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『 しない生活 』

2014-09-14 | 仏教

  『  しない生活 ~ 煩悩を静める108のお稽古  

                    小池 龍之介 著

                                            

    静かに内面を見ることの大切さが伝わってきます。小池氏の気づきには、繊細で鋭さがあります。自分では気がつかない奥深くにある思いに光をあててきますよ。今回は「 心のこまやかな変化を見つめればイライラから抜け出せる」からUPしますね。

 

本項を記す、前夜、筆者にはしばらくぶりに腹立たしい出来事があり、うっかりイライラを反復していますと寝つけなくなり(いやはや)、それからようやくわが怒りを見つめ、受け止めようとし始めたのでした。

 

それまでは切れ間なく怒りが自分を支配していたように見えます。ですが、面白いことに、自分の怒りを観察し始めますと、それ以外の感情が多数混ざっているのが見えてくるものです。たとえば「一時間くらいは怒っていたなぁ」と悔やむ思いや、「明日起きたら仕事しなきゃなあ」と未来へ走る思念、などなど。

 

それらを経てから、再びとらわれの強い感情(この場合は立腹)が現れる。ただし、心は「怒っている自分」という自我イメージを固定したがり、強い感情のみを記憶して弱い感情を無視して忘れるため、同じ感情が持続していると錯覚します。

 

つまり、実際の心は一瞬一瞬、変動する(無常である)のに、自我はそのうちの目立つもののみに気を取られ、いわば変化がなかったことにして、一色に塗りつぶしてしまうのです。

 

裏返しますと、強く反復する怒りの合間に、別の弱い感情が入ってくることを見つめると、怒りが永続していないことに気づく。すると「怒っている自分」という確固たる自我イメージは崩れ、楽になる。悲しみが続くときも、その合間に「あ、天気が良いな」といった別のことを思う自分に気づくと、抜け出せます。

 

この脳には、ものごとを雑に見て情報を一色に塗りつぶす癖があります。それに抗して、こまやかな変化、心が無常であることに気づくよう、意識の解像度を上げるお稽古をすることです。「無常の智慧によって体感すると、苦しみから離れ心が清まる」 

(『法句経』二七七偈)と。

 

 

    心模様 の こまやかな変化に 気づいていたいですね!

                    

            

          最後までお読みくださって ありがとう 

              つながっているすべての人に ありがとう 

 

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『生きててもいいかしら』

2014-08-24 | 仏教

 『 生きててもいいかしら 』

               田口 ランディ ・ 板橋 興宗

                

   「いまのひと息、ひと息以外に、地獄も極楽もない。・・・・いま生きていること以外に<いのち>はありません。理想の世界=極楽を頭に描くことは妄想です。いま生きている以外に現実の<いのち>はないのです。いまの<いのち>を留守にして何かを求める、これが迷いの根源です。」という板橋和尚。このお2人の興味深い対話から、「幸せの原点」についてUPしますね。

 

田口:足るを知る。

板橋:でもそれは、「これでもういいんだ」というのではないのです。「もうものがなくてもいいや」と自分に言い聞かせる、というのではだめ。それは自己満足ですね。そういうんじゃないです。足らないは足らないままで。いま息をしていることに問題がないことです。そういうところに、人間の幸せの原点がある。

田口:幸せの原点。

板橋:うん。

田口:幸せの原点には、幸せも不幸もないんですね。

板橋:そうですね。

田口:これが難しい。「幸せの原点」というと、幸せを求めちゃう。

板橋:幸せを求めるなら、幸せも不幸せも求めないというところにいかないと。

田口:だから、すごくたくさんの人がそれについて誤解しちゃうんですよ。幸せの原点は「足るを知る」にあるという時に、「幸せ」っていうある種幸せも不幸もなくなった状態であるというところは理解できないんです。

どーしても人はそこにひっかかっちゃうんです。百人いたら八十人から九十人の人がここでひっかかっちゃうと思います。

板橋:ハッピーになろうとがんばって失敗して失敗して、そのあげくに、「あー」とそこに気づく。解脱のことです。幸せとは、求めることがないことです。

田口:板橋さん自身は、もう幸せを求めることはない?

板橋:本堂を建てたい。百万円を寄付してくれたら「ほおーっ」と喜ぶ。がんの検査のマーカー値が。下がってくると嬉しい。それは当然のことです。

田口:んん・・・・・若い時は幸せを求めませんでしたか?

板橋:求めたから坊さんになったんでしょう。ほんとの幸せがきっとどこかにあると思って。

田口:ほんとの幸せはありましたか?

板橋:いまがそうです。

 

    (この続きは書籍でね)

                 

      最近スロジョグしてます。身体が喜んでいるのがわかります。

 やはり運動不足だったんですね。  

      

         最後まで読んでくださって ありがとう 

                              つながっているすべての人に ありがとう 

 

 

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『禅とハードル』

2013-07-01 | 仏教

『 禅とハードル 』

               南 直哉 ・ 為末 大

                

   信じることについてちょっとだけ触れてみましょう。カルも普段あまり意識はしていなかったですね。まだまだ良い結果を期待して信じることのほうが多いですから。ここでは、「信じること」について深く語ってくださっています。この2人だからこんな対話ができるのかもしれませんね。

 

  :信じていないけれど、「信じようとする自分」でしかありようがない。「信じようとする意志」だけが自分を支えていて、
その上で「信じる」というところに向っていかなければならないと思うんですよ。「善人なおもて往生す、いわんや悪人をや」という、親鸞の「悪人正機説」ってあるでしょ。
あれもそうですね。例えば神を信じると言ったときにですね、ものすごく真面目に考える人は、「神を信じる」ということをどう考えるか、
どういう状態で信じているのかってことを考えると思うんです。例えば、もし一生懸命お祈りしていれば神様は聞いてくれるっていうのが「信じる」ということだとしたら、
これは基本的には取引なんです。そうでしょう?つまり自分の力で神様を動かそうってわけですから。「これだけやったんだから、お願いしますね神様」っていうのは取引じゃないですか。
取引だからそれは信じるということとは違う。
信じるというのは、何が起こるかわからない、どんなものだかわからない相手をそれでも「信じる」ということです。

自分にはまったくわからない神のような絶対者、もしくは「死」のようなものかもしれない。とにかく、わけがわからない予測のつかないものを信じるということです。
そんな、わけのわからないものを信じるというのは普通は難しいことです。しかしわけのわかるものを信じるというのは取引にすぎない。そうすると「わけのわからないものを信じる」
ってことを実行しない限りはそもそも「信じる」ことにならないわけですよ。わけのわかるものだったら信じなくてもわかればいいんですから。

信じることを発動させるためには、わけのわからないものに対して身を投げなきゃいけないんです。信じる相手はわからない存在だから、
相手に向かって何かを問うわけにもいかないわけだし、そうするとできることは、自分がどういう状態であることを「信じている」状態であると定義するか、それを考えるしかないんです。


私はね、取引以外のものを信じるとしたならば、ある意味「自虐」以外にはないと思うんです。つまり自分がいかにダメな存在で、罪深い存在でってことを徹底的に自覚することで
絶対者が絶対的である意味を確保するしかないんです。しかし「罪深い自分だけれども、それでも救われるだろう」と思ってはダメなんです。「救われるだろう」と思ったら取引に応じる
ことになりますからね。

為末: 救われないという絶望からしか「信じている」状態は生まれない・・・・・・?

    (この続きは書籍でね)

                 

      ひとつの捉え方ですが、取引以外のものを受け入れるというところに、「生きる」ことにつながるような気がしますね。

         

        

         最後まで読んでくださって ありがとう 

                              つながっているすべての人に ありがとう 

 

 

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『 エブリディ禅 』

2012-07-28 | 仏教

  『 エブリデイ禅 』

                 シャーロット・浄光・ベック 著 

                 田中淳一 訳  

       

      過去はつかむことができない
      現在はつかむことができない
      未来はつかむことができない

そうであるならば、ここにいる私たちはみな、どこにいるのでしょうか?
言えるのは「今のこの瞬間にいる」ということだけです。頭の中の思考が生み出す幻想の世界から 「いまここ」に存在できる ぎりぎり一杯のところに気づかせてくれますよ。今回は、「本当の苦しみとにせの苦しみ」からUPします。

昔あるとき、一人の若者がいました。彼の父親はその時代の卓越した師であり、周りのみんなから尊敬されていました。若者は、父親が話す多くの智慧の言葉を聞いて育ったので、知らなければならないことすべてを知っていると思っていました。

しかし父親は、「お前が知らなければならないことを、私は教えることができない。読み書きができないただの農夫、百姓の師のところへお前を行かせよう!」と言いました。

この若者はこの話を聞いて、とにかく出発しました。あまり気乗りがせず旅立ちましたが、やっとこの農夫が住む村へやってきました。このとき、その農夫は偶然にも、馬に乗って自分の農場から他の農場へ行く途中でした。農夫は、若者が自分の方に近づいてくるのを見ました。その若者は近づいていき、農夫の目の前でお辞儀をしました。農夫は見下ろして言いました。

「いや、十分ではない」
そのすぐあとに、若者は自分の膝まで頭を下げました。農夫はまた言いました。

「いや、まだだ」。

すると若者は馬の膝まで頭を下げました。

「まだ十分ではない!」

と言われて、今度は馬のひづめに触れるぐらいの足のところまで、頭を下げました。そのとき、農夫は彼に言いました。

「よし、戻っていい。お前の教育は終わった!」これで終わりです。

 このように、人は深々と頭を下げ、苦しみに耐え、苦しみを受け入れ、苦しみとひとつになることによって、人生を知ることができるのです。

これはけっして消極的になって何もしないことではなく、完全なる受容から生まれる行為を意味しているのです。

完全に心を開いて、完全に無防備になって人生を歩むことは、日々の暮らしにおいて唯一、満足する方法なのです。

 

   今 目の前で起きていること って どんな展開になろうとも 

      とても大事な瞬間  なんですね 

 

                 

           最後までお読みくださって ありがとう 

              つながっているすべての人に ありがとう 

                                               

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『 死もなく、怖れもなく 』

2012-01-06 | 仏教

『 死もなく、怖れもなく 』

                     ティク・ナット・ハン/著 池田久代/訳           

 

   とても読みやすくなっています。難しい言葉では書かれていませんよ。著者の詩も響いてきます。

 今回はその中から、『心と光を与えて』からupします。

     

  ロウソクの炎があらゆる方向に光と熱を発散するとき、その光と熱はロウソクの継続だ。光と熱は水平方向に発散されるが、光と熱を水平面に送るためには垂直方向にも燃えていなければならない。水平次元がなければ垂直次元は存在せず、また、垂直次元がなければ水平次元は存在できない。

自分自身にも問うてみよう。「現在の生が終わったのち、私はどこに行くのだろうか」この瞬間、瞬間に創られる行動や言葉は一本の線上を進むだけではなく、横方向にもひろがっていく。まわりの世界に流れこんで影響を与え、世界をもっと美しく輝かせることができる。その美しさと輝きは未来にも流れこむ。本当の自分を捜すためには、たった一本の垂直線上を見るだけでは不十分だ。

ウーロン茶を入れるときには、まず茶葉をポットに入れてから熱湯をそそぐ。五分ほどたったらお茶ができあがる。このお茶を飲むとウーロン茶は私のなかに流れこむ。熱湯を足して二杯目のお茶を入れれば、ひきつづきその茶葉から抽出された茶が私のなかに流れこむ。茶をすべてそそぎ終わると、ポットのなかに残るものは出がらしだけとなる。私のなかに入った茶が茶の大部分で、それが茶の一番芳醇な部分、エッセンスなのだ。

私たちもこれと同じで、私たちのエッセンスは子どもや友人、全宇宙に流れこんでいる。自分を探すときも、ポットに残った出がらしのなかにではなく、こちらの方向に目を向けなければならない。あなたの外で生まれ変わった自分自身を見つけてみよう。自分の身体ではないところに、自分の身体を探す----それが対外にあるあなたの身体だ。

 


この身体は私ではありません ----- 私はこの身体にとらわれない。

私は限りないいのちです。

生まれたことも、死んだこともありません。

彼方の広い海と銀河へとつづく空、

すべては意識の底から顕れます。

はじまりのない永遠のときより、私はいつも解き放たれていた。

生と死は、出たり入ったりする扉のよう。

生と死は、かくれんぼうのゲームのよう。

さあ、微笑んで私の手を握り、さよならの手を振りましょう。

明日、また会うのです。そしてその前にも、

真実の源で、いつでも、何度でも会いましょう。

いつも、いつでも会いましょう。 無数のいのちの道の上で。

 

 

   もともと僕らは内も外も広い空間の中で生きているんですね

    今年もよろしくね!!

                           

         最後まで読んでくださって ありがとう 

                               つながっているすべての人に ありがとう 

 

 

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