陽 気 村

フィーリングを楽しんじゃおうっと

広告

※このエリアは、60日間投稿が無い場合に表示されます。記事を投稿すると、表示されなくなります。

DVD『わたしに会うまでの1600キロ』

2016-02-18 | 生き方

DVD『わたしに会うまでの1600キロ』

 

 

  

 

   最愛の亡き母が娘に伝えたかったことそれは、

「私が唯一教えられるのは 最高の自分の見つけ方よ」

最高の自分とは? 

 

 

 

悲しみの荒野で自分を見失ったけど

森から出る道を見つけた

 

・・・・・・・・・・・

 

もう素手でつかむ必要がないことだけがわかった

その魚は上から見るだけで 十分だった

 

それがすべてだった

私の命は  他の命と同じように

謎めいて  とりかえしのつかない神聖なもの

ほんのすぐそばにちゃんと存在していて

間違いなく わたしのもの

 

そして とても美しい

そのままで

 

        

       

  最後まで読んでくださって ありがとう 

                              つながっているすべての人に ありがとう 

         

 

 

 

コメント

『 書く力 』

2015-02-06 | 生き方

   『 書く力 』

               武田 双雲 著 

                

   車を運転中ラジオを聞いていたら、茂木健一郎氏と書家の武田双雲さんが対談していました。その時の双雲さんのお話がとても面白かったのでさっそく読んでみました。

 

 僕は頑張らない生き方を選択してきました。「頑張る」とか「努力する」のはどうしても苦手です。

どちらも「ないもの」に目を向けて、それを手に入れるために今を犠牲にする行為。それより僕は、毎日楽しいなぁと思いながら、ただ感謝の気持ちに満たされていたい。そのための努力なら、喜んでします。

自分が恵まれていることに日々感謝していたら、「もっと、もっと」はあり得ない。僕はまったくハングリーではないのです。いつもお腹いっぱいに満たされていると堂々と言えます。もちろん若い頃は思い悩んだこともありましたが、だんだん、今の武田双雲スタイルに近づいてきました。

ないものねだりで生きている人には、僕のような生き方は刺激がないというか、退屈で、つまらないように見えるかもしれません。でも、僕は瞬間瞬間が幸せです。確かに刺激はないけれど、心はいつも満たされている。それこそ、道を歩いているだけでありがたいのです。

「あのガードレールが、何人もの人の命を守ってきたんだなあ」時に歩いているだけで涙が出ることがあります。何を見ても、何か恩返しがしたくなります。

また「欲望がない」というと「貧しさ」につながるイメージが日本人にはあるのかもしれません。

貧しさは怖い、だから仕事も休めず残業続き。「ないものねだり」で戦っている人は、そうやって頑張り続けて消耗しています。せっかく休日なのにグッタリなんてことはありませんか。

僕はというと、頑張らない、ポジティブな風に吹かれて雲のように流れているだけ。だからいつでも元気いっぱいです。仕事に向かうモチベーションも高く安定している。そこに嫌なことはないですから。

ひたすら努力、競争、成長、未来志向で社会的に大成功を収めている人を見ても、うらやましいとも何とも思いません。嫉妬や焦りも感じません。確かに頑張っている人は格好いい。頑張って結果を出している人は社会を豊かにしてくれます。本心からそう思います。尊敬する友だちもくさんいます。

でも、僕はその道を選ばない。

僕が言いたいのは、みんながみんな、そんな一流アスリートみたいな生き方を選ぶ必要はない、ということです。

 

---------------------------------------------------------------------------------------

 

僕らの苦しさは受験生の苦しさです。大人になっても受験が続いている。

目標を達成できればそれもいい、とは僕は思いません。 なぜなら、目標を達成しても心が満たされることはないからです「達成感」の後には必ず虚しさがやってくる。達成した時点が感情のピークとなり、「それ以外」がガクンと落ちてしまう。達成感のなかだけに幸せを追い求めるのは、すごく危険な思想です。僕は満たされた毎日のほうを、大事にしたい。

                

      さらに双雲さんはこんなことも言っています。

「~してくれない」は、感謝する習慣をどこかに置き忘れた人の言葉。「ないものねだり」ばかりしている人の言葉だと。

なんだか、ズシンと響きますね。 

ラジオ放送で双雲さんがお話した内容をユ-チュ-ブでUPされていましたので興味ある方はどうぞ聞いてくださいな。

 

 

      

 

 

 

         最後まで読んでくださって ありがとう 

                              つながっているすべての人に ありがとう 

 

 

コメント

『跳びはねる思考』

2014-10-30 | 生き方

 『 跳びはねる思考 』

              東田 直樹

                                            

    自閉症である東田直樹さんが考えていることが書かれています。合間に編集部さんとのインタビューもあります。自閉症の人はなぜ出会った人にうまく挨拶ができないのかという問いに彼は、こう説明しています。

「僕には、人が見えていないのです。人も風景の一部となって、僕の目に飛び込もんでくるからです。山も木も建物も鳥も、全てのものが一斉に、僕に話しかけてくる感じなのです。それら全てを相手にすることは、もちろんできませんから、その時、一番関心のあるものに心を動かされます。引き寄せられるように、僕とそのものとの対話が始まるのです。それは、言葉による会話ではありませんが、存在同士が重なり合うような融合する快感です。」

今回は 彼の 「 目 」という作品からUPしますね。

 

  目

夜になって眠る直前、僕は天井をじっと見つめることがあります。すると、天井との距離が縮まって、自分と天井が一体化したような感覚に陥るのです。

 花などを見た時には、花びらの一枚一枚やおしべ、めしべなど、花全体というよりも部分が目についてしまいます。この世界にどっぷりとひたり、身動きできなくなってしまうのです。

僕にとって、このふたつは、似ているようで少し違います。天井は、向こうから迫ってくる感じですが、花は、自分から飛び込む感じだからです。

目で見るということは、脳が物体を認識することです。それなのに、自分の体ごとその世界に入り込んでしまうこのような錯覚は、とてもおもしろいものだと思います。

 

何を、どのくらいの時間見るかを、僕ではなく目が決めている瞬間があるような気がします。

 僕は、池に小石を投げた時にできる波紋にうっとりしたり、時間も忘れ、走っている自動車のタイヤの回転に注目したりしますが、なぜ目が向くのか、自分でもわかりません。しかし、これらは目が脳に見せたい映像に違いないと思います。

 脳と目が独自の働きを持ちながら、共存しようとしているのかもしれません。目が見せてくれる世界を、脳は楽しんでいますが、それは僕の幸せでもあります。

「助け合い」は、人と人とのあいだだけではなく、ひとりの人間の肉体の中でも、お互いを尊重し、譲り合うという行為が行われているのではないでしょうか。

 

目を閉じても脳は、働き続けています。

好奇心いっぱいの僕の目は、明日何を見せてくれるのでしょうか。

そんな期待を抱きながら布団にもぐり込みます。

暗闇の中で、僕の脳裏をかすめるのは、いつかどこかで見た景色です。

その場所を思い出せた瞬間、僕の脳も眠りにつくのでしょう。

  

    昔々に忘れ去られた感覚を 呼び覚ましてくれるような感じがします。

     なんとも不思議です。

 

      東田直樹オフィシャルブログ⇒  http://higashida999.blog77.fc2.com/

 

  

       

          最後までお読みくださって ありがとう 

              つながっているすべての人に ありがとう 

 

 

                                             

コメント

『いのちは自分のものではない』

2012-04-08 | 生き方

『 いのちは自分のものではない  』

                          高史明の言葉

                                            

    高史明(コサミョン)氏の言葉に耳を傾ける時、きっと いのちの声が聞こえてくることでしょう。親鸞の念仏についてもふれています。親鸞は「供養のための念仏」をとなえたことがないといいます。「念仏」とは何か?続きはどうぞ本書でね。

今回は、サン=テグジュペリのお話から UPします。

 

 

世界中の子どもたちやお母さんに愛されている『星の王子さま』。
作者のサン=テグジュペリはこの物語の終わりに近くなって、満天の星に王子さまの最後の声を聞く飛行士の思いを書きとめていました。

 

 

ぼくは夜になると、空に光っている星たちに、耳をすますのがすきです。
まるで五億の鈴が、鳴りわたっているようです・・・・・・。
                                

                              サン=テグジュペリ 『星の王子さま』

 

 

「星たちに、耳をすます」とサン=テグジュペリは書きます。
「見上げる」というのではない。
人間は通常、夜空の星を見上げるのでした。しかし、星たちに耳をすますこともできるのです。
そのとき人間は、夜空に瞬く満天の星が鈴の音色を響かせていることに気づくのではないでしょうか。
きっとその鈴の音は、とても不思議な響きをしているに違いありません。

サン=テグジュペリの飛行士は、まさに満天の星たちと一体となっているのでした。共に生きているといってもいい。

今日の私たちには、この感性が希薄なのでした。
それどころか、夜空の星を見つめる機会ですら、よほど希薄になっていると思えます。
たとえ恋人と夜の道を歩いているときですら。

 

思えば、サン=テグジュペリには、九死に一生の体験があったのでした。
見渡す限りの砂漠の真ん中に不時着した経験があったのです。

 

サン=テグジュペリは、後日に自動車を使って自分たちが遭難した後を調べていました。
彼らは飲まずに喰わずで、八十キロ近くも砂漠を彷徨っていたのです。

 

人間は水のない砂漠に放り出されたとき、いったい何日生きることができるのでしょう。三日か、五日か、一週間か。
歩けなくなって、陽光に焼かれた砂の上に横たわることになったら、それこそ涙すら蒸発してしまうといいます。
絶望も、また悲しみですら蒸発してしまうのです。
彼はしかし、その最後の瞬間に偶然、近くを通りかかった現地のアラビア人に発見されたのでした。

 

 

これは奇蹟だ・・・・・・・。彼は、砂の上を、僕らの方へ歩いて来る、海の上を歩く、神のように・・・・・・。

 

すでに人種もなければ、言語もなければ、差別もない・・・・・・。あるのはただ、僕らの肩に、天使の手を置いた、この貧しい遊牧者だけだった。

 


ああ、水!
水よ、お前には、味も、色も、風味も無い。お前を定義することはできない、人はただ、お前を知らずに、お前を味わう。
お前は生命に必要なのではない。お前が生命なのだ。


                                     サン=テグジュペリ『人間の土地』

  

 

その瞬間、サン=テグジュペリはまさに、真の「水」と出会ったのでした。私たちは、通常、水というと、人間にとっていのちの「糧」と見ているのです。

しかし、真の意味での水は、まさに「いのち」そのものだったのでした。いや、彼がそのとき学んだのは、真の水だけではありません。
彼は書いていました。「彼(アラビア人)は両手で僕らの肩を押した。僕らは、彼に服従した」と。


その瞬間、近代ヨーロッパ文明が、アラブ世界に圧(お)しつけていた支配と被支配の関係もまた、いっきに崩れていたのです。

 

人間が真実の水と出会えるとは、まさに真の自己自身の実現につながっていたのでした。
真実の生命と無縁に生きていた私は、底のない孤独のただ中を生きていたのです。

 

人間は自らが自然からきたものであるということ、いのちから生み出されたものであること、そのことを忘れてはならないように思うのです。

 

  

   真実の扉は いつでも 開かれていて 僕たちが やって来るのを

     いまか いまかと 待ち望んでいることでしょうね

 

             

          最後までお読みくださって ありがとう 

              つながっているすべての人に ありがとう 

 

 

                                             

コメント

『 淡々と生きる 』

2012-02-11 | 生き方

『  淡々と生きる   

                    小林 正観 著

                                            

 

   風雲舎さんから出た新刊です。カルが大好きなタイトルです。

じっくり読ませていただきました。

『淡々と生きる』という本のタイトル通り テーマからぶれていないです。

全編をとおして 正観さんの心境が 伝わってきます。

今回は 「千利休」からUPしますね。 

 

新しい茶葉に六十度のお湯を注ぎ、一杯目のお茶を出します。このお茶は甘い。ぬるいお湯で入れたお茶は甘い。同じ茶葉で、甘いお茶が出たあとの二杯目を、十度高い七十度ぐらいのお湯を注ぐと今度は渋みが出ます。甘さよりも渋みが出る。お饅頭などを食べたあとは、この渋みのところが好きだという人もいます。そしてさらに十度高い八十度ぐらいのお湯で三杯目を出すと、今度はお茶の苦い部分が出てくる。苦みです。さらに、九十度以上の熱いお湯で四杯目を出すと、もう甘みもなく、渋みもなく、苦みもない、色だけのお茶が出ます。これが出がらしです。

四杯目のお茶以降はもう出がらしで、かすかに色が付いているだけ、千利休は、この四杯目以降のお茶、甘みもなく、渋みもなく、苦みもない、かすかに色がついているだけの茶の味を、「淡味(たんみ)」と呼びました「淡々と」の「淡」です。淡々とは、〝水が静かに揺れ動く〟という意味で、静かに安定している状態です。この淡味は、甘さも、渋さも、苦みもなくなって、ただのお湯、白湯(さゆ)に近い状態です。

利休は、「この淡味のよさがわからない限り、お茶は永久に理解ができない」と言っています。
利休は、出がらしのお茶のおいしさがわかるようになれと言った。じつはこの出がらしのお茶のおいしさとは「感謝」です。茶道は、お茶をいかにおいしく淹れるか、いかにおいしく味わうかの道ですが、それを
甘い、渋いと言っている間は、まだ本質がわからない。四杯目以降の出がらしで、淡味のお茶をいかに味わえるか、それをどう喜びとすることができるか、つまり感謝することができるか。そこで、本当のおもしろさがわかる。

~省略~

お茶をたしなむ上で、器が良いとか、作法がどうとか、茶葉がどうとか、おいしいとかまずいなどと言っているうちは、まだまだなのだと利休は言いたかった。お茶の道を求めていくと、その究極は、出がらしです。出がらしがわかるようになったら、べつに茶道をやらなくてもいい。

これを人生に置きかえていえば、朝起きて、仕事をして、帰ってきて、夕食を食べて、テレビを見て、寝て、また翌朝が来て、また仕事をして、また夕食を食べて・・・・とそういう日々が繰り返されるなかに、人生のおもしろさや、幸せや、贅沢感というのがある。淡々と生きていくなかにこそある。人生を、やれ楽しいの愉快のとはしゃいで、「どこそこに行ったからおもしろかった」「あそこに行ったらステキだった」などと言っている限り、本当の人生はわからない。淡味がわからない限り、人生は永久にわからない、ということです。

「人生の本質は、淡味にあり」です。

「淡々と生きる」ことです。

 

 

    「淡々と生きる」中での 今この時の気づき 大事にしたいですね

                

            

          最後までお読みくださって ありがとう 

              つながっているすべての人に ありがとう 

 

 

                                             

 

 

 

 

 

 

コメント