陽 気 村

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『山歩き』

2013-07-25 | Weblog

  久しぶりの山歩きですよ。

 とんぼが出迎えてくれました~

  

  緑がなんとも気持ちがいいです。

  

  ありの巣でしょうか?クレーターみたいです。

  

  突然 足元で 「ガサッ ゴソッ」 と物音が  

  なんと かえるくんでした。 おどろき~

  でかい!! 後ろ足の長さをいれると カルの掌くらいあります。

  

   雨が降ってきました!

  

  

  このしだは 円を描くように ひろがっています。

 

  

  雨が強くなってきたので

  写真撮影は これでおしまいです。

  頂上 まで登り

  急いで 山道を 下りました。

  下り道には かえるくんが 何匹もいましたよ。

  雨が 降るのを 待って いたのかもしれませんね。

  

  歩けること に ただただ 感謝です!

  

   (雨の日の下り道は すべりやすいので 注意してね)

                 

                         

         今日も最後まで読んでくださって ありがとう 

 

                      ながっているすべての人に ありがとう    

 

 

 

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「楽に楽しく生きる」

2013-07-08 | Weblog

  何度か読み返す本の中に「楽に楽しく生きる」小林正観著があります。

カルが精神世界に興味を持つきっかけになった本です。

何気なく開いたページからUPしますね。

 

「ありがとう」というのは、「その人のあるがままを全部認めてあげる」こと。

それが「ありがとう」なのです。

こっちのほうに来てくれたら<ありがとう>だけど、そうじゃない方向に行ったら<ありがとうでない>というのでは、相手は心を開いてくれないと思います。


その人が持っている性質を全部まるごと認めて、〝私〟が「ありがとう」って言えるようになるかどうか、ですね。
自分にとって気に入らない人がいるとしましょう。そのときに、私たちは<思いどおりの人>にしようとします。そうすると苦しい。


そうではなくて、「そうなってくれてもいいし、そうならなくてもいい。ただ、目の前のあなたを受け入れる」ってすべてを受け入れる気持ちになったら、相手の状況によって一喜一憂することがありません。
そうなれば、何よりも自分自身が幸せなのです。

「ありがとう」を言ったら相手が変わってくれるだろう、だから「ありがとう」を言うぞ、というのは入り口としてはいいのですが、そこが目的になったときには、恐らく行き詰ってしまうでしょう。
「ありがとう」を言っていることで、〝私〟自身の波調、雰囲気が変わり、相手とつながって、結果的に、〝私〟が楽しいと思える状況が展開されるのですが、これは、相手を変えているのではないんですね。


相手を変えるために「ありがとう」というよりも、「この人はこの人でいい。私はただ、この人を受け入れて抱きしめていけばいいんだ」って思い切ることができたら、その瞬間、この人を含むすべての状況を受け入れることができるわけです。
受け入れればいい。受け入れるのには、三秒です。

過去のすべてを受け入れる、一秒。
現在のすべてを受け入れる、二秒。
未来のすべてを受け入れる、三秒。

すると、目の前にあった悩み苦しみはなくなります。それは、一歩ずつ登っていって克服したのではないんです。今まで、障害障壁が高くそそり立っていたはずなのに、受け入れた瞬間、城壁そのものが消滅してしまった、という感じになると思います。
それは、障害障壁を乗り越えたのではなくて、実はそんなもの、もともとどこにもなかったのです。

 

   思いどおりの人にしようとする自分に気づくことがあります。その時は、ありがとうって思えないですからすぐわかりますね(笑)。今、起きている状況も、それは問題があるように思えてもちゃんと意味があるんだと思うこの頃です。

                

            

          最後までお読みくださって ありがとう 

              つながっているすべての人に ありがとう 

 

 

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『禅とハードル』

2013-07-01 | 仏教

『 禅とハードル 』

               南 直哉 ・ 為末 大

                

   信じることについてちょっとだけ触れてみましょう。カルも普段あまり意識はしていなかったですね。まだまだ良い結果を期待して信じることのほうが多いですから。ここでは、「信じること」について深く語ってくださっています。この2人だからこんな対話ができるのかもしれませんね。

 

  :信じていないけれど、「信じようとする自分」でしかありようがない。「信じようとする意志」だけが自分を支えていて、
その上で「信じる」というところに向っていかなければならないと思うんですよ。「善人なおもて往生す、いわんや悪人をや」という、親鸞の「悪人正機説」ってあるでしょ。
あれもそうですね。例えば神を信じると言ったときにですね、ものすごく真面目に考える人は、「神を信じる」ということをどう考えるか、
どういう状態で信じているのかってことを考えると思うんです。例えば、もし一生懸命お祈りしていれば神様は聞いてくれるっていうのが「信じる」ということだとしたら、
これは基本的には取引なんです。そうでしょう?つまり自分の力で神様を動かそうってわけですから。「これだけやったんだから、お願いしますね神様」っていうのは取引じゃないですか。
取引だからそれは信じるということとは違う。
信じるというのは、何が起こるかわからない、どんなものだかわからない相手をそれでも「信じる」ということです。

自分にはまったくわからない神のような絶対者、もしくは「死」のようなものかもしれない。とにかく、わけがわからない予測のつかないものを信じるということです。
そんな、わけのわからないものを信じるというのは普通は難しいことです。しかしわけのわかるものを信じるというのは取引にすぎない。そうすると「わけのわからないものを信じる」
ってことを実行しない限りはそもそも「信じる」ことにならないわけですよ。わけのわかるものだったら信じなくてもわかればいいんですから。

信じることを発動させるためには、わけのわからないものに対して身を投げなきゃいけないんです。信じる相手はわからない存在だから、
相手に向かって何かを問うわけにもいかないわけだし、そうするとできることは、自分がどういう状態であることを「信じている」状態であると定義するか、それを考えるしかないんです。


私はね、取引以外のものを信じるとしたならば、ある意味「自虐」以外にはないと思うんです。つまり自分がいかにダメな存在で、罪深い存在でってことを徹底的に自覚することで
絶対者が絶対的である意味を確保するしかないんです。しかし「罪深い自分だけれども、それでも救われるだろう」と思ってはダメなんです。「救われるだろう」と思ったら取引に応じる
ことになりますからね。

為末: 救われないという絶望からしか「信じている」状態は生まれない・・・・・・?

    (この続きは書籍でね)

                 

      ひとつの捉え方ですが、取引以外のものを受け入れるというところに、「生きる」ことにつながるような気がしますね。

         

        

         最後まで読んでくださって ありがとう 

                              つながっているすべての人に ありがとう 

 

 

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