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『 すでに目覚めている 』

2015-02-17 | スピリチュアル

『すでに目覚めている』  ネイサン・ギル著 古閑博丈 訳


 「心を躍らせる何か」をずっと探してきましたね~。

満たされない思いを何かで満たそうとする生き方に慣れ親しんできたせいかもしれません。

今ここで 満たされないと思う瞬間にも やすらぎはあり続けているというのに・・・・・・

今回は、Q&AからUPします。

                

Q それでも、ここでこうやって椅子に座っていると、この瞬間に起こっていることについての満たされない感じが生じてきます。人生を通して今までずっといろいろなものをつめ込まれてきました。期待とか、希望とか、道とか、探求とか、あらゆる種類の筋書きとか。でも実際には何もないわけです。そうすると、味気なさだけが残ります。そうですね、実際これはまったくの味気なさです。徹底的な惨めさと言ってもいいくらいです。あまりいいものじゃありません。

 

A あなたが味気なさと呼んでいるものは、じつはやすらぎと気楽さです。それはずっといつでもあったものですが、今はそこから探求、希望、前進、進歩といった「心を躍らせる」何かが抜けています。登場人物としての同一化が完全に崩れるということが起こっていると、最初は、ただあるということにくつろぐだけで十分だと思えないかもしれません。それから、その味気なさには、大海というを航海するスリル満点の探求という冒険を失ったことを悲しんでいるといるという側面もあります。

探求の対象になっているのはここにずっとある気楽さで、それ以外にはありえません。ところが、気楽さとしてくつろぐかわりに、気楽さを対象として探し求めるスリル満点の探求に没頭するということが起こります。

登場人物としての同一化が崩れる際に、場合によっては「私」が完全には見抜かれないことがあって、そうすると「私」があるという思い込みと一緒に不完全さの感覚、全体ではないという感覚が起こります。でも、全体性を探そうとする動きが起こると、すぐにその動きの本質は見抜かれます。全体性を探すなどということがありえないとわかって、「私」はまた崩壊してしまうんです。このことは荒れ野にいる状態と呼ばれたりしますが、まさにその考えに思考が焦点を合わせて、劇の中で待機のゲームが起こります。「私は荒れ野にいるんです」というのは、探求のひとつの形態です。

  

  訳者 古閑博丈氏のブログもおすすめですよ ⇒ http:/resonanz360.com      

 

 

   

 

            最後まで読んでくださって ありがとう 

                                つながっているすべての人に ありがとう 

 

 


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