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『老師と少年』

2008-08-23 | 仏教

老師と少年(新潮社)

           『 老師と少年 』

                 南 直哉(みなみ じきさい) 著 

   ある夜 、自分を見失いつつあるひとりの少年が、「答え」を求めて、森の奥の庵に住む老師を訪ねます。「わたし」って何?「本当の自分って?」「人間って?」少年と老師の問答にカルちゃんも一緒になって問いかけてました~

 今回は、第二夜からです

     

「『ぼくはぼくなのに、ぼくではない』と、君は言った。その問いで、君は何を知りたいのだ」
「師よ、本当の自分です。本当の自分が知りたいのです。今のぼくはぼくではない!人々の中で、人々の前で、求められるように振る舞い、そうあるべきように振る舞うぼくは、ぼくではない!それは仮の、嘘のぼくなんだ!」
「そうだろう、そう言いたいのだろう」
師は、懐かしいものを見るように微笑んだ。


「君は『本当の自分』ではない。だから、『本当の自分』はわからない。だから本当の自分を永遠に知ることはできない。会ったことのない人はさがせない」
「しかし、しかし、師よ。世には、それを教えると言う人がいます。それを知る手段があると言う人がいます」
「間違っているのだ。間違っているのだ、友よ」
「何がですか」
「彼らは、問い方を間違えている。彼らは『私』という言葉を知らない」
「違います。師よ。これは言葉の問題ではない。今ここにいる、この僕の問題でしょう!」
「違う。もしそうなら、今ここにいる自分がそれほどはっきりとわかるなら、君は『本当の自分』を問わないだろう。本当に問題なのは、『本当の自分』を知ることではない。君が『本当の自分』を苦しいほど知りたいと思う、そのことだ」
「わからない。わかりません。」


「人はみな、当たり前に『私』という。しかし、この言葉は何を意味しているのか?友よ、君もまた簡単に『ぼく』と言う。それは何を指しているのか?」
「それは・・・」
「何だ」
「・・・・・」
「体か?」
「いいえ」
「心か」
「そうかもしれません」
「いつの心か」
「今のです」
「今はもう過ぎた。過去の心はすでにない。未来の心はまだない。そして、過去の心と今の心と未来の心が、同じ『ぼく』の心だと、なぜ言えるのか」
「では、なぜ、ぼくはいつでもぼくなのでしょう」


「人は思う。かわらぬ『私』を支える何か確かなものがあるはずだ、と。だが、それは、どのようにしても見つけられない。なぜなら、『私』という言葉は、確かな内容を持つ言葉ではなく、ただある位置、ある場所を指すにすぎない」
「その場所はどこですか」
「『あなた』や『彼』ではないところ、『いま、ここ』だ。『私』はそこについた印なのだ」
「それだけのこと?」
「それだけだ。その場所に人は経験を集め、積み上げ、それを物語る」
「物語る?」
「集められ、整理され、まとめられる。それが言葉を持つ人間というものの在り方なのだ。『私』という名前の物語を作らねばならない」


「師よ、ではだれが整理するのですか、だれが『私』を物語るのですか」
「少なくとも、それは『私』ではない」
「師よ、誰かいるはずでしょう!それが『本当のぼく』でしょう!」
「違うのだ。友よ。もし『本当の私』があるとすれば、それは『私』という物語を作らせる病、としか言えない。あるいは、『あなた』や『彼』と共にいる中で経験される、『嘘の私』へのいらだちとしか言えない。『ぼくは本当のぼくではない』と君は言う。人にそう言わせる、その亀裂、この裂け目、この痛みとしか言えない」


「では、『本当の自分』をさがす人はただ愚かなだけですか?」
「そうだ。しかし、愚かさでしか開けない道もある」
師はふいに少年の肩に手をおいた。
「君はいまここで、私と話をしている。それが本当の君であろうと嘘の君であろうと、君なのだ。我々二人にとって、それで十分だ。そのこと以外に、我々の頼りになるものはない」
少年は灰色に光る老師の瞳を見た。


「友よ。『本当の』となのつくものは、どれも決して見つからない。それは『今ここにあること』のいらだちに過ぎない。苦しみにすぎない。『本当の何か』は、見つかったとたんに『嘘』になる。またいらだちが、還ってくる。もし、『本当の何か』が見つかったとすれば、それはどれもこれもすべて、あるとき、ある場所に、人の都合でとりあえず決めた約束事にすぎない」
老師の低い声は少し強くなった。


「友よ。『本当』を問うな。今ここにあるものが、どのようにあるのか、どのようにあるべきなのかを問え」
「師よ、どう問うたらいいのでしょう。ぼくにはそれがわからない、それこそがわからないのです!」
「君は扉の前まで来た。中に入りたければ入るがよい。しかし、それは今夜ではない」

 

  『今ここにあること』のいらだちに過ぎない。ずし~んとくるんだな~ 

   

              最後まで読んでくださってありがとう 

                               つながっているすべての人にありがとう 

 

                            

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『アボリジニの教え』

2008-08-12 | スピリチュアル

アボリジニの教え(ベストセラーズ)

          『 アボリジニの教え 』

                  海 美央 著 

  

 人間と大地、人間と自然、人間と地球、密接につながっていることが伝わってくるんだなぁ~

 

 「これで準備ができたよ。満月と我々と大地がつながっているよ」
ワイナがいった。
そして、イミャーが語り始めた。


「仲良く、というのが我々の理想なのだ。自然と、自分と、人間と、すべてと仲良く。人を差別したり、嫌ったり、憎んだりするということは、その人のハートに問題があるということなんだよ。心を静めてメディテーションしなければいけないんだ。
もしも、自分が苛(いら)ついたり、妬み、僻(ひが)み、恨み、憎しみの気持ちを抱いたら、そっとメディテーションするんだ。そうすると、天からの声が聞こえたり、自分の内側を振り返ることができるから。


何万年も前から、我々アボリジニは自然とひとつになって生活してきた。空や風、木や花たちは、私たちの身体そして心とつながっていた。やがて白人の文明に毒され、我々の生活は変わってきた。しかし、心まで文明に奪われてしまうことは、我々にはあり得ないんだ。ブッシュウォークやメディテーション、歌や踊りの儀式によって、心を静める。そうすると、愛や平和を見出せるのだよ。誰かにひどく傷つけられたとき、その相手に愛を送るメディテーションをするんだよ。相手のためにね。そうして癒しの手伝いをするんだ。傷つけられた相手に対して、自分が彼らを何らかの点で責めていないか、ありのままに受け入れているかを考えることも忘れてはならない。相手に愛を送る前に、まずは、傷ついた自分の感情を愛で癒すことも大切なんだ。


これから、みんなでメディテーションだ。今度は大地と人々のために。この大地のために自分が何をできるのか、集中して考えるんだ。偉大なる大地が傷つき、それによって起こる我々生き物すべてへの影響。もう、どうにも取り返しはつかない、しかしそんな中で何ができるのかを考えるのだ」

私たちは再び目を閉じた。

私たちの都市での生活は、ここにいる彼らに比べると何十倍も物質的である。耳にする音は、車の騒音、人々のざわめき。自分の内に発見するのは焦りや不安、そしてストレス。自分との会話といえば、葛藤。
これが自然との対話、共存を忘れてしまった結果である。しかし、これが現実である。イミャーとハロード、ネイジは私と月を結びつけるためにメディテーションをしてくれていたのだ。何の強引さも押しつけがましさもなしに、人のために心を落ち着ける。人を正常ではない状態にさせてしまうといわれている満月の下で、彼らがこのようなことができるのは、彼らが揺るぎない地盤を彼らの中に築いているからであり、彼ら自身の問題を受容し得ているからなのである。

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ミオ、レジー、君たちには教えたいことがたくさんある。それらを実践していくことが、失われかけている我々アボリジニの精神性を分かち合うことになるのだ。どうにも修正が効かなくなってしまった大地の上だが、少しでも喜びに満ちた人生を歩んでほしいんだ。

その瞬間、瞬間だけにエネルギーを注いで楽しむんだよ。自分の感情、直感を信じて、そのときに充分エネルギーを注ぐのだ。そうすれば、必要な物事が完璧な形で現れるから。先の心配などしなくても、現在という点を深く生きていれば、時間にコントロールされることなく、時間が自分の一部となるだろう。

正しくエネルギーの注がれた現在は、同時に光輝いた未来を築いていることになる。

間違っても、未来を心配したり、未来だけに生きてはならない。その結果、必ず無理が出てしまう。心のゆとりを失ってしまう。心を忘れると、マイナスの精神に陥ってしまう。

創造の祖先は、我々を肉体だけの生き物として創ってはいない。

いいかいわかったね。

   たくさん祈りの中で、僕たちは生きている?アボリジニから学ぶことまだまだたくさんあるような・・・・・

   

                 今日も最後までお読みくださいまして ありがとう 

                                      つながっているすべての人に ありがとう    

 

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『「本気の扉」を開けば、なりたい自分になれる』

2008-08-10 | 生き方

                    『 「本気の扉」を開けば、なりたい自分になれる 

                  紙屋まさみ 著 

   YOGA教室「Shanti Path」を主宰されている紙屋さん。エネルギッシュな感じが伝わってきます。なぜ、これほど前向きなのかなぁって思いながら読んでいくと、実は、2歳からの腎臓病が不治の病であることを宣告されていたんですね。西洋医学に疑問を感じ、様々な民間療法、東洋医学を転々とした末、ヨーガによって健康を得たからなんでしょうね。

 その中から、高石ともやさんの体験のお話です。

    

少し古いお話ですけど、フォークシンガーの高石ともやさんの体験がとても感動的でわかりやすいので、ご紹介します。


高石さんは、『受験生ブルース』で知られた方で、一九九三年の六月にアメリカ大陸を四七〇〇キロ歩いて横断する『トランスアメリカフットレース』に参加されました。このときが三度目の挑戦でした。一日に七四キロ歩いて、それを六四日間続けてやっと横断できる過酷なレースです。ミシシッピー川も、ロッキー山脈も越えなくてはいけない。ただひたすら歩いて越えるのです。
スタート時点では十三人参加者がいましたが、途中で七人脱落して、完歩できたのは六人だったそうです。リタイアした七人は、「あぁ、こんなひどい嵐の日じゃもう歩けない」「あぁ、砂漠で気温が五〇度もある、もう暑くてたまらん」「なんでこんな大事なときにまめができるんだろう」って、ちょっとでも愚痴を言う人全員がだめになったんですって。


残った人たちというのは、何があてもさっささっさと歩いて、五センチ先が見えないような嵐でも、「あぁ、嵐だなー」。五〇度のジリジリ焼ける砂漠の中でも、「あぁ、砂漠だなー」「広いなぁー」って。足の親指にまめができて、血がふきだしても歩いているんです。「あぁ、まめができたなぁー」「血が出てるなぁー」て笑ちゃうんですって。どんなことがあっても絶対に愚痴を言わない。「ま、そういうときもあるわ。雨もある、嵐もある、砂漠もある、まめも破れる。ま、そうだな」って全部受け容れる。そういう人たちがだけが、残ったのだそうです。
レース終盤でカンザスシティに着いたときには、そういう前向きな六人が意欲満々で絶対完歩するぞって燃えていました。
そしてあるときミシシッピー川が氾濫していたんです。その日、午前三時に協会から、基本の七四キロに川を迂回する分の二〇キロ増えて、今日は九四キロだと発表されました。
その日は洪水が起きるくらいですからすごい嵐です。さすがに、それまで一言も愚痴を言わなかった人たちが「シーン・・・」となって、黙って、うつむいてしまったの。誰も何にも言わなくなって。しばらく皆、唖然と雨に打たれながらそうしていたの。   


そしたらその中の一人の若者がスッーと立って、皆の前で大きな声でまるで詩を読むように言ったんだって。「僕たちが泣いても、落ち込んでも、腹を立てても、悔しがっても、ここからニューヨークまでの距離は変えられない。どんなに泣いても、どんなに怒っても、ここからニューヨークまでの距離は変えられないんだ、さぁ勇気を持って行こうじゃないか!」
そしたらね、残りの五人がスッーと立って、「よし!」って歩き出したんだって。そのとき高石ともやさんは、涙がね、あとからあとからいっぱい出てきてすごく感動して、魂が本当に感動で震えて、人生観がすっかり変わって悟ったんですって。「そうだなー!」って。
せっかくここまで来て引き返すわけにもいかないし、今日九四キロって決められたんだから、もう歩かなきゃニューヨークを目指せない。ここで座ってたって、泣いてたって、怒ったって、アメリカ大陸は小さくならないなぁーって。
そのときに、「よし!」て思ってね、嬉しくて、ただただ嬉しかったんですって。そのことが本当にわかって、嬉しくて嬉しくて泣きながら皆歩き出して、とうとうその六人は、全員ニューヨークまで行ったんですって。  


このお話はとてもわかりやすく、自分の思い方一つで人生がまったく違うものになるということを教えてくれています。高石さんはこの年のレースまでに二回挑戦して、途中で脱落しています。
そのときは、付き添いでケアしてくれている奥さんにつまらないことでつい怒鳴ったりしたそうです。奥さんが出してくれた飲み物に、「こんな熱いもの飲めるか!」って文句をつけたり、「こんな大雨じゃ歩けない」と弱音を吐いたり。
やっぱり、こういうネガティブな思考にしかなれないときは途中で挫折するし、ポジティブでい続けられれば自ずと道は開けていきますね。些細な違いに思えるかもしれませんが、それがこれだけ過酷なレースの成功と失敗の分かれ目にもなるのです。

 

  ただ歩き続ける中にも、いろいろな出来事がありますね~

            紙屋ますみさんのHPShanti Path」

            http://www2.plala.or.jp/shantipath/index.html   

      

              最後まで読んでくださって ありがとう 

                               つながっているすべての人に ありがとう 

                           

 

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『私が一番受けたいココロの授業』

2008-08-05 | 生き方

私が一番受けたいココロの授業(ごま書房)

           『 私が一番受けたいココロの授業 』

                比田井和考  比田井美恵 著

  比田井和考(ひだいかずたか)さんは、奥様である比田井美恵(ひだいみえ)さんとともに長野県の上田情報ビジネス専門学校 、通称「ウエジョビ」に勤めています。学生の幸せのために行っていることのひとつとして、「就職対策授業」があります。
「俺の役割はこれだ!」まさに、「この授業をすること」
「みなさんに将来、幸せになってもらうために、この授業をすること」
実際に行われている授業を話言葉もそのままになっているので

読んでいくうちに、比田井和考講師の「真剣」が伝わってきますよ。
この授業では、鍵山秀三郎、本田宗一郎、イチロー、五日市剛、野口嘉則(のぐちよしのり)氏から学ぶことなどが語られています。とても興味深い内容です。


その中から、今回はジミー・カーチスの話です。

 ジミー・カーチスの話

 ここで、田口朝子(たぐちともこ)さんからお聞きした、お話をします。
田口さんはNPO法人円ブリオ基金センター理事をされている方です。

結核がまだ死に至る病だった頃の、アメリカのある病院のお話です。

その病室にも死の宣告を受けた7名の患者が入っておりました。
ジミー・カーチスは、その一番窓際に寝ていました。
自分で動くことができない患者の中で、
ジミーだけが、唯一、窓の外を見ることができました。
死と隣り合わせの同室の患者は、みんな心がすさんでいました。

その患者を前にして、ジミーは
窓から見える光景をみんなに語り伝えるのです。

「おーい、みんな、今日は子供達が遠足だよ。
黄色いカバンをさげている子がいるな。
いやぁ、ピンクの帽子をかぶっている子もいるよ。かわいいな。
3番目と4番目の子が手をつないで歩いている。
きっと仲良しなんだろうなぁ。
あ、空には黄色い蝶々が飛んでいるよ」

ところが、ある日、朝起きてみると
窓際に寝ていたはずのジミーがいません。
昨晩、亡くなったのです。

すると、入口から二番目のベッドに寝ていたトムという男が、
「俺をジミーが寝ていた窓際にやってくれ」と頼むのです。

しかし、看護婦さんたちは、顔を曇らせて、
なかなか言うことを聞いてくれません。
業を煮やしたトムは、声を荒げて怒鳴ります。

それで仕方なく、看護婦さんたちは、トムを窓際に移します。
喜んだトムは、

「俺はジミーみたいに
外の景色をみんなに話してなんて聞かせないぞ。
自分だけで楽しむんだ」

そう思って窓の外を見たのでした。
ところが、窓から見えたのは、灰色の古ぼけた壁だけだったのです。
その瞬間、トムはジミーの思いがすべてわかったのです。

「ジミーは、壁しか見えないのに
自分たちのすさんだ心を励ますために、
その壁の向こうに広がるであろう素晴らしい世界を
ああやって語り聞かせてくれたんだ。

それに引き換え、自分ときたら、自分だけ楽しもうなんて、
何という恥ずかしい自分であろうか。」

心から懺悔したトムは、ジミーに負けないくらい、
素敵な思いやりをもって、
次のように語り聞かせるようになったのでした。

「おーい、みんな、今日は花屋さんが通るぜ。
車の中はバラの花でいっぱいだ。
前のほうは、あれはパンジーの花だな。
あの隣の黄色いバラ。甘い香りがするだろうな」

・・・と、話はここまでです。

ジミーはね、みんなに与えたからといって、
見返りなんて、何も期待していないですよね。

でもね、ジミーは、与えることそのもの
みんなに喜んでもらうことそのもの
それが嬉しかったんです。

でも、ジミーがした仕事はすごいですよね。
トムの人生を一瞬に変えてしまいます。
トムはそれまで心がすさんでいました。
きっと、辛い人生だったんでしょうね。

でも、ジミーの「与える心」のおかげで、
トムの人生は最後の最後に大きく変わりました。
人生の最期に「人の心」を取り戻させてあげたんですね。

 

 比田井講師がインターネットラジオ「おもしろジャパン」で授業内容の一部を紹介してくださっています。本田宗一郎さんのお話もいいんだな~ 下記HPのbroadband movie PLAY をクリック!

    http://www.uejobi.ac.jp/special/kokoro/index.html    

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             今日も最後までお読みくださいまして ありがとう 

                                      つながっているすべての人に ありがとう 


 

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『 祈る心は、治る力 』

2008-08-03 | スピリチュアル

祈る心は、治る力(日本教文社)

           『 祈る心は、治る力 』

                ラリー・ドッシー 著 大塚晃志郎 訳

  祈りって何だろう?ふと湧いてきました。

    祈りとは、「あるがまま」にあるべきものである 

 ある大学病院の外科部長をつとめる医師が私にこういった。「これまでの人生のほとんどを通して、私は祈りの効果など信じていませんでした。そんなものは大学の医学校に入ったときに、どこかへ置いてきたと思っていました。でもそうではなかったことに気づいたのです。私はいつも、手術をするたびに、患者のために祈っていたのです」


そして彼は、自分の祈り方を語ってくれた。彼にとって祈りとは、手術室に入る前に患者に対して抱く、心からの思いやりと共感である。こうした感情は、自分が患者とだけではなく、手術に関わるすべてのメンバーとつながっているという一体感を彼の心に生み出す。この一体感に支えられて、彼は自分の仕事の意義と目的を深く心に感じ、この手術は単に技術をふるう以上のものなのだと自覚するのである。


「祈ることはやめた、ずっと祈ってこなかったと、あなたが思い込んでいたのはなぜなのでしょう?」と私はたずねた。
「私は子どもの頃から、祈りを、ただ言葉や語りかけと結びつけて考えてきたのです」と彼は答えた。「祈りというのは、口に出していうもの、それも、何かを得るためにするものでした。祈りとは、わがままを言葉にしたものだったのです。そんなものには愛想がつきたので、もう利用するまいと思ったわけです」


彼は続けて、祈りに対する見方がどうして変わったのかを話してくれた。
「手術中の私は、自分が目の前でおこっていることに、完全に没頭しているのを感じます。手術がむずかしければむずかしいほど、その感じは強いのです。メスと患者が完全につながって、一体化しているように感じることさえあります。多くの場合、そこに畏敬の念が生まれます。何といったらいいか-----言葉ではとても表現できません。私にとっては、このような体験のすべてが祈りなのです。私がいったりしたりすることではなく、私が感じることが祈りなのです」


この外科医の言葉は的を射ている。祈りはしばしば言葉を超えるのだ。しかし、声に出して祈ることがいつもまちがいだというわけではない。そうしたいという思いに動かされたのなら、祈りの言葉に美しい音楽をつけて、讃美歌にしてもいい。言葉は神から与えられたすばらしい贈り物である。祈りに使って悪いはずはない。

ただし、誰もが言葉を使う技術に巧みなわけではない。私たちはこのことに感謝すべきだ。世間の人すべてが雄弁家だったら、この世はとても耐えられないものになるだろう。
だから、私たち人間がいろいろなやり方で、祈りに自分の気持ちをこめるのはごく自然なことなのである。多くを言葉による人もあれば、あまり言葉によらない人もいていいのである。


祈りとは言葉なのか?それとも沈黙なのか?祈りとは、「あるがまま」にあるべきものだ。私たちの内から祈りがほとばしり出てきたなら、その流れが一番自然に進むような川筋なり水路なりを行かせてやるべきなのだ。そこに堰(せき)やダムを作ってしまうと---たとえば祈りは絶対に言葉にするべきだとか、黙ってするべきだとか、雄弁に唱えるべきだ、音楽的であるべきだ、儀式的であるべきだ、陽気であるべきだ、深刻であるべきだと決めつけると---いろいろな問題がおこってくるのである。

祈りは心の態度なのだから、目に見えず、耳に聞こえず、静かなものでもいいのである。カトリックの作家で修道士でもあるトマス・マートンはこういっている。

「息をすること自体が私の祈りだ」

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祈りのための祈り

願わくば、祈りをあるがままのものとして行えますように

人の心の無限の有りように
 寄り添うものにできますように
何よりもむずかしいわざ、人に口出ししないというわざを
 私たちが学べますように
私たちが祈りを導こうとするのではなく、
 祈りに導かれますように
祈りが「あるがまま」であるよう、私たちが
 祈りそのものを行えますように

願わくば、祈りをあるがままのものとして行えますように

 

   祈りに関してのカルちゃんの思い込みに気づかされます~祈りが なぜ効くかってことは“生命の秘密”でとても謎めいているんだな~         

 

             今日も最後までお読みくださいまして ありがとう 

                                      つながっているすべての人に ありがとう    

 

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