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『チベット仏教の真実』

2010-05-28 | 仏教
『 チベット仏教の真実 』

                  野口 法蔵 著 

 

   五体投地を四百万回満行された著者。本書は20年以上前に自費出版されたものを再出版されたものです。禅独自の修業に悟ったと自覚しても20年は隠せと言われる修行があるそうです。五体投地のお話というよりも、野口氏の求道の姿勢が伺える一冊です。命をかけてアジアを渡り歩いた野口氏はとてもエネルギッシュです。 

 

 

インド北西部のカラコルム山中、鉱物世界にあるこの人里離れた寺には、私の興味を引く男が二人いる。二人とも僧侶ではない。一人は名をスタンジンと言い、寺の雑用を引き受けている。いわば寺男である。この四十近い男がどういう由来で寺にいるのかわからないが、特筆すべき性格の持ち主である。彼は絶対に怒らない。何をされても何を言われても、どういう状態になっても、平然としている。そして、眠っているとき以外はいつも笑っている。ちょっと見には気がふれているようだが、そうではない。さすが寺男だ、怒らないということを実践しているのか。

若い僧が頼む。

「スタンジン、下の泉から水を運んできてくれ」
それは寺男の仕事ではないが、スタンジンは嫌だとは言わない。大きな胸は高鳴り、呼吸はハァハァと苦しげなのに、顔は笑っている。四千メートルの高地、草もまばらで人もいないのに、誰に笑いかけてい
るのか。日が真上を過ぎてもまだ水運びをしている。夕方になり、山の斜面にある僧室から見ると、はるか下のほうに、虫がもんどり打ったように、ジタバタしているものがある。行ってみると、スタンジンが頭から水をかぶったまま、地面にひっくり返っている。

「どうしたんだ?スタンジン」
「足が立たない」
「今まで水を運んでいたのか?いったい、何回目だ?」
「ニシュ(二十回)」

銅瓶はその重さが十キログラムあり、水が二十キロ入る。計三十キロとなる。空気の希薄な高地で、急な斜面を運び上げる。私のような若い者がやっても、五回汲んでくると、足腰が立たなくなる。頭から水をかぶったまま、天空に笑いかけながら、いつ来るかわからない助けを待っていたのである。私は腕組みしてしまった。どのようにしたら、このように怒哀を笑いに変えられるものか。

中国の禅の先達、徳山は怒りの心のない牛を見て

「わしは牛になりたい、わしは牛になりたい」と言ったそうである。

「腹は減ってないか」
「減った」
と笑う。

相手がいかに怒ろうと、どんなに不運になろうとスタンジンは笑っている。インドにもチューラパンタカという仏弟子が何もせず、雑巾がけだけをして悟ったという話がある。怒らない境地、それは一つの悟りだろうと思う。

きっと、この男は死ぬときも笑っているだろう。「笑って死ねる人生があればよい」という文句があるが、この男以外には当てはまらない。オマニベメフン(真意のままに)を目の当たりに見ているような気がする。

 

                           
 もう一人は、ウルゲンという、足のなえた七十歳に近い老人です。ウルゲン老は絶対に笑わない。いつも睨んでいる。いつもにらんでいるのだが、そこが日なたであろうと便所の前であろうと、微動だにぜず、何時間でもただじっと座っていれるという。(詳しくは本書でどうぞ)野口氏は二人を尊者と呼んでいます。

身近に尊者と思えるような方いませんか?

  

   

              最後まで読んでくださって ありがとう 

                               つながっているすべての人に ありがとう 

 

                            

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『こころの花畑』

2010-05-23 | 生き方
  『 こころの花畑 

                        小林 正観 著  

 

 「大宇宙の中の光」からですが、宇宙を、ピーナッツやカキの種で例えてま~す。

カキの種を食べる時に思い出しそうです。   

 

 

 まず、ピーナッツを思い浮かべてください。裸に剥いたピーナッツの片割れを想像できますね。その大きさは横幅が1cmで縦が1ミリ、薄いカキの種くらいのものだと想像してください。これが私たちの住んでいる「天の川銀河」です。

 

「天の川銀河」、実は私たちが「天の川」と呼んでいるものは、横幅が10万光年で、縦が1万光年の、10対1の平らな円盤状のものです。横の幅が10万光年でこれがディスクと呼ばれ、縦のバルジが1万光年です。10対1です。そしてこのカキの種くらいの大きさ、1cm×1ミリのものが「天の川銀河」で、2000億個の恒星が集まっています。その「天の川銀河」の中心からちょっとはずれたところに、太陽という名の一つの恒星があります。その太陽の3番目の惑星が地球です。「天の川銀河」は太陽のような恒星が全部で2000億個集まっています。その太陽が2000億個集まっている「天の川銀河」を、今カキの種くらいの大きさだと思ってください。

 

では次にこのカキの種が400個くらい集まって、バレーボールくらいの大きさを構成しているのを想像できるでしょうか?その中に我々の「天の川銀河」も含まれるので、無理やり「天の川銀河団」と呼びます。本当は一つのカキの種くらいの「天の川銀河」なので、バレーボールくらいの大きさの代表に自分たちの名前を偉そうに付けてはいけないのかもしれませんが、とりあえず他の名前のつけようがないので、この400個くらいカキの種が集まったバレーボールくらいの大きさのものを「天の川銀河団」と呼びます。

 

隣には別の銀河団があります。一番近い銀河団が、6メートル40センチ先にあります。数字で言うと6400万光年先です。これが天の川銀河団の隣「おとめ座銀河団」で、広い意味では大きさが直径100メートルくらいあります。その中に、カキの種がどのくらい入っているかといういうと、2500億個。隣の銀河団は、とてつもなく大きいのです。6メートル40センチ先のめちゃくちゃ大きな銀河団「おとめ座銀河団」。それはカキの種が2500個ではなくて、2500億個入っている、とてつもなく大きな銀河団なのです。

 

そして一方2006年8月くらいに新しく発見された一番遠い銀河団は、1880m先。その遠いところまで銀河団があるということが発見されています。
一応今私たちが分かっているのは、半径1880m以内のところに、東京ドームくらいの大きさの銀河団や、バレーボールくらいの大きさの我々の天の川銀河団があり、こういう銀河団が、1880mの半径の
中に、数千個あるというところまでです。立体の1880mですから、上も下もあって、中には銀河団が数千個あります。その中のお隣さんが東京ドームくらいのとてつもなく大きな銀河団で、私たちの住んでいる「「天の川銀河」は、このバレーボールくらいの「天の川銀河団」の中の、カキの種一つ。

 

しかしこの一つが、恒星2000億個からなる銀河、私たちの「天の川銀河」なのです。その2000億個の恒星のうちの1個が太陽で、その内の3番目の微粒子を「地球」と言います。その微粒子の上に存在している60億の生物を「人類」と呼びます。宇宙から見るとまったくまるで「微生物」です。

 

ちょっと気の遠くなるようなスケールの大きい話をしましたが、要するに宇宙レベルで見ると、地球上の人類は「微生物」くらいの小さな小さな存在であるということです。
そのちっぽけな微生物同士が競い合って「売り上げを上げた」とか「隣の人より成績が良かった」とか・・・・・。
「それがどうしたの?」と言いたくなりませんか?

 

 

   昨日の夕方、ドラゴンのような雲が出てましたよ。見た方もいらっしゃるのでは。

見たいようにみているだけかもしれませんが・・・  

 

      神の手に見える星?→http://news.ameba.jp/gizmodo/2010/05/65579.html

                    

         

           最後までお読みくださって ありがとう 

              つながっているすべての人に ありがとう 

 

 

                                                  

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『 私は私 』

2010-05-16 | 仏教
  『 私は私 』

                   ガユーナ・セアロ至道録

                            

 

  ガユーナ・セアロ(日本名:陽月院)は定住する寺を持たず、〝慈悲の旅〟を自らの道として歩む、ミャンマー(ビルマ)上座部仏教で得度した日本人僧侶です。

講話会での質問にセアロが語られた言葉を収録した一冊です。お坊さんなのに、仏教の専門用語が語られていないなんて・・・。その辺にとても好感がもてます。

タイトル通り〝私は私〟を楽しんでいらっしゃるのが伝わってきますよ。

笑顔がなんともいいんだなぁ~。

 

 

 まず、この世の中で自分しかいなかったらどうするか、考えてみてごらん。


自分という肉が、己の感情を受け止める最初のものである。動きなさい。汗をかきなさい。自分で、自分のために。人に見せるためや、評価を得るために動こうとすればするほど、自分を愛するところから離れる。

 

「私はこれをしている私が大好きだ・・・・」、そういうものを見つけてごらん。草取りでも掃除でも何でもいいじゃない。自分が自分を褒めて好きになれること。意識をそこへ向けてごらん。


そうしていると、最初に自分のことを感じているのは自分だ、というのが分かる。〝愛する〟というのはね、最初は、自己満足から始める。トイレ行くだろ。あれは、まず自己満足だ。あれ我慢すると、自己満足ないよね。でも、やっぱり行くだろう、自然に。風呂、入るね、素っ裸で。かっこつけながらはいらないだろ?スーッと自然に入って、「気持ちいいなー」ってさ。自己満足だよ。

 


何もなくても、誰もいなくても、自分だけが感じるものを、自分のために、他者の力を借りずにやる。何だっていい。そこから始めてごらん。そしたら〝自分への愛〟というものが見えてくる。

 


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 


人間はね、人の利のために働くなんて、出来ないって。みんなが喜ぶことを願って奉仕するのは、自分が嬉しいからだろ。やはり、自分が愛している自分を幸せにしたいからだろ。人に奉仕するのも人を愛するのも、愛したい自分がここにいるから、そうしたいと思うんだろ?

 

一番最初の利は自分じゃないかい?生きているという自分が居るから、それができる自分は幸せだ、ということだろ。その対象物があるから、その人のために、と言っているだけだろう?

 

寝たきりになってる人、明日食うのに困っている人、私はそういう人がいる所へ行くけれど、必要なものを持って行ってる自分が居てるだけなんだ。その人のために、私が何かしたから偉いんではなく、している私は、私が好きだな、と言っているだけで、褒めてもらうためにするんだったら、こんな大変なことしませんよ、私は。暑いぞ、ビルマも。
 

 

  どこにいても、何をしていても一瞬一瞬の自分を 楽しみましょう。

 

   陽月院HPの中のフォーチュン メッセージ 今の君へではセアロが答えてくれますよ。

       → http://www.cealoworld.com/You-Getsu-In/ 

   もう少し深く知りたい方は 平安への道 をどうぞ   

        → http://chigen.ddo.jp/~gayuna/messege/heian_00.htm

 

 

        今日も最後まで読んでくださって ありがとう  

 

                       つながっているすべての人に ありがとう    

 

 

 

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『あるがままに生き死を見つめる7つの教え』

2010-05-05 | 生き方
『 あるがままに生き 死を見つめる7つの教え 

                        帯津 良一 著  

 

 人間の体は空間だらけ。その空間は、空気もなければ体液もない「生命場」。この空間があるから手術ができると帯津氏は言います。

人間は、皮膚を通して「外界の場」と「体のなかの場」とは自由自在に行き来しています。外界とは、隣人はもちろん、日本、世界、地球全体、太陽系、宇宙全体、虚空のこと。

読んでいくうちに 虚空とつながっていくような気持ちになるんだなぁ・・・・。

 

 

 「身体を寛放せよ」
という言葉があります。これは天台大師がいった言葉で「天台小止観」に出てきます。もちろん私もこれをくまなく読んだわけではありませんが、「寛放」という言葉にすぐに魅かれてしまいました。私たちの身
体の中の〝場〟は皮膚や呼吸を通じて外とつながっていますが、それをもっと先に進めて中に残っているものを全部解き放ってしまうことが身体を寛放することだというのです。

身体をがっと虚空に広げちゃえ、というのですから、これはすごい言葉だと思います。心と体を全部開いてしまう。これが大事なんですね。

 

モンゴルで虚空と出会った

 

私は、スケールの大きな養生を感じさせてくれる場所に出会ってしまいました。それがモンゴルの大草原だったのです。

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草原の広いことといったら、いくら行っても草原なんです。そのときびっくりしたのは、どちらを向いても何もない。見えるのは地平線だけ。でもひょいと見たらはるか向こうに小さな黒い点が見える。それがだんだん大きくなってくる。人馬だったんですね。

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モンゴルの草原は、草の「緑」と、空の「青」と、ぽかっと浮かんでいる雲の「白」の三色だけの世界。まるで虚空のなかに顔を突っ込んでいるような気になってきます。

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本当に天に棲むという気がしてくる。私はこんな雄大な空間で気功や太極拳をやったらさぞかし気持ちいいだろうなと思ってやってみました。ところがどっこい甘かった。あまりにも壮大なもので、自分がアリのように思えてきてすぐにやめてしまいました。


そのときに気がついたんですね。気功というのは地に棲む人が天と交流するためにやるものであって、草原の人はすでに天に棲んでいるからやる必要はないんだ、と。そこは何もしないでぼーっとしている
だけで、エネルギーが与えられるような、そんな場所なのです。

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私はモンゴルの果てしなく続く草原にたたずみ、ただそこに座っているだけで私の〝場〟が癒されていくのを感じます。そこに自分の〝場〟の記憶があったような錯覚さえ覚えてしまいます。
そういう場所を求めていくと、その場所が持つ自然治癒力にも出会えることになります。自然治癒力は人間だけが持っているものではありません。一見すると生命の無いように見えるものにも実は自然治癒
力はあるのです。


場所の持つ力は私たちの自然治癒力を高めてくれるはずです。そしてどんな人にもそれぞれどこかに自分の生命の場が存在すると思います。


人生の折々で、肉体を持つ以前に自分がいたかもしれない懐かしい場所を探し当ててみるのも人生のひとつかもしれません。

 

   今日は、高さ378メートルの山に登ってきました。久しぶりに、足で感じる土の感触にうれしくなりました。カルもどこかで「場所の持つ力」を探しているのかもしれません。今日もありがとう!!

                    

         

           最後までお読みくださって ありがとう 

              つながっているすべての人に ありがとう 

                                                  

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