陽 気 村

フィーリングを楽しんじゃおうっと

広告

※このエリアは、60日間投稿が無い場合に表示されます。記事を投稿すると、表示されなくなります。

『センタリング』

2012-04-29 | スピリチュアル

[いま、ここ」にある幸せに気づくセンタリング』

             はづき虹映 著  

 

 はづきさんて、女性とばかり思っていたのですが男性でしたね。

  「とにかく実践、なんでも体験」のスタンスの中で

  一番大事にされているのが 「センタリング」の感覚。

  本書からも「真ん中に在る」感覚が伝わってきますよ。

     

        私たちがこの三次元で、肉体をもって生きているということは、
        「不完全さ」を味わうためではないかと、私は想っています。

もともと、私たちは「完全」な存在です。
私たちの本質、魂、スピリットと呼ばれる部分は、
「100%完全な存在」なのです。

ですが、「100%完全な存在」であるがゆえに、
唯一、「不完全」を味わうことだけができません。

「不完全」という状態がどういうものだか、わからない・・・・・。
味わってみたいけど、味わうことができない・・・・・・。
たぶん、そんなジレンマを抱えている感じなのだろうと想われます。

それは「100%完全な存在」であるがゆえの、
ある意味、「贅沢な悩み」だといえるかもしれません。

「100%完全な存在」なのに、できないことがあるのは
なんだか不自然ですし、納得がいきません。

そこでもともと、「100%完全な存在」なのですが、
「不完全」な状態を味わうために、「不完全のようなもの」を生み出し、
そこで「不完全さ」を疑似体験しようと、「完全な私」が考えたとしても、
それほど不思議なことではないでしょう。

そうやって生み出されたのが、この三次元という空間であり、
肉体を持った人間という存在ではないか・・・・と、私は想っています。

つまり、私たちはこの三次元という世界に「不完全さ」を
味わうために訪れている旅人(ゲスト)、訪問者(ビジター)のようなもの・・・・・。

ですから、「不完全さ」を味わうこと、それを体験すること自体が、
生きる目的、そのものなのかもしれません。

私たちは例外なく、「不完全」な存在です。

「不完全さ」を味わいに来ているのですから、ある意味当然で、
「不完全」でないと意味がないといえるでしょう。

ですから、人間をやっているかぎり、まちがいなく、みんな「不完全」・・・・・。

どんなに「完全」に見えるような人であっても、五十歩百歩。
たいした違いはありません。

もし、そこに違いがあるとすれば、
自分を「不完全な存在であると」とはっきり認めているかどうか・・・・。

自分が「不完全」な存在であると気づいた上で、
その「不完全さ」と真剣に向き合おうとしているかどうか・・・・。

「不完全さ」を味わうために生まれてきたという目的に気づき、
積極的に「不完全さ」を体験し、キチンと味わおうとしているかどうか・・・・。

 ただ、その違いだけではないかと、私は想っています。

  

   ゆれうごく「不安定」さも、時には、楽しみましょうね。

                   

           最後までお読みくださって ありがとう 

              つながっているすべての人に ありがとう 

                                               

コメント

『いのちは自分のものではない』

2012-04-08 | 生き方

『 いのちは自分のものではない  』

                          高史明の言葉

                                            

    高史明(コサミョン)氏の言葉に耳を傾ける時、きっと いのちの声が聞こえてくることでしょう。親鸞の念仏についてもふれています。親鸞は「供養のための念仏」をとなえたことがないといいます。「念仏」とは何か?続きはどうぞ本書でね。

今回は、サン=テグジュペリのお話から UPします。

 

 

世界中の子どもたちやお母さんに愛されている『星の王子さま』。
作者のサン=テグジュペリはこの物語の終わりに近くなって、満天の星に王子さまの最後の声を聞く飛行士の思いを書きとめていました。

 

 

ぼくは夜になると、空に光っている星たちに、耳をすますのがすきです。
まるで五億の鈴が、鳴りわたっているようです・・・・・・。
                                

                              サン=テグジュペリ 『星の王子さま』

 

 

「星たちに、耳をすます」とサン=テグジュペリは書きます。
「見上げる」というのではない。
人間は通常、夜空の星を見上げるのでした。しかし、星たちに耳をすますこともできるのです。
そのとき人間は、夜空に瞬く満天の星が鈴の音色を響かせていることに気づくのではないでしょうか。
きっとその鈴の音は、とても不思議な響きをしているに違いありません。

サン=テグジュペリの飛行士は、まさに満天の星たちと一体となっているのでした。共に生きているといってもいい。

今日の私たちには、この感性が希薄なのでした。
それどころか、夜空の星を見つめる機会ですら、よほど希薄になっていると思えます。
たとえ恋人と夜の道を歩いているときですら。

 

思えば、サン=テグジュペリには、九死に一生の体験があったのでした。
見渡す限りの砂漠の真ん中に不時着した経験があったのです。

 

サン=テグジュペリは、後日に自動車を使って自分たちが遭難した後を調べていました。
彼らは飲まずに喰わずで、八十キロ近くも砂漠を彷徨っていたのです。

 

人間は水のない砂漠に放り出されたとき、いったい何日生きることができるのでしょう。三日か、五日か、一週間か。
歩けなくなって、陽光に焼かれた砂の上に横たわることになったら、それこそ涙すら蒸発してしまうといいます。
絶望も、また悲しみですら蒸発してしまうのです。
彼はしかし、その最後の瞬間に偶然、近くを通りかかった現地のアラビア人に発見されたのでした。

 

 

これは奇蹟だ・・・・・・・。彼は、砂の上を、僕らの方へ歩いて来る、海の上を歩く、神のように・・・・・・。

 

すでに人種もなければ、言語もなければ、差別もない・・・・・・。あるのはただ、僕らの肩に、天使の手を置いた、この貧しい遊牧者だけだった。

 


ああ、水!
水よ、お前には、味も、色も、風味も無い。お前を定義することはできない、人はただ、お前を知らずに、お前を味わう。
お前は生命に必要なのではない。お前が生命なのだ。


                                     サン=テグジュペリ『人間の土地』

  

 

その瞬間、サン=テグジュペリはまさに、真の「水」と出会ったのでした。私たちは、通常、水というと、人間にとっていのちの「糧」と見ているのです。

しかし、真の意味での水は、まさに「いのち」そのものだったのでした。いや、彼がそのとき学んだのは、真の水だけではありません。
彼は書いていました。「彼(アラビア人)は両手で僕らの肩を押した。僕らは、彼に服従した」と。


その瞬間、近代ヨーロッパ文明が、アラブ世界に圧(お)しつけていた支配と被支配の関係もまた、いっきに崩れていたのです。

 

人間が真実の水と出会えるとは、まさに真の自己自身の実現につながっていたのでした。
真実の生命と無縁に生きていた私は、底のない孤独のただ中を生きていたのです。

 

人間は自らが自然からきたものであるということ、いのちから生み出されたものであること、そのことを忘れてはならないように思うのです。

 

  

   真実の扉は いつでも 開かれていて 僕たちが やって来るのを

     いまか いまかと 待ち望んでいることでしょうね

 

             

          最後までお読みくださって ありがとう 

              つながっているすべての人に ありがとう 

 

 

                                             

コメント