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『ハワイアン・マナ 71の教え』

2009-09-24 | スピリチュアル
『 ハワイアン・マナ 71の教え 

                  朱実カウラオヒ 著 

 

 ワイキキの人気ヒーリングサロン『朱いハイビスカス』主宰の朱実カウラオヒさん。
  71の教えは、日本的でもあります。
  もともと日本は、ハワイ同様「万物に神が宿る」と考える霊性の高い国だからでしょうか

  

    心配事に意識を向けるのを「キャンセル、キャンセル」

 

やりたいと思ったことに向けるエネルギーは、すごいものだという『マキア』の教え。
これは逆の場合にもいえることです。
何かに対して心配だ、心配だと思っていると、そこにばかりエネルギーがいってしまい、まずい方向に向かってしまうことになりかねません。
そんなときは、自分が一番わくわくすることを一生懸命思い出しましょう。そして心配事に対しては、

「キャンセル、キャンセル」

と、そこに向かいがちな意識の方向を変える練習をしましょう。


同じことがあっても、ポジティブに考えられる人と、ついネガティブに考えてしまう人がいます。たとえば、友人が急に約束をキャンセルしてきたとき、ポジティブな人は、
「何か急に用事ができたんだな。また誘おう!」
と思うだけなのに、ネガティブな人は、
「嫌われたのかな?だから私と遊びたくないのかな?」
と悪いほう、悪いほうへと考えてしまいます。そんなふうに考えても何の解決にもならないのに、堂々めぐりするだけなのに、そういう考え方をしてしまうのは悪いクセ。悪いクセは直す努力をしなければ、なかなか直りません。

「嫌われたかな?・・・・・・あっ、またそんなふうに考えちゃった。キャンセル、キャンセル。私のほうからまた誘ってみよう!」

というように、考え方の回路を作り直していきます。

ネガティブ思考の人が、急にポジティブ思考になろうとしても、なかなか難しいものですが、まずは、ネガティブな考え方に固執しないことからはじめましょう。3カ月後、半年後には、考え方の悪いクセが驚くほど改善されますよ。

 

   ちょっとずつ、自分の意識が向く方向を変えていく

 

 

 「ザッツ・オッケー」は人を安心させる言葉

 

 

日本で歯医者に通っていたとき、子どもがまだ小さかったため、突然の発熱などで、急に予約をキャンセルしたことが何度かあります。きっと、人気の歯医者さんだったんでしょうね。私がキャンセルの旨を伝えると、
「困りますね~、本当に来られないんですか?うち、結構いっぱいなので次にいつ予約が入れられるかわかりませんよ」
と、ちょっと不機嫌そうに言われて、私は恐縮しきり。そのお医者さんの顔や歯科衛生士さんの顔はもうおぼろげですが、あのときの電話の声は、今も耳に残っています。

一方、ハワイ。私が今、月に1回程度メンテナンスに通っているクリニックに、予約のキャンセルの電話をすると、とっても朗らかな声で、まず、

「ザッツ・オッケー」

という返事が返ってきます。ザッツ・オッケー、つまり「大丈夫よ」と向こうがすぐに言ってくれるので、私は安心して次の予約日の相談をすることができます。
ハワイに来ていいなと思うことのひとつが、この言葉のお返しがとても多いことです。


「ザッツ・オッケー、ノー・プロブレム」と、事あるごとに言ってくれます。
私も含めて、日本人は自己主張がちょっと苦手、という印象があります。でも、ハワイに来てから、私は言わなければならないことを、少しははっきり言えるようになった気がします。それはきっと、私が「ノー」と言ったときに、ハワイアンが、「ザッツ・オッケー、ノー・プロブレム!」
と答えてくれるからではないでしょうか。何の問題もないよ!」
という感じでしょうか。ザッツ・オッケー、ノー・プロブレムは、本当に安心感を与えてくれる言葉だなぁと思うのです。さっそく今日からまねしてみましょう!

 

  他人を許す、おおらかな気持ちを持つ

 

 

     「ザッツ・オッケー ノープレブレム」ですね  

   

       朱いハイビスカス公式サイトhttp://akaihibiscus.com/

                    

 

           最後までお読みくださって ありがとう 

 

  

           つながっているすべての人に ありがとう 

 

 

                                            

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『心が○くなる50のメッセージ』

2009-09-19 | 心理
『 心が○ま~る くなる50のメッセージ 』

                 菅野泰蔵 著  

 

    臨床心理士 菅野さんのメッセージ集です。

ホッ としますよ  

 

自分には何もない


特技がない


才能がない


将来性がない


目的がない


やることがない


人間としての魅力がない


信頼できる友人がない


愛してくれる人がない


生きている価値がない

総じて、自信がない

と人はいう。

 

ちょっと待って。


そこまで何もないといい切れる


その確信はどこから来るの?


それに、そもそも


それがなくては生きていけない


と思うのはなぜ?

 

折にふれて人は


自分の価値を確かめようとする。


そして、ときに


自分は価値のない人間であると思う。


でも、そのとき


自分自身を見ようとしていたのは


価値を確かめようとしていたのは


あらかじめもっている価値観。


その価値観はどこから来たの?

 

自分で自分を見つめすぎると


あまり自分自身にこだわってしまうと


自分がどんどん小さくなっていく。


それは心の仕組み。心の罠。

 

ときに、他の人の眼を借りてみよう。


その眼はきっとこう語る。


あなたが、そこにいるだけで


生きているだけで


それだけで価値がある。

 

 

   ついさっきまで喜んでいたことが、いつの間にか喜べなくなってしまったり・・・

       それはささいなことの中にもありませんか?

      その思いは、いったいどこからきているんでしょうね。

      そしてそれはどんな性質を持っているのか気づいていたいんだなぁ~

 

      

           今日も最後まで読んでくださって ありがとう 

 

                       つながっているすべての人に ありがとう    

 

 

 

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『ダンシング・イン・ザ・ライト』

2009-09-16 | スピリチュアル
  『 ダンシング・イン・ザ・ライト 

                  シャーリー・マクレーン 著

                  山川紘矢・亜希子 訳

                

   『アウト・オン・ア・リム』続篇。シャーリー・マクレーンとロシア人の男性に起こる出会いと別れ。二人の間には、考え方の違い?から度々激しいけんかをくりかえす。なぜこれほど激しいけんかをくりかえすんだろう・・・思って読んでいくと最後にわかりますよ。

       

  ダンサー達は互いに自分たちのことをジプシーと呼び合うことが多いが、才能を競い合う兵士でもあった。自由を奪われた存在であり、四六時中、痛みに苦しめられている生身の体の代表だった。


ダンスの持つ内在的な矛盾は、それを経験した人でないと、おそらく理解できないのではないかと思う。ダンスはたましいに刻み込まれている芸術である。常に私達と共にあり、たとえもう踊れなくなってもまだ体内に存在する。しかも昼夜の区別なく共にある。


歩く、食べる、愛する、たとえ何もしないでいる時でさえ、そんな行動のすべての中に表現されている芸術なのだ。ダンスは体の芸術であり、ダンサーとは体を持っている限り、常にダンサーとしての体の表現を要求されている人達のことである。ダンサーは常に自分の体がどのように見えるかに気を使っている。それがダンサーのゲームなのだ。ダンサーとしての私はいつもビクビクして歩いているのかもしれない。

ただし私はその自分に常に気がついている。リラックスしているふりをしても、私の体は違うよとちゃんと私に言ってくれる。それに私は、どうすれば自分が美しく見えるかも知っている。上手に、一番きれいに見える足の組み方、自信ありげに見える姿勢、威厳を持って人から尊敬されるような頭のあげ方など、すべて心得ている。


逆に憂うつになった時に、どうなるかもよく知っている。体が前かがみになって、動きがだらしなくなり、鏡を見る気にどうしてもなれない。


ダンサーであるからには、すべるように優雅に歩いてタクシーをつかまえたいところだが、怪我をしたくないので、本能的に歩道の割れ目の一つひとつに気を使ってしまう。とても気に入ったドレスがあっても、もしその服が体のラインを美しく描き出さないのなら、買うのはやめてしまう。私がドレスを選ぶ時に大切にしているのは、流行でもスタイルでも色でもなく、ラインである。ダンサーの強迫観念に他ならない。


何年間もバレエ教室の鏡の前で自分の体の成長と変化を見続けていると、ついには一センチどこか伸びても縮んでも見分けられるようになってしまう。一生懸命練習していると、髪の毛の先からしたたり落ちる汗のしずくが、どういう曲線を描いて体を伝わり落ちてゆくかさえわかるようになってくる。


私はダンサーを五十年近くもやってきたのだ。だいたい、どうしてこんなに踊りが好きなのだろうか。自分でもわからない。きっと前生でいつか踊っていたことがあったのかもしれない。踊りはごく自然に、私の生きる術となっているからだ。特に汗を流して、努力に努力を重ねた後に得られる優雅で高揚したロマンティックな報酬が何ともいえず好きだ。


ダンスにつきものだからとあきらめて、みんなが容認している肉体的な痛み、苦しみが私達ジプシーを結びつけているのかもしれない。もっともオリンピックの選手などに会うと、彼らも私達と同じ悩みがあるのがわかる。

 

たぶん、ダンスや運動競技の奥底に潜む秘密は、人間の肉体が私達のたましいの住む神殿、すなわち私自身の住む家であり、たましいの表現の道具であることを誰もが知っているということだろう。そして、自分が神の一部だと思っている人も、思っていない人も同じように、この奥底の真理は知っているだろう。

 

 

   何度も繰り返すことで感じとる世界があるような・・・・

                      

          

          最後までお読みくださって ありがとう 

 

           つながっているすべての人に ありがとう 

                                           

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『老いは楽し』

2009-09-13 | 仏教
『 老いは楽し 』

                   A・スマナサーラ 著 

                 

 

    こんにちは、

    今回は『老いは楽し』からです。


 

『 「私」という錯覚 』

  

説法が始まった時と今とでは、まるっきり別人なのです。私も同じです。共に変化していますから、おたがい知っているフリをしています。私が三十分以内でも変化しなかったなら、みなささまのことがわからなくなってしまうのです。もし私が変化して、みなさまがたが変化しなかったならば、「あいつ、こいつは何者か」とみなさまがたは驚くのです。


でも、おもしろいことに、共にいっしょに変化していますから、「ああ、まあ、知っている」という感じになるのです。でも、そう思っているだけ。それは錯覚ですよ。


たとえば、同じ方向に電車が二本走ると、いくらスピードが出ていても、電車が止まっているように見えますね。あんな感じです。高速道路ででも、隣の車と並んで同じスピードで行くと、隣の車の人と窓を開けてしゃべることもできます。ほんとは時速八〇キロで走っているにもかかわらず、


「ああ、どうも、こんにちは。あの、どこからどこへいらっしゃるんでしょうか?」


なんてしゃべることもできます。そうやって、ちょっとの時間でもおたがいにしゃべっていると、錯覚が起きるのです。お互いに同じ場所に止まっているのだと。まあ、実際にそんなことをやったら、事故ってしまって、お寺さんのお世話になる可能性もありますから、試してみたりしないでください。


私たちも、そんな感じで「止まっている」と錯覚を起こしているのです。私は田中だ、私は佐藤だ、私は何者だとか言って、止まっていると錯覚を起こしています。

この錯覚のせいで、事故ってしまっていますよ。

老いることは、なんの不思議もなく、たんなる自然現象なのに、それが大きな問題だと思って悩むことは、正真正銘の「事故」なのです。


お釈迦さまは、
「止まっているという錯覚を起こすのはやめてください。事故になりますから」
とおっしゃっているのです。だって、人生にはあらゆる事故が起こるでしょう。けんかをすることも事故なのです。「止まっている」と思っているだれかが、けんかを起こすのです。


相手がなにか言ったら、「もう、あの人は性格が悪い」「なんであなたは、そんなに性格が悪いのか」とか言ってけんかする。
性格が悪くたって、性格なんかすぐ変わってしまうのですよ。すぐ変わることを忘れてしまって、それでわれわれは、おたがいにけんかする。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


でも、われわれは、世界が「止まっている」、私が「止まっている」と思って、けんかをするのです。
けんかする、嫉妬する、怒る、憎む、恨む、落ち込む、人を差別する、もうイヤなことばかりですよ、この世の中は。人と仲良くすることはできないのです。そういうすべての問題が起きるのは、「止まっている」という錯覚のせいなのです。


お釈迦さまがおっしゃるのは、


「全宇宙を見渡しても、ひとかけらも、この塵ひとつさえ、微妙にでも止まっているものはない。すべて変わっているのだ」


ということ。だから、変化するという立場から見れば、私もいない、あなたもいない。日本も、地球も、あるわけではないのです。ただ一時的に回転していて、壊れてこなごなになってしまうものです。


はっきり言えば、花火のようなものです。花火だったらきれいだからありがたいですけど、私たちは花火のように美しく輝いているわけではない。たとえとして、花火のようなものだと理解してください。花火はきれいだけど、瞬間のものでしょう。一瞬で消えてしまう。いったん花火が終わったら、残るのはくさいガスだけ。そのくさいガスもまた、風がきて散ったら消えてしまう。それで終わりです。

 

 

   「わたしが止まっている」という錯覚のなかで生きてきてるんだな~  

      

           

 

 

        今日も最後まで読んでくださって ありがとう  

 

                       つながっているすべての人に ありがとう    

 

 

 

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