陽 気 村

フィーリングを楽しんじゃおうっと

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『紙ワザ工房3』

2011-01-30 | 造形
 『 紙ワザ工房 3 』

                   

                            

 

  本作家であり造形作家でもある菊地清 氏のペーパークラフト集です。

    シリーズ3は動物や干支を特集しています。

    切る、折るの目印のついた型紙(ケント紙)もついていますよ。

    おもしろそうなのでカルもいくつかつくってみました。

 

 

   1. ペンギン    光を浴びようよ

 

   

     

   2.ハト  平和なスペースでありますように

 

  

 

  3.白鳥  羽ばたこうよ どこまでもどこまでも続く大空を

 

  

 

  作っている時は、時間を忘れてしまいますね。

       さあ、次は、何をつくろうかなぁ

    

    

 

        今日も最後まで読んでくださって ありがとう  

 

                       つながっているすべての人に ありがとう    

 

 

 

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『「生」と「死」の取り扱い説明書』

2011-01-24 | 生き方
『 「生」と「死」の取り扱い説明書 

                        苫米地 英人 著  

 

 脳機能学者であり、日本仏教、チベット仏教の僧籍を持つドクター苫米地氏。

 「一人一宇宙」。  あなたが あなたの宇宙を生きるための取り扱い説明書です。 

 あなたが生きている意味は、あなたに しか見つけられないことに気づくでしょう。

 

 

釈迦にまつわるこんなお話があります。

釈迦は、弟子たちとともに、北インド地方を歩き続けました。北インドには雨季があり、道が泥沼のようになるため、その時期だけは精舎(しょうじゃ)にこもっていたのですが、それ以外はずっと歩き続けていました。
釈迦は布教というよりは、自らの悟りを目指していましたから、歩き回ることに大きな意味はないはずです。もちろん、目的地もありません。あるとき、弟子が釈迦に尋ねました。

「いったい、私たちは何のために、どこを目指して歩いているのでしょうか」

釈迦はこう言いました。

「歩くために歩いている」

つまり、歩くことそのものが目的だというわけです。

当時の人たちにとっては、非常に奇異に見えたようですが、現代の私たちにはまったく違和感のない話だと思います。「ドライブに行こう」と言うのと同じだからです。「ドライブに行く」と言うとき、それは「ドライブそのものを楽しむ」ことを意味します。一応、「海に行こうか」とか「山に行こうか」といったことは決めますが、そこへ行くことが目的なのではなく、ドライブという途中の過程を楽しむことが目的のはずです。

人生の最終目的地は明らかに「死」です。「天国」という人がいるかもしれませんが、死ななければ行けないのですから、同じことです。
「天国に行きたいなら、今すぐに天国へ送ってやるよ」と言っても、相手には喜ばれません。それは人生の目的が、最終地点にたどり着くことではないからです。ドライブをする目的がドライブそのものなのと
同様に、人生の目的とは「人生を生きること」なのです。せっかくドライブするなら、その時間を目一杯楽しんだほうがいいのと同じで、せっかく生まれてきたのなら、生きているその時間を目一杯楽しんだほうがいいということになります。


釈迦が言った「歩くために歩く」とは、すなわち「生きるため生きよ」というメッセージなのです。

 

 

   歩くこと  立ち止まること どちらも  楽しみましょうね!!

      

     

                

           最後までお読みくださって ありがとう 

              つながっているすべての人に ありがとう 

 

 

                                                

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『地球の笑顔に魅せられて』

2011-01-18 | 生き方
『 地球(ガイア)の笑顔に魅せられて 

                    高野 孝子 著

                              

    冒険家、野外活動家、環境教育活動家、

    自然活動家、フィールドコーディネーター、

    持続可能性教育専門家、CRSコンサルタント、ジャーナリストと

    たくさんの肩書きを持つ高野さんです。

    瀧村仁監督の『地球交響曲第七番』に出演されていましたね。

    自然と共に生きる高野さんの たくましさに感動です

    どこにいても前向きに生きる喜びが伝わってきます

    自然とこちらも〝元気〟になるんだなぁ  

    

   

 身体一つで大自然に生きる喜びを知る

 

 私のグループの役目の一つが、熱帯雨林の中で植生を調査し、川の地図をつくることだった。雨が降り、セーターが必要なくらい肌寒いことも多かった。キャンプ地では洗濯の後、次の晴れ間で何日も衣類が乾かない。私たちの「家」は、木と木の間にかけた、厚手のキャンバス地の大きな布の下のスペースだった。


カンテラを使い、肉はクーラーボックスに入れる。川の水で食器を洗い、おたまじゃくしや虫を取り除いて料理に使った。身体を洗うには、10分ほど森を歩いて滝を目指す。上がると身体にくっついた大きなヒルを落とさなくてはならなかった。こうした生活を、当時の私は「プリミティブ」と表現したが、今は「シンプル」と言う方がしっくりくる。東京での暮らしからまっすぐに移行した時は、不便だとは思ったが、自然に近い暮らしは気持ちよかった。文明は効率と便利さの追求であって、生命感や幸福感といったものとは必ずしも結びつかないことが実感できた。


この時まで私は、心身で自然と深く関わった経験をほとんど持っていなかった。しかしこの3カ月のうちに、心が震える感動や神秘的な体験に繰り返し出合った。
ある夜、キャンプ地付近の川原へと散歩に出た。自分の影に気づき、それが月によるものだと知った時の驚き。「月ってこんなに明るいんだ」と初めて知った。持っていた懐中電灯を消すと、静寂がすーっと私を包み込み、身体が軽くなって空気の中に溶けて浮いていくような気分になった。自然の中に迎え入れられた感覚だった。それがとてつもなく深い、生きている喜びとなって体中にあふれかえった。


くらくらするほど熱い日、水を飲みに来る動物を見ようと、何人かで潅木の隙間から湖を見ていた。野生化した牛が何頭か、ゆったりとやってきた。そこに他の動物も近づき、頭を垂れて一緒に水を飲み始めた。傾いた太陽があたりをオレンジ色に染めていく。動物のざわめきが頭の中に響き、それがどんどん大きくなっていった。


その時突然、声を上げてこのざわめきに加わりたい衝動にかられた。話しかけて行ったら、彼らは、どうするだろう。逃げるだろうか、それとも同じ生き物として横で水を飲めるだろうか。そんなことが、一瞬のうちに頭の中で巡った。目の前の動物と自分の命が、地球の上では何の違いもない重さだと感じた。


天気がよい日に熱帯雨林の中に入ると、空気が違う。気配を感じる。何だろうと心を漂わせていると、木々の間から差し込んでくるきれいな緑色をした陽光が、体内まですうっと入ってくる。その瞬間、幸福感のようなものが体内からふつふつと湧き上がってくる。


動物と同じ空気を吸い、同じ水を飲み、身体を動かして働く。大自然での活動は、この繰り返しだ。そうするうちに身体が強くなるのを感じ、内面も前向きになっていく。大きな自然の中にどっぷりつかり、身体一つで大自然に生きる喜びを知った。自然ってこんなに気持ちいいのか、こんなに大きく深いのかと実感した。

 

   自然にどっぷりつかるっていいですね~

           

          NPO法人エコプラス HP  →   ECO-CLUB  

  

            

          最後までお読みくださって ありがとう 

              つながっているすべての人に ありがとう 

                                             

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『なつかしいハーモニーの惑星へ』

2011-01-12 | スピリチュアル
『 なつかしいハーモニーの惑星へ 』

                  関野 あやこ 著 

 

    概念も、法則も、制限もない、無限のもともとの意識につながっていく・・・・・・・・

「意識をそこに向ければ、それが形となり、意識をそこからはずすと、それは波に戻る」

なんとシンプルでかろやかなんでしょう。

 

私たちはこの惑星で波動を下げて、
眠ることを選んで、密度の濃い制限の磁場に入っていき、制限を体感し、
自分と離れることで、地球のさまざまな法則やルールや、概念のバイブレーションを生み出して、

生み出すだけじゃなくて、
そのバイブレーションのひとつを選んで映像化して、
そしてもちろん意識は外に向けるから、その映像がすごくリアルに、
現実はものすごく起きてるって、圧倒的に凸凹感もあるし、リアルに体験ができる。

外に外に意識を向け、自分と離れて、離れれば離れるほど、出てきたバイブレーションは、
あたかも、すごく今、起きてるように体験できるからね。やれてたでしょ。どう?

例えば、挫折感ってさ、ただのバイブレーションだって思ったら、全然そんなドラマはできないよね。
挫折感は「挫折感」として感じないとね。

あなたが高い意識だったら、
地球のバイブレーションは、どのバイブレーションも、
「挫折感」であろうと、「悲しみ」であろうと、「力のなさ」であろうと、

ドレミファソラシドの「ド」と「ソ」の違いぐらいで、

地球の、ただのバイブレーションとしてしか見えない。
そしたら、全然、体感できないでしょう。

どうやったら、体感できるか。

それは、外に外に意識を向けて、
あなたがうんと自分と離れていくこと、
波動を下げていくこと、分離を強烈にしていくこと。

波動を下げれば下げるほど、単なるバイブレーションが、
ざせつかん、ざせつ感、挫折感、「挫折感!」ってなっていきます。

高い意識でいれば、
ただの地球のバイブレーションだってわかります。
挫折感であろうと、不安であろうと、恐怖であろうと、
力のなさであろうと、孤独であろうと、ただのバイブレーションとして見えます。

でも、ひとたび自分を離れていけば、
それは少しやんわり、ちょっと色がついたように、体感が始まります。

もっともっと、外に意識を向けると、どんどん自分と離れていきますから、
そのバイブレーションが、なんだかすごく強く体感できるように、
だんだんだんだん、ドラマティックになっていきます。

そして最後には、現実とくっつけられるでしょ。

これによって、これを感じる。

このことで、こんな思いをしてる・・・・・・・。

これを見て、挫折感を感じてたと・・・・・・。

この現実というものが、
ただの映画のスクリーンのように中立で、ただの映像だって気づいてしまったら、
あなたが体験したかった挫折感は、「挫折感」としては感じられなくなっちゃいますよね。

凸凹感があって、実際起きてるっていうリアリティがあるから、
あなたはそれを見て、嘆くことができたり、体感したりすることができる。

もちろん体感するには、あなたとうんと離れないと。

あなたにつながるということは、波動が上がってしまうので、
「挫折感」ですら、本当にただのバイブレーションになってしまいます。
この惑星で、自分と離れて生み出した、ひとつのバイブレーションだってわかってしまいます。
自分との分離を統合して初めて、私たちは波動を上げていくことができます。

でも外に意識を向けたまま、そのバイブレーションを統合しようとしても、
意識を外に向けた時点で、それはちょっとリアル感が出て、少し感じながらの統合になる。
つまり、ただのバイブレーションになってないですね。感じるものになってます。

そうすると、感じるものには、いい悪いの判断をつけられるから、
「これを早くはずしたい!」ってなります。

それは、あなたが戻っていく角度ではなく、
この地球の磁場の中で、「これが嫌だから、早くはずしたい」って、
制限の磁場から抜けていくことは起こしませんね。


 

 現実は中立で、感じているのは自分の中だけなんですね~。

   

              最後まで読んでくださって ありがとう 

                               つながっているすべての人に ありがとう 

 

                            

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『宇宙のセオリー』

2011-01-03 | スピリチュアル
  『 宇宙のセオリー 』

                     ヴァーノン・ハワード著

                監訳・解説 須藤元気 

 

   「20世紀最高のスピリチュアリスト」の名著だけに

「自分に対する新鮮な感覚」 に気づけそうな内容ですよ。

  

 慈悲深い王が、国の貧しい民に救いの手をさしのべようと思いたちました。
この王は賢くもあり、ただ施しを与えようとはしませんでした。働かずして得た金が人を堕落させるのを承知していたのです。そのかわり王は、長くて暗い谷のはずれに何軒もの食べ物と衣服の店を建てまし
た。

 

この店にたどり着くまでの道筋には、わらの人形が置いてあります。店に近づけば近づくほど、人形は恐ろしげな形相になっていきます。その恐ろしい人形から逃げずに先を進むことができた民だけが、王の褒美をもらえたのでした。


私たちのすべきことは、これと同じことです。感情の障害物に立ち向かって、薄っぺらな虚飾を見抜くのです。もしそれが実行できたら、嫌な感情は、波にのまれた砂の城のように跡形もなく消えてしまうこと
でしょう。
すると、いつしか非常に面白い心境に達します。これまで頭を悩ませていたことに、かかずらうのが時間の無駄に思えてくるのです。


あなたは見向きもせずに、そのそばを通りすぎます。あなたの注意を引こうと、恐怖や不安をあおろうとする子どもっぽい試みには、思わず苦笑をもらしてしまいます。新しい自分にはどんなちょっかいを出し
ても無駄なのだと、冷静なあなたは見ています。


この段階に進むと、実業家は競争の激しさや景気の悪さにたじろいだりはしません。妻は夫や子ども、親戚を怖がりません。夫は雇い主や友人に対して不安をいだきません。独身者は寂しさに押しつぶされ
そうになりません。市民は横暴な政府や世界規模の脅威に対して警戒心をもちません。このレベルに達すると、人が人を恐れるということがなくなるのです。
                           

             

     2011年も どうぞよろしくね  

 

                           

         最後まで読んでくださって ありがとう 

                               つながっているすべての人に ありがとう 

 

                            

             
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