくれれば、聞いているだけでは意味のわからないお経の間、退屈しないですむと思ったからです。さらに良いことに、暇を持てあまして塔婆(とうば)の字をまじまじと見られて「あいかわらず字が下手だな」と思われる心配もありません。本堂の障子の桟(さん)に積もったホコリに気がつかれる可能性も少なくなります。---私のこんな心配はすべて杞憂(きゆう)であることに気づいたので、二年でこの絵を法事で配るのはやめました。
 だまし絵はすでに中学の教科書かなにかで見たことがありましたが、僧侶になって読んだ錯覚かトリックの本で、あらためて出合いました。
 ところが、この絵の下のキャプション(説明)を読んで、私は唸(うな)ったのです。そこには、一つの絵柄を見ようとするともう一つの絵が消えるというようなことが書かれてありました。何が見えるかではなく、何が見えなくなるかという視点からの説明はとても新鮮でした。それは仏教の教えと共通するのではないかと思ったのです。
 一つのことに出会った時に、ひとつの見方しかできないのが私たちです。雨の日は嫌だ、年をとるのは嫌だ、批判されると人格を否定されたような気分になるなど。


 しかし、別の見方もできるはずです。それが観自在です。

 

固い固いアタマ

 さて、十年前の話をもどしましょう。私は、お経が終わった参列者に向かって「この二つの絵に描かれている二通りのものが全部わかる人は、とても柔軟な見方ができる人ですから、何の心配もなく人生を歩んでいけるでしょう。だからこの後の私の話は聞かなくていいです」と言っていました。もちろん、この絵を初めて見る人で、合計四つの絵すべてを見抜ける方はそういるものではありませんから、私の話を聞かされる羽目になります。


 左の絵は、左を向いているアヒルと右を向いているウサギ。右の絵は、モアイ像らしき左を向いている顔とコートのフードをすっぽりかぶって向こうを向いて右手を上げて立っている人。


「私の説明なしに、一つの絵しかわからなかった人は、毎日の暮らしでかなり気をつけた方がいいです。かなり考え方が偏(かたよ)りがちな人です。二つともわからない人は、ほとんど人の話を聞いていない人です。かなり頭が固い方です。私が全部説明しても、まだわからない人は、このまま家に帰らずにお寺で修行してください」
               

  四っつの絵わかりましたか~。アヒルで見てしまうとすぐ近くにあるものも(この場合うさぎ)瞬間消えてしまいますね~。不思議ですね。同時に二つ、四っつの絵を認識できる方もいるのかな?

カルちゃんも相当思い込みが激しい方です。見ているようで見ていないこと、けっこうありますから。 好きな人や、尊敬する人、偉い人のお話なんかは、特に見えなくさせてしまうような気がするんだな~ (これも思い込み?) 

 

          最後までお読みくださいまして ありがとう 

              つながっているすべての人に ありがとう 

             

                         

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『人はなぜ生まれたか』

2008-05-17 | スピリチュアル
人はなぜ生まれたか / デイビッド・シュパングラー/著 山川紘矢/訳 山川亜希子/訳 『 人はなぜ生まれたか 

                  デイビット・シュパングラー著山川紘矢・山川亜希子訳 

 「呼びかけ」という言葉が何度も使われています。原題は 『The Call 』ですもんね。 

 

  一方、「呼びかけ」は、それほど特定的ではありません。明確な仕事や方向性を与える必要はないのです。事実、私たちが人生で受け取るもっとも強力な「呼びかけ」、つまり、自分の中のもっとも深い部分からやってくる「呼びかけ」は、特定のことをしなさい、という「呼び出し」ではなく、むしろ「めざめ」のようなものです。「気づきなさい」と私たちに呼びかけるのです。


私たちは誰かに名前を呼ばれて、「はっ」としたことが何度かあるのではないでしょうか。名前を呼ばれると、「は~い」とか、「ここにいますよ!」とか、その時々にふさわしい返事をします。「神の呼びかけ」も同様に、何一つ、特定の方向づけを持ちません。私たちの名前を呼んだ人は、私たちがそこにいるかどうか、知りたかっただけかもしれません。


たとえば、私の一番小さな息子が学校から帰ってきたとします。彼はドアのところに来て、大声で呼びかけます。「お母さん、いるの?お父さん、いるの?」彼は私たちが家にいるのを知っています。しかし、私たちがいるのを実際に確かめたいのです。私は家のどこにいても、どこにいても
、どこにいて何をしているのか、大声で彼に知らせます。ふだん、こんなふうに答えています。「お父さんはここにいるよ。今、コンピューターの前にいて、書きものをしているよ」(いつか「お父さんは、ソファーに横になって、テレビを見ながら、ミント・チョコレートを食べているよ!」と答えたいものです!)


「呼びかけ(コール)」というものは、存在を確認する以外の何ものでもありません。私たちが本当にここにいるということを確認する作業なのです。人類学者であり、霊的(スピリチュアル)な教師であるアンジェルス・アリエン女史なら、「顔を見せていることを知らせる」と表現することでしょう。

つまり、「呼びかけ(コール)」とは特別な任務を命じられることではなく、その瞬間が私たちに何を望んでいるか、気づくことなのかもしれません。注意しなさいという呼びかけなのです。

 

   “今ここにいること”でつながってくるような気がするんだな~ 

                     

              最後までお読みくださって ありがとう 

                   つながっているすべての人に ありがとう 

             

                         

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『ゆだねるということ 上 』

2008-05-14 | スピリチュアル

ゆだねるということ(サンマーク出版)

            『 ゆだねるということ 上 』

                  ディーパック・チョプラ   

  「ゆだねる」 テーマですね~。

 プロローグ

奇跡は毎日起こっています。地球を半周した遠い田舎の村や聖地だけの話ではなく、わたしたちが暮らしている、今この場所で起きているのです。奇跡は隠れたところからひょこり顔を出し、一瞬チャンスで取り囲んでくれたかと思うと、すぐに姿を消します。

奇跡は日常生活に現れる流れ星のようなものです。めったに見ることはできず、見つけると、何か不思議なものに出会ったような気がしてきます。しかし、流れ星はいつも空を横切っています。日中は日差しがまぶしくて気づかないだけですし、雲ひとつない暗い夜も、たまたま見上げた場所が星の通り道とは違っているから、見つからないにすぎません。

  すべては同時に発生している

「出来事が、ふたつの別々の場所に存在しているように見えるのは、錯覚かもしれない」と聞かされたなら、もっと度肝を抜かれてしまうでしょう。しかし、ふたつの異なる場所で起こる関連した出来事は、実際にはたったひとつの出来事かもしれないのです。


水槽を泳いでいる一匹の魚を頭に思い描いてください。この魚の動きを二台のビデオカメラで記録します。二台のカメラは互いに直角になるように配置され、別室のふたつのスクリーンにそれぞれの映像が映されます。何も知らずに別室のふたつのスクリーンにそれぞれの映像が映されます。何も知らずに別室でふたつのスクリーンを眺め、一匹の魚がある方向に動くと、もう一匹の魚のほうもそれに連動して泳ぐのを見た人は、驚いてしまうでしょう。いろいろな角度に多数のカメラを設置し、その魚の映像をそれぞれ違うスクリーンに映したなら、たくさんの魚がいっせいに連動しながら泳いでいるのだと思ってしまうはずです。しかし舞台裏を覗けば、魚はたった一匹しかいないことがわかります。


神秘的伝統を受け継いだすぐれた預言者たちは、人が日々経験しているのは、出来事や事物が時間と空間のなかで別々にしか「見えない」、投影された現実だと指摘しています。もっと深い現実のレベルでは、人間はすべて同じ身体の一部であり、その身体のどの一部にでも変化が起これば、ほかのすべての部分に即座に影響が及ぶというのです。


科学者は、ミンコフスキーの八次元超空間と呼ぶ存在レベルも提示しています。この数学的に構想された次元のなかでは、どれだけ時間や空間が離れているように見えても、ふたつの出来事の間の距離はつねにゼロです。

ここにおいても、わたしたち全員が分かちがたく結びつけられているひとつの存在の次元が示唆されています。離れて見えるのは錯覚かもしれません。

 

    すべては同時に発生しているとしたら・・・・・・なんか わくわく してきますね  

                

             今日も最後までお読みくださいましてありがとう 

                                      つながっているすべての人にありがとう    

 

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