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『 息の発見 』

2011-06-23 | 仏教

 『  息の発見   

                  五木寛之 ・玄侑 宗久  著

                                            

    お二人の対談本です。どちらも息を大事にされています。けれども二人のとらえ方の違いが随所に出てきます。人はこの世に生まれた瞬間は、息を吸うのか吐くのか。亡くなる瞬間は、息を吸うのか吐くのか。どちらでもよいようなことなのですが・・・・・

 

 

玄侑 :『大安般守意経』(たいあんばんしゅいきょう)に、息の出入りというのは、非常に微妙なものである、微妙なものに意識を集めるところに智慧が湧く、というようないいかたがありますね。「神は細部に宿りたもう」ということばもありますが、現実というのは、ほんとうは、ようく注意しないとわからないわけですが、そういうところが大切に見られない世の中になってしまっていますね。


五木: そうなんですね。それは私が、以前からいいつづけていることなんですが、体でもなんでも、細部末端がじつは重要なんですね。脳も心臓も大切だけれども、手足の指先などもおろそかにしてはいけない。呼吸にしても、呼吸器だけでしているのではなく、皮膚でも、髪の毛でも、声でもしていると思いますよ。

 

 

 

   ものに触れる瞬間を意識していると 

 はじめて 触れるものがけっこうあることに

 気づかされますよ。 

 まったく違うものでも 似たような感触の時もあります。

 カルのお気に入りは キヌの豆腐の感触 です 。 なんともなめらかです。

 かたちをくずさないように 持っている時が けっこう おもしろいんだなぁ~。

             

            

          最後までお読みくださって ありがとう 

              つながっているすべての人に ありがとう 

 

 

                                             

 

 

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『みんな、どんなふうに働いて生きてゆくの?』

2011-06-12 | 生き方

『 みんな、どんなふうに働いて生きてゆくの?

                   自分の仕事を考える3日間 2  』

                                 西村佳哲 著

                 

   前回に続いて西村氏の作品からです。

冬の奈良の図書館に、8名のゲストと、500名ほどの人々が全国から集まって、「仕事」や「働き方」をめぐって、語り合い、考える、イベントから生まれた本です。

北海道浦河町にある、社会福祉法人浦河べてるの家。そこでは精神障害等をかかえた人たちにお互いのつながりを取り戻すために海産物、農産物の通販などいろいろな事業に取組んでいます。
理事である向谷地 生良 さん(ソーシャルワーカー)との語り合いが印象にのこりましたのでUPしますね。
     

 

 向谷地  私の話をすると、この仕事を始めるきっかけになったのは、高校の修学旅行をキャンセルして参加した、ある障害者施設のワークキャンプです。 10代の高校生の頃、石川正一さんという筋ジストロフィーの若者の本に出会って、彼が書き残した詩が、自分の中に、ずっと重い問いかけとしてあるんです。

 

〝たとえ短い命でも 生きる意味があるとすれば それはなんだろう 

働けぬ体で一生を過ごす人生にも 

生きる価値があるとすれば それはなんだろう 

もしも人間の生きる価値が 社会に役立つことで決まるなら 

ぼくたちには生きる価値も権利もない  

しかしどんな人間にも 差別なく生きる資格があるのなら 

それは何によるのだろうか〟

 

10代の頃にこの詩と出会って、いろいろ考えました。
私たちはこういう人生にならないために、いろいろ勉強して、社会のリスクを避けて、避けて、避けて。そういう生き方をすることで、他の誰よりも幸せのパイを掴むことが出来るっていう。そういう価値観の社会や、教育における親子関係の中で生きています。
でもその先に、私が望んでいる世界があると思えなかった。自動的にブレーキがかかって、あと自分に対するすごい危機感が生まれて、大学に入ったら思いっきり苦労したいと思った。大学に入ると同時に親からの仕送りを断って、夜間介護人として特別養護老人ホームで働き始めたんです。住み込みでしたから、そこにいた人たちには孫のようにかわいがってもらっていました。お年寄りは夜中に亡くなります。その人たちを霊安室に運ぶのも私の仕事で。そうして働いていると、将来の自分と重なるわけですよ。

    ----- 重なる。

向谷地 そしてある種の、死ぬことや苦労に対する準備性が高まる。どんなにやりがいのある仕事をしたとしてもね、やっぱりいつかはそこから離れていくわけです。いつか出来なくなるし、今あるものはなくなるし。
さらに言えばね、救急病院にいたので、大きな事故があると本当に沢山の人がひっきりなしに救急車で運ばれてきます。そういう時は病院のスタッフ総動員で受け入れる。それはもう本当に修羅場ですよ。で、その修羅場が一段落したところで、今日一日よくやったな、頑張った。という感じで、控え室でタバコを一服したり、談笑するんです。

    ----- 充実感があるんだ。

向谷地 あるんですよ。やり遂げたなって。ロビーでは家族を亡くした人たちがすすり泣いていても、私たちにはやり遂げた充実感があるんです。この充実感や達成感をいただくのは、ちょっと控えておこうと。生じてしまいやすいものだけど、丁重に辞退するというか。そこで自分の仕事にやり甲斐や面白味を持ってしまうと、何か大事なものが失われる気がする。
そういう仕事からおこぼれを頂いて、自分の張り合いや生き甲斐にすることについて、ものすごく厳粛な気持ちになるんです。自分は自分で、自立的に「生きる」エネルギーを確保しない・・・・って。

大切な仕事かもしれないし、それを通じてさまざまな恩恵がもたらされるのかもしれない。それも大事なことだけど、なおかつ、自分が自立していく足場を持っているのは必要なことなんじゃないかな。
一つひとつのことにしがみつかずに済むように、自分の中にちゃんと別のレールを敷いていくことが本当の自立なのだと思う。そのことを大切にしてきました。

----先ほど、石川正一さんの「たとえ短い命でも・・・・」という詩が、ご自分の中に重い問いとしてあるとおっしゃっていましたね。いま向谷地さんの中で、その問いへの応えは?

向谷地 もし私が正一さんと同じ立場になって、その時「こんな身体で生きていくのは嫌だ」と自分を否定したら。私は正一さんのことも同時に否定したことになると思う。
連帯感とか、責任というものを、意識しているんですね。
彼は20歳までしか生きられないと言われて、23歳まで生きたけど、もしそのまま生きていたら同い年なんです。その正一さんが死んで、二十数年が経って、私が10代の時に彼の詩に出合って感じたことをいま伝えていて。

ここにはある種の永遠性のようなものがあります。この可能性は、みんな持っているんですね。ソーシャルワーカーとしての30年の歴史の中でも、私には既に何百人という人たちとの別れがあって、もう地上にいない。そういう名も無い人たちや、大学生の頃に私が特養(特別養護老人ホーム)で出会ったお年寄り、難病の患者会の人たち。こういう一人ひとりのつながりが自分の中で凝縮されて、こうして語ることで、別の形で今度は他の人の中に生きつづけるという。
そういう広がりや永続性があるので、だから生きている意味のない人はいない。ですから、私たちは「語る」ことをずっと続けていかなくてはならないと思うんです。名も無い人たちの存在を語り継いでいく営みを、ずっと絶やさずにいきたい。

 

 

   仕事からエネルギーをもらわない向谷地さんの働き方に

     とても大きな世界を 感じるんだな~     

 

 

                            

         最後まで読んでくださって ありがとう 

                               つながっているすべての人に ありがとう 

 

                            

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『自分をいかして生きる』

2011-06-07 | エッセイ

 『 自分をいかして生きる  』

                     西村佳哲 著

                 

   働き方研究家である西村氏。

就活している方や仕事をしている方にもおすすめですよ。

「正しい答え」なるものは、あるのか? 問いかけてきます。

     

仕事は「選ぶ」もの?

 仕事を「見つける」とか「与えられる」、仕事に「就く」、会社に「入る」といった言葉。
ここには、それを語る人の仕事観があらわれる。
中でも「選ぶ」という言葉には少し気になるものがある。仕事は「選ぶ」ものなんだろうか?

以前、ある企業の人事採用プログラムに関わって、就活中の学生たちと話を交わす機会があった。その際に驚いたのは、
就職活動をまるで成人の儀礼のように捉えている人がいたことだった。複数の内定を手に入れながら、「わたしはまだ『就活』を深めきれていないんです」と真剣に悩んでいる人が何人かいた。
各社が条件や理念と自分を照らし合わせながら、迷い続ける姿は、本人たちに申し訳ないが「間違いのない買い物」をしたがる消費者の姿と重なって見えなくもない。
いやこれは言いがかりで、むしろ問題は、大人がその時期の学生たちに供給している自己分析や適正診断プログラムにあるのかもしれない。要らぬ迷いを増やすような効果を、あれらは持っている気がする。通過儀礼を失った社会にも問題の根はあるのだろう。

正解を求める心の動きはどのように形成されるのか。間違いのない買い物や、損のない買い物、賢い買い物をしたいという感覚も。「深めきれていない」という言葉もそうだが、その辺りにはなにか強迫観念のようなものが透けて見える。
賢さや間違いのなさを求める観念には、人を、今この瞬間から引き剥がす作用があるように思う。いつもなにか他に、どこか余所に、正しい答えが、もっといいものがあるんじゃないかと気を散らす。

20年前に参加した勉強会で、あるマーケティング・プランナーが「現代人の人間の創造性は消費行動に集約できる」といった話を熱心に語っていた。
人間とはすなわち消費者であるということ。素直に頷きたくない話だが、言わんとするところはわかる。現代の人間、なかでも資本主義的な文化圏で生きているわたしたちは、豊富な選択肢の中から欲しいものを選び、手に入れるという作業を日々くり返している。テレビで、インターネットで、本屋さんで、スーパーマーケットで、セレクトショップで。(中略)


選択可能な現実がほかにもあると知ることは、精神の自由を可能にする。そのための知力や気力はあった方がいいと思う。
が、選べないことが貧しさになってしまうのは、選ぶことを課せられたゲームの中での話だ。そもそも、与えられた選択肢の中から選ぶことが、豊かなのかどうか。
カタログ化した社会で、価値をつくるのではなく選んだり買ったりして生きること。自分に合わせて選んでいるように見えて、実は与えられた枠組の方に自分を合わせているような事態が、頻繁に生じていると思う。

高度に情報化した社会には、読み応えのあるアウトドア雑誌のような可笑しさがある。さっさと出かければいいのに、その前に美しい自然の写真を眺め、他人の旅の逸話に目を通して、豊富な二次情報を摂取する。普段着でも山歩きはできるのに、間違いのないウェアやギア選びに時間をかけたり。
これと似た状況は、仕事や働くことの模索においても生じやすいはずだ。

選ぶ過程を通じて、自分が本当に欲しているものがわかってくるという側面はあるだろう。選んだり探す行為自体の面白さもわかる。たとえば子どものことを考えて慎重に重ねられる親の熟考を、間違いのなさや賢さへの強迫観念と同列にして語るのも失礼な話だ。
しかし人の弱みや、不安な気持ちの足元を見るようにさまざまな商品が差し出されていることや、人間が自ら積み上げた二次情報の厚い壁の内側で生きているような今の社会に、品定めのような情報処理を延々とつづけさせる環境特性があることは心得ておきたい。

「なんのために働くのか」とか「どう生きるのが良い」といった意味や目標を、わかりやすく提示してくれる本や職場には引力がある。
しかし、そもそもそれは、誰かほかの人間に提示してもらう類のものなんだろうか。
目的が最大利益の追求であれ、社会的公正の実現であれ、他の人がつくった問いを手にして、いそいそとそれに取り組んでいる姿は、解き甲斐のある問題を前にして腕をまくっている生徒のようだ。

現代国語のテストで見かける、「前後の文脈を理解して文中の空欄を埋めよ」といった問題に答えているより、出題に使われるような文章を、自分の物語として丸ごと書き下ろしてゆく方が面白いんじゃないか。そうでないと、生きていることが、どこか答え合わせのようになってしまうようにも思う。

 

 

   ベストなものを選んだつもりでもこんなはずじゃなかったっていう体験ありませんか?

 

                            

         最後まで読んでくださって ありがとう 

                               つながっているすべての人に ありがとう 

 

                            

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